僕の罪と罰
冷たい手に息を吹きかける。夜行バスを待つために集まった人たちの声がモザイクのように感じられ、知らない異国にいるような気分になった。見上げると名古屋駅のツインタワー。エレベーターが光りながら上下しているのをぼんやり眺める。明滅する赤い光は何を表しているのだろう。この世界には、僕には読み取れないサインがそこら中にあって、そういうものを感じると、いったいどうやって生きていけばいいのか、自分がどこから来て、どこへ向かおうとしているのかわからなくなってしまう。不安が胸に滲み寄るのを感じ、コートの胸元を握った。呼吸を深くゆっくりとしなければならない。けれど僕の肺は急に酸素を掴むのが下手くそになったように喘ぎ始めた。心臓の音が周りに聞こえるのではないかと不安になった。しかしこの世界で僕に注意を払う人間なんてどこにもいない。モザイクの間を割って、芸人の大げさな声が耳に届いた。振り返ると、ビルの大型ビジョンで何かのコマーシャルが流れていた。その内容は全く頭に入ってこなかったが、大型ビジョンはある記憶を蘇らせた。それは大学に入学した年の四月のこと。
僕は駅近くのビル二階に入っている喫茶店で人を待っていた。目の前のガラス越しに駅から出てくる人が見え、制服姿の男女が寄り添って歩くのやスーツ姿の男性が時計を気にしながら足早に歩いて行くのをぼんやり眺めていた。窓の左側には駅から道を挟んだ向こう側にビルがあり、側面にある大型ビジョンが地元企業のコマーシャルを流していた。とん、と右肩を叩かれて振り返ると、反対側から有村優香が「よ!」と顔を突き出して右手を上げていた。僕は彼女の短いスカートを見ないように顔を上げた。
「ごめん、待った?」
「んー、ちょうどいいくらい」
優香は「疲れたー」と言いながら椅子に倒れこむように座って足を組んだ。だから僕は視線をテーブルの上のメニューに集中させる。
「何頼んだの?」
「フリーティーってやつにした。なんかいろんな紅茶選んで出してくれるんだって」
「へー、いいね、私もそれにしよっかな。あー、パフェめっちゃ美味しそうじゃん!」
身を乗り出してメニューに見入る彼女はいつも通り目まぐるしくて、僕はほんのちょっと笑った。
「なに?うるさいって?」
「いや、いつも元気だなあって」
「なに年寄りみたいなこと言ってるの、同い年でしょ?あれ、中也くんって留年してたっけ」
「いや、同い年だよ」
「だよね。なんか落ち着いてるからさー。皇太なんて今日も合コンだって!それしか頭にないのかっつーの」
メニューを捲りながら優香がまくし立てる。僕はそんな彼女のよく動く赤い唇を見つめていた。
「あれ、いいの?」
「何が?」
手を止めて射抜くような視線が僕の目を捉える。綺麗な目だ、と思って吐息が漏れた。永遠みたいな一瞬。心臓がとくんと波打つ。僕の唇は震えるが、何の音も紡ぎ出せなかった。優香の真顔がゆっくりと崩れ、いたずらっ子のような笑みが浮かぶ。僕は何故か「しまった」と感じた。
「中也くん、私たちが付き合ってると思ってたでしょ」
「あ、うん。違うの?」
「違うよー。あんな女ったらしダメダメ。私はね、一途な人が好きなの」
そこで彼女がとびっきりの笑顔をするので、僕はなんとなくドギマギしてまたメニューに逃げる。
「何頼むか決まった?」
あはは、と何故か笑って優香もメニューに目を戻した。なんだか室温が上昇したような気がする。紅茶をもう二杯も飲んでいるからだろうか。
「んー、じゃあ私も一緒のにしよっかな」
「最初の一杯は選べるんだって」
「えー、多すぎて決められない!あ、誕生日ティーだって、これにしよ」
「めっちゃ早いじゃん決めんの」
僕らが笑いあっているとちょうど店員さんがやってきて笑顔でオーダーを訊いてくれた。それから優香はいつの間に選んでいたのか抹茶パフェも頼んだ。
「誕生日なの?」
「そうだよー、今日ね」
「ほんとに?おめでとう。じゃあ優香ちゃんのが年上になるのか」
「そうなるね、不服?」
「ちょっとね」
「言うじゃん。中也くんはいつ?」
「九月」
「んー、二十日?」
「惜しい、二十五日。あばれる君と一緒」
「嬉しいの、それ」
「じゃあ、浅田真央ちゃんと一緒」
「そっち先に言おうよ」
メニューを戻しながら優香は笑った。よく笑う、いつも元気な太陽みたいな子だ。僕とは正反対。紅茶が運ばれてきて、彼女は大げさに手を合わせた。
「改めて、誕生日おめでとう」
「ありがとう。まあ、本当は十一月なんだけどね」
「は?」
「あはは、また騙された」
僕は目を細めて彼女を睨んだ。まだ出会って数日だが、彼女はよく無駄な嘘をつく。嘘というか、冗談というか。例えば皇太と三人で動物園に行ったら「動物園なんて十八年ぶりにきた」なんて言うし、僕が気づかずにスルーすると「ちゃんとツッコンでよ」と怒る。まったく、油断ならない。
「それで、話って何?」
紅茶を一口飲んでしばらく食レポごっこを楽しむと、優香はテーブルに肘をついてその上に顎を乗せ、僕の目を覗き込んだ。自分がかわいいことを知っていてやっているんだ、と最近ようやく気がついた。
「うん、皇太のことなんだけど」
僕がそう始めると、彼女はあからさまに顔を歪めた。それはごめん、と思いつつも僕は続ける。
「あいつのあのクセ、やめさせられない?」
「クセって、全部奢ること?」
「そう、なんか、気分悪いよ」
優香は「無理無理」と言って手を振った。
「あいつ中学の時から誰かが喉乾いたらポンと千円渡してたんだよ?今更治んないよ」
「金あるのはわかるけどさ、なんかね、やだ」
「ふーん」
ティーカップの縁を指でたどりながら、優香は紅茶の波紋を見つめていた。僕は彼女の瞳の中で波打つ黄金の波が見えるようで、なんとなく不安になった。何か間違ったことを言った時のように。
「何がふーん?」
「別にぃ」
しばらく僕は不安げに彼女を見つめていたが、そんな僕に気づいたのか、優香は不意に悪戯っぽく上目でこっちを見て笑った。
「なんですか」
「怒ったと思った?」
「別にぃ」
失礼します、と店員が声をかけて抹茶パフェを運んできた。優香は大げさに手を合わせて嬌声を上げる。そんな彼女を見てなんだか力が抜けてしまい、僕はため息をついて椅子に深くもたれかかった。
「いっただっきまーす!」
パフェの撮影会が終わると優香はロングスプーンを頂上から大胆に差し込んだ。しかしアイスは思いの外硬かったので跳ね返される。
「ちょっとそっち押さえてよ」
「どっち?」
パフェなんか普段食べることのない僕は攻略法が見えず苦戦した。優香は自分の好きな白玉を確保しておいて、苦手な小豆は「好きそうだからあげる」と言って僕の方へよこした。窓の外ではゆっくりと空が暮れていく。透明な黄金が雲を装飾し、まるで何かの存在を予感させようとしているように思えた。
「ゴールデンウィークどうするの?」
「んー、そろそろバイトでも始めようかな」
「帰んないんだ」
僕の実家は大学のある福井からまっすぐ日本を縦断した三重県にあった。北陸のイメージは日本海の荒波が厳しい寒い雪国といった感じだったが、体感ではさほど大差なかった。ただ天気が変わりやすく、空はいつもどんよりと曇っていた。優香や皇太はこっちが地元で友達も多く、駅前を歩けば必ず知り合いにぶつかるほどだった。
「帰ってもやることないし」
「あー、友達少なそうだもんね」
「まあね」
意味もなくにらみ合い、やがて理由もなく二人とも笑った。だから僕は勘違いしないようにしないといけないと自分を戒めた。優香はいつも周りの人を楽しくさせる才能を持っている。彼女の周りにはいつも笑顔が集まっていて、誰もが彼女を愛していた。僕が特別というわけではない。そんなことを思いながら、暮れた窓の外でよりくっきりとした大型ビジョンを眺めた。優香も首を曲げてそちらを見ていた。その時は地元のフクロウカフェのコマーシャルが流れていた。
「あれ、皇太んちがやってるんだよ」
「え、そうなの」
「うん、まあ趣味みたいなもんらしいけどね。あいつんちほんと凄くて、家にフクロウ三十匹もいるんだよ」
「ええ、どんな家だよ……」
「ほんと、迷子になるレベルのお屋敷だから。中学の時とか、トイレに行って戻ってこれなくなった子が泣いて電話してきたもん」
「柏木家神隠し事件?」
「ちゃんと私が見つけてあげましたとも」
