【エッセイ】父親という存在
今日、ふと「父親」という存在について考えてみた。
わたしが産まれてすぐに出て行ったという父親。
娘が22歳になった今、どこで何をしているのか。
母は、あまり父親のことは話そうとしない。いや、わたしが興味を示さないから言わないだけなのだろうが、時折ぽつりぽつりと「あんたの父親はこうだった」と言う以外には、語らない。
なので、名前もはっきりと言えないくらいにはあまり父親のことは詳しくは知らないのだが、どうやら機械に強かったことやド理系だったこと、真面目で無口だが、酒癖が悪かったことや背が低かったことなどは知っている。
いつだったか、母と父の結婚式の写真を見たことがある。その写真は、なんだか見てはいけないもののような気がした。初めて見た父親は、「酒癖が悪い」という点だけで想像していた最悪な人物像よりも、案外普通の顔をしていて驚いた。
平凡な男性といった感じで、「へえ、この人がわたしの父ちゃん」と、それくらいの感想しか浮かばなかった。
一緒に住んだことがないので分からないが、超がつくド文系のわたしとは気が合わなかったであろうことは明白だ。背が低くて真面目で無口なのは似ているが、無口同士、弾んだ会話が出来そうにもない。
もし父親がいたら、親子喧嘩とかしてたんだろうか。
余談だが、初対面の人に家庭環境を聞かれたりすることは多々ある。その流れで「父親がいない」ことを話すと、よく気まずい雰囲気になる。「あっ、そうなんだ、ごめんね…」と謝られることも結構ある。
でも、父親が最初からいなかった身からすれば、「いないもんはいないけど…」くらいのテンションで話しているので、その相手の反応にこちらも驚く。
「家族の形」はもう「従来」の形ではおさまらないくらい多種多様になっているし、そろそろ「父親いない」くらいのエピソードでいちいち気まずくならないでほしい。
産まれてこの方、「父親」という存在にちゃんと触れたことがないので、父親がどんなものかわからない。友人から聞くエピソードから想像するに、鬱陶しかったりする存在のようだけれど。でも、その一方で世間には「いい父親」ってのがちゃんと存在しているらしい。
わたしは個人的に「イクメン」という言葉が嫌いなので使いたくはないが、その「イクメン」と呼ばれるような男性がいる一方、わたしの父親のように、どこかへ行ってしまったり、「いるだけ」のような男性もいるわけで。
この違いはなんだろう。ちゃんと「父親」になれる人間と、なれない人間の違いは。
わたしは、父親に対してなんの感情も持っていない。…いや、ちょっとはある。
わたしのことをどう思ってるのかな、とか。そもそも覚えてるのかな、とか。うっかり町で会ったらドラマみたいに感覚で父親だって分かるのかな、とか。何、ほっぽっとんねん!とか。
まあ、結局「うーん、いない方がいいな」になりそうだから、いなくていいんだけれど(いない方がわたしにとっては慣れてるから)。
でも、不思議だなあ、父親のことを今更「父親」とは思えないけれど、確かにこの世にわたしの「父親」がいるという事実は。
たまに、見る夢がある。
誰かのお葬式、集まった親族の中にわたしそっくりの女の子がいるのだ。その女の子は、その子のおばあちゃんらしき女性に手を繋がれている。一方、わたしも自分のおばあちゃんと手を繋いでいる。わたしは、おばあちゃんに「あの子、だあれ?わたしそっくりやね」と言う。おばあちゃんは、驚くような、悲しいような、なんとも言えない表情を浮かべて、小さい声で教えてくれる。「…あの子はあんたの妹よ。遠くに住んでるの」
母と別れた時、まだ父も若かっただろうから、再婚して、子供がいてもおかしくない。
この世に、顔も名前も知らない「きょうだい」がいるかもしれないのだ。
上記の夢は、子供の時から定期的に見る夢で、わたしが成長するにつれ、夢のわたしも女の子もきちんと成長している。
「これが、きょうだいがいるという『神のお告げ』だとしたら?」と、ちょっと面白く思っている自分もいる。
…もしかしたら、気付いていないだけで、すれ違ってたりしてなあ。