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写真展開催 着想のうらがわ

本日より、僕の個展、「人と生きものとの狹間」(アンコール開催)がはじまりました。静岡県三島市にある、三島スカイウォークでの開催です。写真展は今回をふくめて4度めになりますので、ほんとうに感謝しかありません。


僕が12年間のうちに、アラスカで費やした撮影時間はおそらく、ざっと見積もって1000日程度かと思われます。

そのなかで、「個人が決定的な場面に遭遇する可能性」がどの程度であるのかを、よく把握しました。

これは能動的に動き回ったとしても、ということを付け加えておきます。

これは、動物の数が少ないからではありません。すべての野生動物が、人間を避けるからである、ということと、僕自身の技術と生活の限界でもあるわけです。

今回の写真展は、写真の人生のうちの半分は費やしただろう、そういう想定から厳しく次を見定める必要がある、という想いも、展示の裏側にはこめられています。

ところで、自然写真に新天地はあるのか。

難しい問題です。

正直、僕が展示している写真は、表現としては何も新しいことをしていません。音楽で言えば、誰もが使える楽器を使って、モーツアルトの楽曲を演奏しているのと同じです。

なにが言いたいのかといえば、この写真展では「目新しいもの」ということにフォーカスを置いた展示ではないということです。

これは、見る価値がない、と自分を貶めているのでは、もちろんありません。原始自然の残されたアラスカに行ったとしても、見ることのできない深い自然のワンシーンのいくつかを、僕は確かに収めています。

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しかし、この写真展では、写真よりも僕自身の自然の見方にフォーカスがおかれており、それを僕の作文とともに鑑賞いただくことをメインとした展示なのです。

詩のようなストーリーとともに写真を見てゆくという、その意味では、すこし珍しい展示形式と言えるかもしれません。

ただ、奇をてらうことに意味はありません。

ぼくは、生きとし生けるものと、人間との関係性をよく考え、この展示形式で自然写真家にできることの新しい可能性を探っています。

いまの自然写真の分野・領域内に、新天地はありません。それは、写真をはじめて、自分の目に新しいものをアラスカで一通り撮り終えたあと、すぐに気が付きました。

ここから切り開いてゆくには、他の領域との混淆(こんこう)、まじりあいが必要であるということです。

これはまるで、15世紀のオランダで発達した西洋絵画のあと、あるいはバッハやベートーベン時代の直後のクラシック音楽、あるいは20世紀初期の物理学の領域でも同じようなことが言える。つまり、変化・発展のない静かな時代です。

写真というのは、すべての人が簡単に写真を撮れるようになって一つの時代があきらかに終わり、ほぼ同時に、写真表現も出し尽くされたといえます。

では、僕は何をしたいのか。

この展示のために書いた文章を、自分の心の奥底から紡ぎ出してくるという作業の中で、ぼくはひとつのことを体得しました。

それは、我々の「動物の見方」あるいは「自然観」と言ってもいいですが、それを変えてゆかねばならないということです。写真家としてそれを狙うことは、可能だと考えています。

しかしこれは、大きな命題です。

僕一人でおこなうには、明らかに力が足りません。

このような形而上的ともいえるおおきな命題は、直接つかもうとすると失敗するということくらいは、35歳までに学んでいます。

では、どういったアプローチがとれるのか。

それは、その命題に直接繋がりのある、多くの細かい部分に分解し、その欠片のなかの欠片ともいえるたった一つのことに、まず着手する必要があるということです。そして、それを細心の注意を払って遂行する。

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抽象的な話が続いたので、具体的にこれを話してゆきます。

僕は、アラスカのある島でオオカミが生きていることを知りました。この島に住むオオカミは、大陸に住んでいるオオカミとは、体の大きさ、食べ物、縄張り争いのような暮らし方まで、大きく違います。

そして、このオオカミを調べれば調べるほど、過去に日本の本州島に住んでいたオオカミらしき生きものの、その想像上の暮らしぶり、剥製から見る体の大きさ、推測されるなわばりなど、つまり暮らしぶりが、かなり似通ったオオカミであることを直観しました。

動物のことだから興味が薄れてしまう、あるいは一般にまだまだ浸透しにくい話であることは、もちろん承知の上で、しかし、こういった動物たちの営みや生活スタイルにまで突き詰めて見ていかなくては、ほんとうの意味で彼らを保護していくことなどできません。

また、オオカミなんだからどこの大陸にいても同じでしょう、という意見があります。ここアラスカの島のオオカミは、海由来の食べ物を多くとって生きています。つまり、毎年決まった時期に大量に遡上してくるサケ、浜にときおり打ち上げられるアザラシやクジラの死骸をたべて生きています。もちろんシカをとれるときはシカもたべます。

あきらかに、大陸に住んでいるオオカミとは暮らしぶりが違うオオカミなのです。

このオオカミごとの暮らしぶりの違いは、人で言うところの文化の違いといえる部分なのです。

現代はあまりにも、DNAや形態学といった科学に基づいた「機械論的パラダイム」で動物を見ています。そうではなく、動物の暮らしぶりをベースにした「生命論的な」方法でその生物を見ることはできないだろうか。


さて、大本の話に戻すと、ここを学際横断的に別領域を混ぜ合わせ、自然の一つの見方というものを形作れないか、ということを考えています。

まとめると、これまでにない動物の暮らしぶりをひとつの「文化」としてみる自然観です。5,6年にわたり考えてきたことですが、正直、僕自身まだうまく捉えられていないのは事実です。

そのファーストステップとして、この島オオカミを対象に、僕は現場のジャーナルを含めて科学者と、DNA解析から暮らしぶりの観察までを追う自然科学研究の準備を進めています。

この領域には、人と生きものとの新しい関係を見つけることのできるすばらしく広大な新天地が開けています。

いま進めている研究で成功したときに得られるものは、「ごくわずかな意味あることの欠片をとりだせる」にすぎません。しかし、そうなると、次の研究への道が開かれる、といった具合です。

これは僕が研究者になったということではありません。ぼくは「写真家」なのでその仕事を進めます。

ここに、自然写真家の新たな境地があるということを、僕は見定めているわけです。

結論になるかどうかはさておき、カメラマンのように写真を撮って終わりではもちろんなく、自然写真家は、自然の見方を変えてゆくような、「あらたな自然哲学を唱導してゆく時代」になるだろうと予期しているし、その役割を果たすような職業やムブメントがないこの時代に、そうしていく必要があるという僕個人の強い思いがあるのです。


2020年12月12日
中島たかし






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