えっへん、と胸を張る優香の薄いニットの膨らみから目をそらして僕はまた大型ビジョンを見た。フクロウを肩に乗せる皇太を想像してみる。それは意外なほどよく似合っていた。鋭く涼しげな目の、綺麗な顔をした皇太は、細身によく似合った喪服をきちんと着込んでいた。皇太の家はこの辺りの人がみんな世話になっている葬儀屋で、彼は入学式の日も喪服を着ていたらしい。喪服の肩に留まるフクロウは目を瞑り首を傾げていた。しかし皇太が別の方を向くと目を開き、何かを見抜こうとするように黄金色の目をこちらへ向け続けていた。それはもしかすると、彼の洞察力や知性の象徴であるのかもしれなかった。あの顔で冗談ばかり言って馬鹿騒ぎしながらも、彼はよく人間を見ているようなところがあるのだ。僕はそれが時には怖くなることがあった。
「ねえ、聞いてる?」
「あ、ごめん、なんだっけ」
もう、と言って優香は可愛らしく唇を尖らせて腕を組んだ。そんな彼女を見て僕はまた笑ってしまう。彼女の動作ひとつひとつが僕を楽しい気持ちにさせる。日が暮れ、もうすぐカフェの閉店時間なのが寂しかった。
「バイトなら皇太に紹介してもらえば?バーテンとか、知り合いの時給いいとこ教えてくれるよ」
「えー、なんか腹たつじゃん。自分で見つけるよ」
「徹底してるねえ、なんでよ、あんなに仲いいのに」
「学生のうちはね、せめて対等でいたいわけ」
「中也くんも社長になればいいじゃん、起業でもしてさ」
「そしたら」結婚してくれる?なんて自分が冗談でも言おうとしていて、驚いて口をつぐむ。彼女といると、なぜか僕の口まで軽くなる。じっと見つめられていた目をそらし、僕はまた大型ビジョンを見た。フクロウカフェのコマーシャルは終わっていて、代わりにデパートの催事コーナーで来週開かれるうまいもんフェアなるものが宣伝されていた。
「そしたら?」
「雇ってやるよ」
「えー、私はそんなに安い女じゃないよ?」
「焼肉おごるって言ったら?」
「雇ってください!」
笑い声が耳の中でこだました、ような気がする。斜め後方の乗客が簡易枕を膨らましていた。乗り込んだ夜行バスは狭く、隣との距離が近かった。隣の乗客は僕が乗り込むとすでに飲み物ホルダーにハイボールの缶を開けていた。歳は三十代前半、細身で前歯が出ていた。彼は僕が隣に座ると深いため息をついた。アルコールの匂いがした。
乗客を数え終わるとバスは名古屋から東京へ向けてすぐに走り出した。アナウンスは気だるげで、少し揺れが不安になった。電気が消えしばらくして、車内が暑く感じ始めたので上着を脱ぎたくなったが、隣を気にして我慢することにした。学生時代はよく皇太とこうやってバスに揺られていたっけ。あいつはわざわざ僕に合わせて行動することを楽しんでいた。彼が出すという新幹線代を僕が断るから。あの頃はどうでもいいことがなんでも面白かった。皇太のイヤホンがiPadから抜けて車内に爆音でアイドルのライブシーンが流れた事件では結局東京に着くまで笑いをこらえっぱなしだった。夜行バス自体もさほど苦痛ではなく、アイマスクや枕がなくとも爆睡することができた。今ではどうしてか眠れなくなってしまったので、僕は闇の中の焦点が合わない世界をじっと見つめ続けていた。
考えなければならないことがたくさんあった。しかしそれは本当だろうか?考えなければならないことなどあるのだろうか?そんなことをしなくても、僕は生きていた。少なくとも、生物的には生きていた。何かを考えなければならなかったような気がする。けれど、思考はぼんやりと焦点を結ばず、まどろみの中を漂うのみで、どこにもたどり着きそうになかった。
隣から、腕時計の文字盤を回すような歯ぎしりが聞こえてきた。僕は胸がヒヤリと痛むのを感じた。時間は、巻き戻ることをしない。しないというと、まるでできることだがしないというような印象を受ける。だからしないというのは間違っている。しかし僕はその時、時間は巻き戻ることをしない、と感じた。それは僕の希望と悔恨がどこかに混じっていたのかもしれない。皇太も、よく歯ぎしりをしていた。その癖は彼に似つかわしくなかった。だから僕はそのことを一度も指摘したことがなかった。隣の歯ぎしりの音に、頭の中が揺れるような苛立ちを覚える。皇太と初めて話した時も、僕は苛立っていたような気がする。それは、大学が始まった週の土日にあった親睦会のような合宿のせいだった。
知能システム工学科の新入生を乗せたバスはどんよりとした雲の下、同じくらいどんよりとした薄汚いホテルの前に止まった。若い同期たちはみんな「ここかよ」といった表情をしていたが、僕はその雰囲気がそれなりに気に入った。この寂れた町と空によく似合っている。バスを降りると、冷たい風が首元に侵入し、僕はコートの襟元を握った。先ほどまで隣の座席で自分のことを話し続けていた男は、もう他の学生とまぎれてどこにいるのかわからなくなった。確か、北海道から来たとか言っていたような気がするから、これくらいの寒さはどうってことないのだろう。
雑魚寝の和室に荷物を置くと、学生たちは大きめの円卓がいくつか置かれた広間に集められ、そこで学科長の教授からスケジュールの説明を受けた。教授はこのようなレクリエーションを無駄と考えているのか、やる気のなさが滲み出した話し方で、その目はずっと面倒臭そうに右斜め下にある花瓶を見つめていた。それもそうだ。彼は教師ではなく、教授であり、研究を生きがいとする人間なのだから、若く頭の鈍い集団の相手などをしても何も得られるものはないだろう。彼の態度は、その後の講義でも変わることがなかったので、そういった考えの持ち主なのだと思える。教授の中にも、若者を教え導くことが好きな人はいた。しかしそれが何故なのかは僕にはよくわからなかった。後進の育成に力を入れるというのは正しいのかもしれない。しかし、自分でやった方が早いことをわざわざ教え、しかも不用意に信用しなければならないのだから、大変な仕事だと思う。大学が研究機関ではなく教育機関であるというのは、彼らにとって大きな足かせであろう。お金を稼がなければならないということは実に面倒なことだ。
一度部屋に戻り、夕食まで少し時間があったので、その間は学生同士の交流の機会となった。ただ、僕以外の生徒は入学式前にあった自由参加のレクリエーションにも行っていたらしく、もうすでに多くが顔見知りでグループもいくつか出来ていた。僕は荷物の隣の壁にもたれかかり、そんな彼らの様子をぼんやり眺めていた。やがて僕にも声をかけようとする生徒がいて、どこから来たといったようなどうでもいい話をしばらくしたが、ますます頭がぼんやりしていくのを感じ、誰の名前も覚えることができなかった。昔はこんな風ではなかったはずだ。僕もそうやって集団の中で楽しく笑っていたような気がする。しかしいつからだろうか、世界の輪郭がぼんやりとし、何もかもが他人事のように思え、ベールの向こう側を見ているような距離を感じてしまうようになった。だから曖昧に笑うことしかできず、いずれ人は僕から離れていった。自分はここで一体何をしているのだろう。楽しそうに騒ぐ同期を見ながら、場違いを晒しあげられているような恥辱が胸にこみ上げてくるのであった。
そんな時間を耐え、夕食の時間になり、新入生全員が入る大きな和室の広間で食事会となった。食べ物は大して美味しくなかったが、誰もが嬉しそうな歓声をあげて目の前の御前を見ていた。まるでお芝居を見ているような気分だ。自分だけが筋書きを知らないままこの舞台に迷い込んでしまったのかもしれない。それでも僕は好き嫌いがないので残さず食べた。他の人はどんなことを感じているのだろう。本当に目の前のそれを、今を、楽しいと思っているのだろうか。それとも、やはり今が肝心だと、周りの人との繋がりを優先し、わざわざ大げさで親しみやすい自分を演じているのだろうか。そんなことを考えながら周りを見回していると、ある男と目があった。それが柏木皇太だと、その後の自己紹介で知った。
自己紹介。それは僕にとって拷問に近かった。大きな部屋で、マイクが回され、一人ずつ話をする。すでに知り合いのいる彼らは囃し立てあいながら楽しそうに話していたが、誰も知り合いのいない僕の方を向く生徒はほとんどいなかった。その中で、誰に向けられたわけでもない僕の声が大部屋に流れる。彼らはみんな、僕の心の疎外を感じ取ることができるように反応を示さず、僕は背中に大量の汗を感じながら隣にマイクを回して座った。それから、また一座は元の空気を取り戻す。僕は深い息を吐いて、もう空になっているグラスを口に持っていき、少し溶けた氷水に唇をつけて顔を隠した。どうしてこんな風にしかできないのだろう。僕は一体何を間違えたのだろう。どうすればよかった?
グラスを置くと、また彼と目があった。柏木皇太。彼は先ほど歓声を受けんばかりの人気っぷりを見せていた。すらりと背の高い、綺麗な顔をした男だった。ほんのわずかの間に笑いも取り、数少ない学科の女子の黄色い声援にも応えていた。そんな彼がどうして僕なんかを見ているのだろう?何か気に障ることでもあったのだろうか。はやく独りになりたかった。いや、精神的にはいつも独りだが、空間的に独りになりたかった。
食事が終わると、スケジュール通り、学籍番号で組み分けされた班で明日の発表に向けた議論が始まった。議題は「班員でできることでベンチャーを起業するならどのようなことをするか」という自由なものだった。僕の班は全員男子で、僕以外全員メガネをかけていた。そのせいか、僕以外はみんなもう仲が良さそうに見えた。だから僕は黙って彼らの議論を聞いていることにした。
さて、これが実につまらないものだった。彼らが考え出したのは、やはり自分たちの学科に合った話にしようとしたのか、仮想現実を使った何かという方向性に決まりだしていた。知能システム工学科はざっくり言うと、ロボットを作る学科だった。だから研究内容は機械工学や制御工学、回路理論といったハードに関するものから人工知能の設計などのソフト面まで渡り、脳に関する生物的な研究室もあった。しかしだからと言って、まだ何もできない彼らが突然仮想現実を作り出しそれを商業化しようと言うのだ。彼らは一体何者なのだろう?どこにそんな能力と財力があるというのだろうか。そこで僕はようやく「それでいいのかな」と声をあげてみた。
「どういうこと?」
複数のメガネが僕をみて、そのうちの一人がメガネを押し上げながらそう言った。僕は曖昧に笑いながら続けた。
「うん、なんかちょっとズレてない?ここにいる人たちでできるベンチャーでしょ?それが仮想現実を使った、何、ゲームとか、医療とか?ってなんかちょっと変じゃないかな」
「ベンチャーってそういう新しいことやることでしょ」
他のメガネがそう言ってみんながうなずくので、僕はなるほどと思った。もうあまり口を開かない方がいいのだろう。それに、彼らの意見を否定しても僕にこれといってアイデアがあるわけではなかったので、わざわざ邪魔をする理由もなかった。結局僕らの班の発表は、仮想現実を使ったリハビリテーションを行うといった話になり、それはおそらく彼らが先ほど部屋の中で盛り上がっていたアニメの影響なのだろうというのは容易に想像がついた。どうやら今彼らの間では、仮想現実に囚われになった主人公たちがデスゲームをクリアするといったアニメが大流行しているらしい。友達の少ない僕はどうしてそんなありきたりな設定のものが今更もてはやされているのかさっぱりわからなかったが、暇だったので見てみたら思っていたよりも面白かった。彼らの言う「新しいこと」というのが何なのかは結局わからなかったが。
発表の方向性がうんざりする形で決まった頃に風呂の時間になった。僕はその頃にはどうにも恥ずかしくなって机に突っ伏して寝たフリをしていたのだが、僕の班の人は誰も起こしてくれなかったので周りが十分に静かになったら顔をあげようと思っていた。すると驚くことに僕の肩を叩く人がいた。煩わしげな芝居をしながら顔を上げると、そこにはニヤニヤ笑う皇太が居た。
「もうみんな風呂いったけど、中也は行かないの?」
「ああ、ありがとう」
どうして彼が僕の名前なんて覚えているのだろう、と思ったが机の上にそれぞれのネームプレートが置いてあることを思い出した。それにしてもいきなり呼び捨てか。いつもならその遠慮のなさに少し怯えるが、彼には不思議とあまりそういうことは感じなかった。皇太はわざわざ眠たげに目をこすったりしてみせる僕をまだニヤニヤと見続けていた。
「……なに?」
「あのさ」
彼は僕の隣の椅子を引き寄せて座ると、端正な顔をドキっとするほど近づけて「中也はなんでこんなところにいるの」と言った。僕は胸が強く痛んだ。無言の視線や空気には慣れていたが、このように直接的に言われたことは初めてだった。しかしそんな僕の顔色を見て、彼はすぐに手を振った。「いや、そういう意味じゃなくてさ」と彼は周りを確認して、さらに声を落とした。
「はっきり言って、アホばっかじゃん。なんだろうね、この茶番。お前もそう思ってるんだろ?」
でも君は、と僕は言おうとしてやめた。この茶番の中でも主役を演じている彼が、そんなことを思っていたことに驚いて、何も言えなかった。彼は僕が思っていることがわかるように笑った。
「まあ、俺は慣れてるんだよ、こういうの。正直得意。中也は、下手くそだな。さっきから見てたけど」
「なんで?」
どうして、そんなことがすぐわかるのだろう。どうして、自分なんかを見ていたのだろう。
「なんでかなあ。俺も結局、寂しいのかもな、独りが」
「独り?」
「そんなとこに反感持つなよちっちぇえな。まあ、とりあえず風呂行こうぜ、準備して下で待ってろよ」
そう言って僕の肩を強く叩くと、皇太は背を向け手を振ってさっさと自分の部屋に戻っていった。僕はよくわからなかったが、彼といる方がまだマシだということも確かだったので、胸の動悸が収まるのを待ってから部屋に戻った。まだ部屋に残っていたメガネ二人がゲームをしていたが、僕にはもう見向きもしなかった。どうでもいいか、と思ってタオルと下着を袋に詰めると、僕は皇太の言う通り下のロビーに向かった。しかし大浴場は確か上にあるはずだった。
リュックを背負って降りてきた皇太は、右手の人差し指で車のキーを回していた。彼は先ほどと同じ服を着ていて、上着まで羽織っていた。寝巻きのスウェットに着替えていた僕はそういうことかと思い「着替えてきた方がいい?」と尋ねた。
「いいよ別に。ああ、寒いかも?」
「まあ、面倒だね」
同じバスに乗ってきたはずなのに、どういうわけかホテルの前には皇太の車が用意されていた。小さなスポーツカーで、カプチーノという名前だと彼は言った。車のことはよくわからないが、可愛いと思った。背の高い彼は低い車内に滑らかにその体を滑りこました。その動きはなんとなく品のあるものに感じられた。体の硬い僕は手足を折りたたむように不恰好な姿勢で乗り込まなければいけなかった。
車内は無骨なメカニックといった感じで、これが車なのだということを感じられて好感が持てた。残念なのは最新式のカーナビが取り付けられていることか。ラジオが流れていたが、皇太がボリュームを絞ってゼロにしたので車内には車のエンジン音が聞こえるだけだった。静かな夜で、ウィンカーの音がやけに鮮明に聞こえた。どこへ行くの、と尋ねるべきだったろうが、そんな必要もないような気もした。
「寒い?」
「別に」
「俺の名前、わかる?」
「柏木皇太」
「なんだ、意外と名前とか覚えられる人?」
「あんまり覚えられないけど、君は目立ってたから」
はは、と皇太は笑って「君って、俺のことかよ」と前を向きながら何か嬉しそうに頭を揺らした。もちろん、車内には僕ら二人しかいないから、僕は彼のことを君と呼んだのだ。
「皇太でいいよ。そんなお前は長谷川中也、だろ。なんか、お前とは仲良くなれそうな気がする」
「ふうん」
よくわからないけれど、なんだかあまり話す気分になれなかったので、左頬を通り過ぎていく暗闇に僕は目を凝らした。視界がぼんやりすると、頭もぼんやりする。疲れていたのかもしれない。新しい土地での生活が始まって、特別に誰と話すわけでもなく、もう一週間が過ぎていた。一週間で十分だった。ここで自分がしなければならないことなどなさそうだった。これからどう生きていけばいいのだろう。
「あ」
「どうした?」
「財布持ってきてない」
そんなことか、と言いながら彼はブレーキを優しく踏んだ。僕ら以外誰もいない真っ暗な交差点で、赤信号は自分が何をしているのかわかっているのだろうか?
「煙草吸っていい?」
「いいけど、何歳なの?」
「そんなこと、どうだっていいだろ?」
「信号は?」
「たしかに、それもどうだっていいな」
そう言いながら彼はきちんと信号を守った。何かの願掛けなのかもしれない、と思いながら僕は彼が煙草に火をつけるのを見ていてた。いや、火をつけるために停まっただけかもしれない。暗闇の中で燃えるオレンジ色の先端は、車の一部のようにメカニカルな雰囲気があった。
「何も聞かないの?」
「勝手に話し始めると思って」
やっぱりいいね、と笑って皇太は車を発進させた。まだ信号は赤のままだった。
「ならそうしようかな。これからみんなさ、生きて、年取って、死んでいくわけだけど、どう思う?」
「どうって?」
抽象的過ぎてよくわからないし、初対面で突然そんな話をしだすなんて、どうかしている。僕はハンドルを握る彼の手を見た。白く骨ばった綺麗な手だった。
「例えば、誰かと結婚して、子供ができて、孫までできて、それで、愛する人たちに囲まれて、ベッドで幸せに死ぬとしたら、最後にどう思う、とかさ。そんなことを想像すると、なんか、吐き気がするんだよな。それで、結局何だったんだって。もちろん、そうやって幸せに死ぬことができる人なんてそういないかもしれない。それがどれだけ恵まれたことかはわかるよ。けど、そんなありきたりな生を生きて、いったい何になったんだろうって思わない?」
僕はしばらく考えてみた。けれど、うまく想像できなかった。それは僕があまり自分のそういった最期を信じられないからだろう。つまり、何か意味が欲しいのだろうか。生きている理由が。子孫ではなく、自分の功績や実績を残したいということだろうか。
「そうじゃない。そうじゃなくて、もっとこう、なんだろう、終わりたくないというか。親になれば、子供のために生きないといけない。上に立てば、下のものに責任が生じる。なら、俺自身のことは?俺自身の人生はどこにある?」
「そんなもの、あるのかな」
「なら、これは誰の人生なんだ?」
「誰のものでもないんじゃない。……みたいな会話を、小説で読んだ」
「諦めればいいのか?中也も、そう思ってる?」
僕は、どう思っているのだろう。自分が何を思っているかなんて、自分にわかるはずがない。なら、誰がわかるのだろう。僕は、誰なんだ?
「死にたいの?」
皇太が急ブレーキを踏んだ。シートベルトに圧迫された胸部が苦しい。横を向くと、彼はまっすぐ前を見つめ続けていた。煙草の煙だけが動き続け、時間が流れていることを告げていた。
「大丈夫?」
「どうかな」
皇太は意味もなく笑って、太ももに落ちた灰を払い落とした。エンジンをかけ直し、ギアを入れ替える。辺りはずっと、全く静かだった。
「死にたくないんだ」
しばらく無言で車を走らせてから、煙草を揉み消して皇太は言った。
「けど、どうすれば生きられるのか、わからないんだ。なんでお前を誘ったと思う?」
「僕も、そう思っているように見えたから」
正解、と言いながら皇太は新しい煙草に火をつけた。運転しながら器用なもんだ。ならさっきもわざわざ信号で停まらなくてもよかったのに。
「どうしてそんなことがわかるの?」
「どうしてかな。わかる時があるんだよな。俺んち、葬儀屋だからかな」
そう言って、彼は煙草を咥えたままおかしそうに笑った。
「なら、天職かもね」
「なあ、なんで人は死んじゃいけないんだと思う?」
どうして人は死んではいけないのだろう?本当にそうなのだろうか。考えてみたが、よくわからない。面倒だからだろうか。死ぬよりも、だらっと生きている方が、楽だから?何度か僕も考えたことがあった。けれどどういうわけか、眠くなるのだ。
「例えばさ、トラックに轢かれそうになったところを助けられた時、助けてくれた人に、助けてくれてありがとうって言うでしょ。それってつまり、助けられて、生きててよかったと思ったからだよな。死んだ方がよかったって思ってたら、むしろどうして助けたりしたんだって怒ることになる。けど、そんな人普通いないじゃん。つまりほとんどの人は、生きててよかったって思ってるってことだ。それはいったいどうしてなんだ?生きててよかったがあるなら、死んだ方がよかったがないとも言い切れないじゃん。助けた人はその人の人生をまるっと知ってるわけないんだしさ、そんなこと考えてたら助けらんないもんな」
「……比較できないからじゃない」
「比較?」
「いつ死ぬか決まってて、それまでどんな人生が、どんな幸福と苦痛があるかわかってたら、その総量を比べて、ああ今死んだ方がいいなって判断できるかもしれないけど、そんなものはわからないから。今死ぬのと、十年後死ぬのと、どっちがいいか比較できない」
「つまり、今ここにあるものだけじゃなくて、合計で見るべきだってことか。でも俺らには今しかない。未来なんてないし、過去なんて過ぎ去ったものだ。過去の幸福が今を救ってくれることもあるかもしれないけど、たいして役に立つとも思えない。今だけで決めるべきなんじゃないか?」
「そんな判断はできないよ。女の子にフラれた辛い死のう、受験に失敗した死のう、仕事で失敗した死のう」
「その方がわかりやすい」
「そんな安くない」
「なんでそう言い切れる?」
車のスピードが上がっていく。車通りはないけれど、少し怖い。彼は道を知っているかもしれないけれど、僕には先はまったく見えなかった。
「生きていれば、また恋ができるし、また受験して、失敗も取り返せるかもしれない。死んだら、そこで全て終わる。次はない。そんな切符は易々と切れない。一度きりの片道切符だ。どっちがよかったか比べられない」
「死ぬんだから、比べる必要もない」
それもそうだ。自分が決めれば、それでいい。けれど、周りは?自分の人生は自分にしか生きられないかもしれないけれど、人は独りで生きているわけではない。僕のようにうまく社会に溶け込めなくても、どれだけ独りを願おうとも、僕らは人の中で生きている。繋がりが、僕らの命を縛っている。いや、守っている。
「客観なんてどうでもいいかもしれない。けど、自分自身だって、主観だけで生きてるわけじゃない。思ってることがあっても、客観的な自分がそれを言わせないことって多い。僕は弱いから、できないことだらけだ。それで自分が嫌いになるけど、それは僕を守ってもいる。でもそれも、生きるためか。どうして、生きようとするんだろう」
「誰が、ここで生きてるんだ?これは誰のものだ?」
「……わからない」
やっぱり、誰のものでもないのかもしれない。意識なんてものは、生存に優位な形質だから生まれただけで、結局僕が僕だと思っているものなんて存在しないのかもしれない。その証拠に、脳の扁桃体を摘出した人は、恐怖を感じなくなるのだという。火が熱いということを知っていても、それに近づくのが怖いとは感じないのだそうだ。人間なんて、その程度のものなのだろうか。しかし海馬を失くした人は、記憶をできなくなるのではなく、脳の他の部分が海馬の代役をして記憶を保持するらしい。どういうことだろうか。
しばらく僕らは無言で闇の中を突き進んだ。それから速度を落とし、何度か曲がると、ある小さなトンネルの中で皇太は「あのたぬきをよく見とけよ」と言った。
「なんで?」
「行きと帰りとで表情が違ったらお化けが憑いてるかもしれないから」
さっきまでとは違ういたずらな表情で笑う皇太に曖昧な笑みを返し、僕はそのたぬきの石像を見た。彼は僕ではなく皇太を見ているような気がした、というようなことを言うと、意外なほど嫌がったのが面白かった。
「遅いんだけど」
車を停めるとミニスカートの女が近づいてきた。暗闇の中に彼女の赤い唇が浮かんでいた。歩くごとにふわりと巻かれた髪が揺れ、それが彼女の愛らしさを引き立てていた。ぼんやり眺めていた僕の方を向くと「中也くん?」と彼女は小首を傾げてわかりやすい作り笑いを浮かべた。それはとっても魅力的だった。
「うん、あなたは?」
「あなただって、変なの」
彼女はクスクス笑うと「有村優香」と名乗って両手を挙げた。女優みたいな名前だ、と思いながら僕らは意味もなくハイタッチした。それにしても、二人称は何ならいいんだろう。
「ここは?」
「雄島。まあ、心霊スポットみたいなもん。まだあんまり福井観光してないっしょ?」
「初観光が心霊スポットなの?かわいそ」
「だって東尋坊も結局似たようなもんだし」
「風呂は?」
僕がそう言うと、二人は一瞬きょとんとした目をし、笑い出した。何がそんなに受けたのかわからないが、悪い気はしなかった。
「てか中也くん寒そう。皇太上着貸してあげなよ」
「そしたら俺が寒いだろ」
「そんなのどうでもいいじゃん。あ、中也くんこの橋渡ってるときは振り返っちゃダメなんだよ、お化け憑くから」
「え、まじ?」
「あー皇太今振り向いたね、あーあ取り憑かれたわ確実に」
「やめろよ」
本気で嫌がって前だけ向いてさっさと渡ってしまおうとする皇太を見て、僕たちは目を合わせて笑った。福井に来てから誰かと笑いあったのは初めてだった。橋の下には尖った岩がたくさんあって、荒々しく波が打ち付けていた。
「ここはね、東尋坊で自殺した人の体が流れ着く場所らしいよ」
「え」
下を見ていた僕は思わず顔を引っ込めた。優香はそんな僕を見て嬉しそうに手を叩いて笑った。
「なに、中也くんも皇太並みのビビリ?手繋いであげよっか?」
「お願いしようかな」
珍しくふざけてみたら、彼女が本当に僕の手を取ったので、少し寒いのに汗が滲みそうで心配になった。優香の手は暖かく、小さかった。
「なんだよお前ら俺も混ぜろ」
「えー嫉妬?」
橋を渡りきると振り返ることができるようになった皇太が駆け寄ってきて僕のもう一方の手をとった。
「そっちかよ」
というわけで僕は右手に皇太、左手に優香を携えて雄島の暗闇を見つめていた。
「いや、思ったより暗いね」
「足元、気を付けてね。何にも見えないけど。皇太電灯持ってこなかったの?」
「ねえな、帰るか」
「なわけ」
自分で連れてきておいて怖気付いた皇太を引き連れて僕らは笑いながらその暗闇に入っていった。足元の石段すらおぼつかない視界の中、波が岩に打ち付ける音と草木が揺れる音が続く。そして僕らの足音がやけにはっきり聞こえた。
「ねえ、足音多くない?」
「変なこと言うなって!」
優香の軽やかな笑い声が響いた。皇太が何かにぶつかり叫び声を上げる。「枝だって」と僕が引っ張ってあげないと動けなくなりそうなほどビビりながらも僕の手は強く握っていた。なんだろう、これは。普通に楽しい。普通の大学生みたいだ、と思いながら、自分が普通の大学生であることに気づいた。僕は何をひねくれていたんだろう。こうしていればいいはずなのに、何を毛嫌いしていたのだろう。
島の反対側に回ると開けたところで海が見え、大きな石に三人で腰を下ろした。
「疲れた。帰ろう」
「うん、帰るためにはあと半周しないと」
「まじかよ。船呼ぼう」
「そしたら来るまでずっとここに居なきゃいけないよ」
「ええ、もうおしまいじゃん」
二人で一通り皇太を煽った後、優香が腕を伸ばして写真を撮った。またそこに何か写り込んでいると皇太を脅したが、彼は頑なに写真を確認したがらなかった上に僕の手を握りしめ続けていた。そんな僕らを爆笑しながら優香はツーショットを連写で撮った。
「まじでなんか映るかもしれんからやめろって」
「ガチトーンじゃんかわいいなまったく」
再び三人は手を繋いで歩き始めた。小学生の頃から皇太と一緒だという優香は、同じ大学の教育学部で高校の社会科教師を目指していた。こんなかわいい先生がいたら最高だろうなと僕が言うと、彼女は「意外と積極的じゃん」と笑って強く手を握ってきた。なんだか僕も少しハイになっていたのかもしれない。
「なんでこんなとこにいんだよ」
「皇太が連れてきたんだけど」
「それ毎回言ってるからこの人。仲良くなりたい人への可愛さアピールなんだよ」
「ギャップ萌え狙い?」
「そうそう」
「えーあざとー」
「……優香、あとで覚えとけよ」
帰りの橋は皇太が手を繋いだまま走り出したので、三人は深夜に笑い声を撒き散らしながら夜の海の上を駆けた。久しぶりに息が上がる。丁度いい寒さが心地よかった。膝に手をつく優香と目があうと、僕らはまた意味もなく笑った。
「楽しかった?」
「皇太が可愛かった」
「あれ、そっちに目覚めちゃった?」
「なわけ」
さっさと車に乗り込んだ皇太がライトで合図をする。
「中也!さっさと風呂行くぞ」
「あー、そうだった。優香ちゃんは、一人で帰れるの?」
「私はこういうの全然平気だから安心して」
そう言ってまた僕らはハイタッチした。
「中也、さっさと来い!俺を独りにするな!」
「なんか急に偉そうだなあ。優香ちゃんの方乗って帰ろうかなー」
「それいいね」
「ふざけんな」
泣かしちゃまずいもんねと笑いあい、優香に手を振って僕は皇太の車に乗り込んだ。
「さて、たぬきはどうなったかな」
しかし皇太は「んなもんぶっちぎりよ」と言って僕に確認させる暇もなくトンネルを高速で通り過ぎてしまった。一通り笑い終わると僕らはもう昔からの知り合いのような仲になっていたのだった。
あの後どうしたっけ、と僕はバスに揺られ少し微笑みながら考えた。確か極楽湯とかいう大層な名前のスーパー銭湯に行って、二時間くらい語り合ってから出てくると、リンゴ酢をむせながら飲んだ。そしてそのまま畳の休憩スペースで寝てしまったから、翌朝の点呼に間に合わず二人で怒られたんだったっけ。
「楽しかったなあ」
思わず溢れた言葉に危うく泣くところだった。この程度の感傷で泣いていては何もできない。僕はまだ生きていて、生かされている。誰の人生なのかわからないものを。そして、思ってはいけないことを不意に考えてしまった。優香に会いたかった。僕は初めて会ったあの日から、彼女のことが好きだったのかもしれない。しかしそれは現実的な恋だったのだろうか。僕はただ、夢を見ていただけなのではないだろうか。優香は、僕の胸の中の幸せになるべき人リストの先頭に刻まれている名前だった。だから僕は彼女を自分に巻き込んではいけない。僕は現実を生きていない。誰にも責任を持てない、屑のような人間だ。だからそんなことは願ってはいけない。
日は上り始めていたが、バスはまだ東京に着かなかった。水がなくなり、喉が渇いた。隣の歯ぎしりはいつの間にか収まっていたが、今度は右前の乗客の鼾がひどかった。何よりお尻が痛い。体勢を変えようにも動けるスペースが少ない。グーグルマップで現在地から新宿駅までの予想時間を調べる。まだ一時間二十分はかかるようだ。煙草を吸いたいと思った。煙草を吸う必要はないのに、僕は何故か煙草を吸いたいと思うようになっていた。そうすれば目の前の不鮮明さや、今の気持ち悪さを煙草のせいにすることができた。それはありがたいことだった。律儀につけていたシートベルトを外し、小さく伸びをする。どうしてシートベルトなんてしていたのだろう。普通の人みたいに。普通とはなんだろう。誰から見て?普通なんていう大層なものを作り出したのはいったい誰なのだろう。集団とはなんだろう。社会とはなんだろう。僕にはわからないものだらけの世界で、どうしてみんな普通に生きていけるのだろうか。それともみんな、こういう疑問を抱えたまま、それでも生きていける強さを、何か、信じられるものを見つけているのだろうか。
皇太は、とカーテンの隙間を人差し指で少し開け、明るくなり始めた街を見ながら考える。見つけることができなかった。いや、この世界が、皇太に気づくことができなかったんだ。彼とあれだけ話した僕でさえ、彼の世界を信じ、理解することはできなかった。そんなことは他人にできることではないのかもしれない。しかし、彼はそれを必要としていた。僕ももしかすると、それを求めているのかもしれない。信じられるものが、信じてくれる人が欲しかっただけなのだろう。わからない。僕は、どうすれば生きることができるのだろうか。そんなに深刻な話ではないはずだ。被害妄想でしかないのかもしれない。学生の僕らはまだ自分で生活をしているわけではなかった。しかしそんな錯覚をしていたのだろう。そしてそこに存在しないものをいつも求めていた。それがなんだったのか。何が耐え難かったのか、僕らにはわからなかったが、だからといってその苦痛がなかったことにはならない。現実を生きるということは、そういったことに鈍感になり、やり過ごし、考えるのをやめることなのか?そうではないはずだ。しかしあれからいろんな人とそんな話をしてみても、僕らにとって重要なことは、彼らにはどうでもいいこと、暇だから考えているとしか思えない逃避としか受け取ってもらえなかった。家族でさえ、僕が遠くへ行くという最後の時までそれを「そんなこと」というひとことで片付けてしまう。誰も本気にとってはくれない。だからきっと、間違っているのは僕らなんだ。世界は多数決で成り立っている。僕らが良心だと思い込んでいるものでさえ世界一般の単なる多数決に過ぎない、と皇太は言っていた。彼が言うには、殺人が悪だということすら絶対的な論理ではない。戦争になればそれは肯定され、むしろ誇りにさえなったと。僕らは戦争を知らない。それは遠い昔の出来事で、どれだけの証拠を目の前に突きつけられても、本当の意味で実感することはできない。今この時でさえ、紛争で亡くなる罪のない人達がいることを知ってはいても、それが現実感を持つことはない。これほど平穏な日々の中で、どうやっても生きられる社会の中で、どうして死を想わなければならないのだろうか。死にたいわけじゃないんだ。ただ、生きられないと強く感じてしまう。そして、それは理由のないことなのだから、どうしようもなく救いがない。何に対する罪悪感?僕の罪は何で、僕の罰は何なのだろう。わからないから、いつまでもそれを抱え続ける。傲慢で軽薄な生の呪いと死への憧れ。考えるほどアホくさいことだが、けれどそれを拭い去ることができない。
小学生のころ、サッカー大会の空き時間に、友達と蛙を捕まえては殺していた。大会は線路の近くの河川敷で行われていて、本当はそっちへあまり近づいてはいけなかったのだが、グラウンドから離れた湿地帯の先の線路へはフェンスもなく近づくことができ、その線路の上に木の枝で串刺しにした蛙を置いて電車が来るのを待った。別の日には、爆竹を持ってきた友達が、それを蛙の肛門に入れて火をつけた。命の飛散に、僕らは不思議な高揚を覚えた。しかしそれも繰り返されるうちに薄れていき、やがてつまらないものとなった。どうしてそんなことをしていたのか小さい少年にはわかっていなかったが、その儀式の先に何か特別なことが起きることを期待していたわけではなかったはずだ。ただそこで散る命に、その残酷な行為自体に興奮していたように思える。理由のない殺戮。そんな衝動が僕らの中には存在している。それなのに、父の車の助手席に乗って山道を通っている時に見た、轢き殺された狸の死体に、胸を強く痛めて嘔吐した。学校からの帰り道で猫の死体に涙し、持っていた傘で烏を追い払った。それなのに、海水浴場で大きな海月を木の棒で浜辺に串刺しにし、小さな海月を岩場に投げつけて遊んだ。それなのに。わからない。人間の中に存在する、死に対する感情の矛盾は、いったい何なのだろう。対象の大きさが問題なのか?それが自分に近いかどうか、それだけか?
高校二年の夏休み明け、僕は学校へ行くのを辞めた。理由は自分でもよくわからなかった。とにかく行きたくなかったのだ。それから二ヶ月後、今度も理由なく学校へ行き始めた。その日の駅で、僕は学校を辞めていく小西に出会った。僕らは一年生の時に同じクラスで、彼は冬ごろから学校に来なくなった。いじめがあったわけではなかった。彼が不登校になった理由は知らない。優しい笑顔の、真面目な奴だった。次の日、彼は自殺した。あの日、僕は何を言うべきだったのだろうか。あの時、僕は何かを変えられたのだろうか。いや、何もできなかった。今あの日に戻っても、僕には結局何もできないだろう。学校生活はしかし、それからすぐに何事もなく続けられた。まるで初めから彼が存在しなかったように。休み時間に小テストの勉強をして、テレビの話をして、バンドの話をして、アイドルの話をして。部活では意味のあるのかわからない繰り返しをみんなが真面目にこなして汗を流し、帰りの電車で英単語を覚える。気味が悪かった。そして自分も、そんな気味の悪い人間を演じ続けていた。
何を感じるのが正しかったのだろう。今、僕は何を感じているべきなのだろう。わからない。そして、忘れていく。僕もきっと、多くの人の中から、すでに消え始めているのだろう。僕らは本当に存在するのだろうか。存在するとは、いったいどういうことなのだろうか。何の意味が、あるのだろうか。
バスタ新宿でバスを降り、エスカレーターを降りて朝の新宿駅の前に立った。行き交う人々みんなに尋ねてみたい。どうして生きているのですか?こんなに多くの人が、その答えも持たずに、疑問すら持たずに、生き抜いている。寝起きだからだろうか、うまくピントが合わない。何もかもがぼやけて、ぼんやりとした灰色の波が揺れている。昨日の夜もそうだった。いや、ずっと昔からそうだったような気がする。僕はここに生きて存在しているはずなのに、そこにあるのは僕と何の関わりもない世界だった。もちろん、僕はその中に入り、その機能を利用することができる。しかしそれが終われば、また世界は離れていく。
電車が遅延していた。どうやら人身事故があったようだ。周りの苛立ちが感じられた。やっぱり、そうなのだ。誰かの死に、人は心を痛めるわけではない。ただ、自分の世界の邪魔をされたと感じるだけだ。毎年三万人の自殺者がいるという新聞記事に胸を痛めても、今それを決意して飛び込んだ誰かには苛立ちを覚える。なんだそれは?
死ぬなら独りで勝手に死ねばいいのに。ね、最期まで誰かに迷惑かけるなんて。俺なら誰にも見つからないところで死ぬな。いや死なないでよ私がいるのに。そんな会話を隣のカップルがしていた。しかし、そうだろうか。誰も見つけてくれなかったから、その人は死んだのではないだろうか。誰か一人でも、その人を見つけてくれる人がいたら、死ぬ必要はなかったのではないか。見つけて欲しかったから、信じて欲しかったから、死ぬしかなかったのではないか。わからないが、そんな気がした。どこかがひどく痛かった。しかしそんなことを思う自分は嘘つきだ。本当は何も感じていないし、何も変えられない。誰に対して何を装おうというのか。それでも、その痛みはなかなか治ってはくれなかった。
中央線で御茶ノ水に着いた。アイドルのライブのために皇太と東京に来ると、僕らはいつもまず聖橋の先の坂を下りたところにある銭湯に行った。この坂から見える朝の景色が僕らは好きだった。線路が街に飲み込まれるように続いていて、その先のビル群を朝の日差しがセピア色に染めている。遠くから見る静かな街の、まだ眠っているような様子が上品だった。寝息さえ聞こえてきそうなビル群を眺めながら、二人で大きな欠伸をして、朝の空気を頬に感じる。そんな瞬間が、僕は好きだった。電車の振動で震える線路の音は、朝の固まった空気と相性が良かった。そんな時は、この世界が鮮明さを増したように感じられたものだ。
僕は立ち尽くし、目の前の張り紙を見つめていた。いつも二人で行っていた銭湯は、閉まっていた。なんでも改装し、別の名前の銭湯に生まれ変わるらしい。思い出の銭湯が、失くなっていた。しばらく呆然とその張り紙を見つめ、やがて僕は駅へ向かって歩き出した。頭が真っ白になった。世界は進み、変わっていく。そのことが、急に恐ろしくなった。過去を抱え、これから山の上に住もうとする僕は、いったいどうなるのだろう。生きたまま、死んだように存在を消されていくのだろうか。その痕跡を。それが怖いのか?それを望んでいなかったか?しかし今は、あまり考える力がなかった。
昼間のニュースで、十代のオリンピック選手が白血病になったことを知った。僕には関係ないことのはずなのに、こんなことを感じるのは偽善に過ぎないはずなのに、その胸の奥の、偽物の痛みを、気持ち悪いと振り捨てることができなかった。才能があって、それ以上に努力をしている人がそんなことになるのに、何もしていない自分がのうのうと生きていることに強い罪悪感を覚えた。こうなるからあまりニュースは見ないようにしているのに、LINEニュースが勝手に情報を提供してくれてしまう。昔からそうだった。当たり前のように日々起こる不幸のニュースに引きずられ過ぎてしまう。そんな必要はないのに。だって、もし今神様が目の前に現れて、彼女の白血病を僕に移してあげようかと提案したら、僕はそれを拒否するだろう。そのくせどうしてこんなことを感じてしまう?偽物の同情なんてナルシストの思い上がりだ。演技に過ぎない。僕は本当は何を感じている?本当に今考えていることは何なんだ?僕は死にたくない。けれど、けれど、こんな世界は間違っている。明日を生きる希望を持ち、正しく努力している人たちの多くが震災で死んだりするこの世界で、どうして僕のような人間が死んだように平和に生きることができてしまう?こんな感情はいかがわしい。それでも内臓が熱く焼かれ捻くりまわされるような気持ち悪さを消し去ることはできない。それは確かな実感として僕の体を蝕んでいた。
大学生になってから初めてのお盆休み、ようやく慣れ始めたアルバイトもこの期間は休みだった。というのも、アルバイト先というのが片町という飲み屋街にある個人経営の居酒屋なので、マスターが休みたいときは休みになるのだ。というわけで、それを知らなかった僕の前には突然ぽかんとなんの予定もない日が広がった。といっても、普段からそれほど予定が詰まっているわけではないのだが。誰かとの約束事に縛られるのはあまり好きではなかった。
よっす、と勝手に玄関を開けてアパートに入ってきた皇太は自分の家のように冷蔵庫を開けてコーラの二リットルボトルをラッパ飲みしてから靴下を脱いだ。バイト上がりでぼうっとウイニングイレブンをプレーしていた僕はそんな皇太には慣れたものだったので振り返りもせず能力が向上しまくったレバンドフスキで三点目を取ってリーグ戦第十五節を勝ち切った。隣に腰を下ろして皇太がコントローラーを拾い上げるので「やるか?」と尋ねてマスターリーグを保存した。
「じゃあ明日から暇なんだ」
「そーねー。皇太はまた海外?」
「いや、もう飽きた。クロアチアでも午前中はほとんど寝て過ごしてたし」
「嫌味なやつめ」
だから縦パス一本で裏に抜け出してドログバで逆転のゴールを決めてやった。
「ちょっとドログバせこくね?ディフェンス追いかけても何もできないじゃん」
「パワーイズジャスティスですよ」
「てかそっちのキーパー止め過ぎだし。こっちのやつシュート打たれたらなんか腰抜かすだけじゃん」
「言い訳はやめたまえ。強い方が勝つんだよ」
「決定機こっちのが多いし」
「サッカーにはね、芸術点なんてものはないのですよ。素直に負けを認めたまえ」
つまんねー、とコントローラーを投げて寝転ぶ皇太のコーラを飲み干して僕もコントローラーを置いた。時計はもう二時前を指していた。
「腹減らね?」
「減らない。まかないでお腹いっぱい」
「なか卯行こうぜ」
「話聞いてた?」
まあいいじゃん、と言って皇太は跳ね起きるともう靴下を履いている。まあいいけど、と立ち上がってゲームの電源を落として財布を探す。だいたいいつもこの通り、皇太に引っ張られていた。別にそれで居心地良かったし、僕には特にやりたいことなんてなかった。
蒸し暑い月明かりの下、二人で赤いママチャリに乗って駅前の方へ走った。僕の方は中古屋で三千円にまけてもらって買ったものだが、皇太のは学校の自転車置き場に捨て去られていたボロボロの自転車から綺麗な部分を外しとって二人で組み立て直した代物だ。だからあまりこんな夜中に乗っていて警察の防犯登録チェックなんかにひっかかるとマズイことになる。そんなスリルも彼の楽しみの一つだった。
「なんかさー、どっか行きたいな」
「飽きたっつってたじゃん。てかクロアチアのお土産もらってないんだけど」
「中也の実家って三重だよな?このまま進んだら行けるかな。行けるよな。全ての道はローマに通づるって言うし」
「ローマ行ってんじゃん」
「なあ、このまま中也の実家行こうぜ」
「は?いやなか卯は?」
「腹減ってないって言ってたじゃん」
「僕はね?てか本気じゃないよな、僕クロックスなんですけど。財布しか持ってないし」
「大丈夫っしょ」
「冗談だよね?とりあえずなか卯行って落ち着こ?」
ははは、と笑うと皇太は電灯の白い光の中を立ち漕ぎしてどんどんスピードを上げていく。
「ちょ、待てって、僕行かないよ?」
慌てて僕も追いかけるが、何が楽しいのか彼は真夜中に大声でピロウズの「I know you」を歌いながら遠ざかっていく。
それから数時間後、大野市に入る頃には朝日が昇り始め、空が青紫色に染まっていた。その景色は息をのむほど美しく、横を走る皇太もポカンと口を開けて見惚れていた。僕らは意味もなく小づきあい、笑いながら立ち漕ぎで前へと進み続けた。
しかしそんな元気も長い長い大野市の端、岐阜へと続く坂道を目の前にするとどこかへ吹き飛んでしまった。
「帰る?」
「……いや、ここまで来たんだし、進むしか」
「つってもまだ福井出てないんだけどな」
「こっからが本番ってわけね。の、望むところだ」
しかし、早朝には美しい顔を見せていた空は、いつの間にか薄暗い曇天に変わっていた。
「あの、雨降りそうなんですけど」
「……コンビニでカッパ買っとこう」
「やっぱり、進むんだね」
「ああ」
「正直、進みたい?」
「……それは、もう関係ないんだよ。やるしかない。負けられない戦いがここにある」
「それいつも思ってたけどさ、なんか大げさに言ってるけど、他のチームだってそうだし、毎試合そうでしょ」
「雰囲気を大事にしようぜ。だから中也は童貞なんだよ」
「今それ関係なくね?殴るよ?」
ポンチョ型の透明なカッパを着込んだ僕らはお互いの間抜けな姿を笑い合いながら曇り空の下坂へ向けて走り出した、のだが、お互い数キロも行かないうちに完全に後悔し始めていた。
「……トラック怖くね?」
「滑ったら死ねるよね」
案の定降り出した小雨に濡れた白線は磨り減ったタイヤを滑らせた。トンネルの中で背後から迫るトラックの音は反響してとても巨大なものに感じた。トンネルの出口で素晴らしいタイミングで風に吹かれ垂れ下がってきた蔦に皇太が悲鳴を上げる。こんなにしんどい思いをする理由は見当たらなかったが、二人なら何故か無敵なような気がしていた。そうは言っても、坂道を登るママチャリはちょっとした風で全く進まなくなる。むしろ押して歩いた方が早いくらいだったが、皇太が頑なに降りることを承諾しなかったので、僕らは無駄な労力を賭してペダルを漕ぎ続けた。いつの間にか二人とも無言だった。話す力さえ惜しかったのだろう。
どれくらいの時間が経っただろう。もう何も考えられなくなっていた。曲がりくねった峠道をいくつ超えただろうか。あそこまで行けば下り道だと思っても、そこまで行くと斜度の違う坂が待ち受けているだけだ。そんな錯覚に悪態を吐く体力もなくなってきた頃、僕らは山の中に九頭龍温泉という看板を見つけた。
「オアシスだ!」
皇太は立ち漕ぎで駆けよろうとしたが、太ももが悲鳴をあげたのかすぐに座り直した。僕は笑おうとして思わずむせた。そしてようやくたどり着いた時、自転車を降りると身体中から力が抜けるように二人ともよろめいた。お互いに肩を貸しあって入り口まで歩く。
「どこの紛争から逃げ出してきたんだよ」
「お、まだそんなこと言う元気あるんだ」
「てか今何時?」
「一時過ぎ」
「思いつきで何時間自転車漕いでんだよ僕ら」
ずぶ濡れで息絶え絶えの僕らを見て、困り眉のフロント係のお兄さんが慌ててタオルを持ってきてくれた。心からの感謝を述べて風呂場へ案内してもらうが、そのタオル代はのちのちきっちり請求されていた。
シャワーでさっと体を流し、誰もいない大浴場に二人で倒れこむように浸かった。
「やばい、気持ちよすぎて死ねる」
「あー、これはフィンランドの温泉超えたわ」
それからしばらく、僕らは無言で疲れがお湯に染み出していくのを感じていた。水滴が落ちる音を聞いていると、体も意識も湯船に溶けていきそうだった。
「俺さ、小説家になりたいんだ」
ポツリと呟いた皇太。それは、初耳だった。だって彼は、家を継ぐんだと思っていたから。振り向くと、彼は天井を見上げ幸せそうに目を閉じていた。
「そうだったんだ。どんな話が書きたいの?」
誰にも言うなよ、と前置きして、皇太は僕の隣から正面へ移動した。
「たぶん、永遠に憧れてるんだと思う。ディズニー映画に出てくるみたいな、真実の愛とかさ。そんな、心の底から信じ切れるものが欲しいんだろうな。うちの親父には、そんなこと言ったら軽蔑されるだろうけど。俺、弟がいるんだよ。腹違いの。帝斗って名前。笑えるだろ?腹違いの兄弟で、名前が皇帝になってるんだぜ。適当だよな。でも帝斗は、いい子だよ。自閉症だけど、本物の才能を持ってる。あいつは絵を描くんだ。それが、なんていったらいいのかわかんないけど、すげー綺麗なんだよ。幻想的っていうか。一目見れば引き込まれる。というか、引きずり込まれるんだよな。そんな力があいつの絵にはある。俺は、頭もそんなに悪くないし、自分で言うのもなんだが見た目も悪くない。人を使うのだって上手い自信があるし、親父の後を継ぐ能力はあると思う。けどさ、結局、普通の人間の枠からは出られないんだよ。何も特別じゃない。身一つで世界に示せる才能なんてないんだ。帝斗を見てると、そんな自分のちっぽけさが嫌になる。自分なんて何の価値もない人間だって思えてしまう」
出会ってからまだ半年も経っていないが、あれだけ皇太と過ごしてきた僕にとって、どれも初めて聞く話だった。皇太が自分のことをそんな風に思っていたなんて知らなかった。いつも自信満々で、自分勝手で、それなのに誰より周りが見えている、如才ない皇太の皮の下には、そんな脆い人間がいたなんて。気がつかなかった。
「そんな顔するなよ。俺なんてその程度の人間なんだ」
「おまえがその程度なら、僕はどうなるんだよ」
「中也は、優しいやつだよ。俺はお前が好きだ」
「ええ、待てよ、風呂でそんな告白するなよ」
皇太は笑ってまた僕の横に移動した。
「そういう意味じゃねえよ、何ビビってんだよ傷つくわ」
「何優しげな顔してんだよ怖いって」
「俺、中也がモデルの小説書いたんだ、最近」
「……どんな話?」
怒るなよ?と上目遣いでこっちを見るから、僕はその端正な顔に思わずドキッとした。
「主人公は、自分が大嫌いで、いつも自己嫌悪の言葉を心の中で繰り返してる。優しすぎて何もかもが自分のせいだと思ってしまうんだ。テレビで震災のニュースを見れば、どうして自分ではなく一生懸命生きている人たちが死ななければいけないんだって、数日は思い悩んで何も手につかなくなる。そして、そんなことを思ってしまう自分のことを、偽善的なナルシストだと思ってまた嫌悪する。何も選ぶことができなくて何者にもなれない自分を貶めている。それでもどうにか何かを変えたいと思っているけど、何をどうすればいいのかわからない。そして自己嫌悪で気持ち悪くなると、想像のナイフで自分の心臓を刺すことに癒しを求める」
「ちょっと、僕のことそんな風に思ってたの?まあ、そんなに否定もできないけど」
「物語的誇張だよ、気にすんな。それから、主人公はどんどん頭の中のナイフに依存していくんだ。そしてある日、ナイフを持った子供の頃の自分に追われる夢を見る。その日から、自分を守るために頭の中のナイフではなくて、本物のナイフを手に入れなくてはという考えに囚われる」
そこで皇太は言葉を切った。僕はしばらく待ってから、それからどうなるの、と尋ねた。
「そこからは、あんまり気に入ってないんだ」
「いいから聞かせろよ気になるじゃん。てか読ませてよ今度」
「いつかな。気が向いたら」
「そんな暗い話に勝手に使っといて読ませないはないって」
「うるさいな、俺が小説家になるまで楽しみに待ってろよ」
「著作権の侵害だ」
「別に中也の名前使ってねえし」
「僕がモデルだって言ったじゃん」
「録音しましたか?」
「ふざけんな」
小学生みたいに湯船に沈め合いが始まり、しかしお互い思っていたより体がへろへろで、息の上がった顔を突き合わして、なんだか笑えてきた。体を拭いて濡れた服を嫌そうに着る皇太を見ながら、小説家か、と僕は心の中で呟いた。皇太の中には輝く夢があり、それに向けて動いてもいる。僕は、いったいどこへ行きたいのだろう。彼と肩を並べ続けるには、どうすればいいのだろう。疲れのせいか、のぼせたせいか、目の前が真っ暗になるような感覚に襲われ、そんな弱くて何もできない自分が皇太にバレないように椅子に腰掛けて頭を拭いた。
痙攣する手足で懸命にハンドルを握り、岐阜に出る急で長く曲がりくねった坂道を下り切った僕らは、道の駅のベンチで雨に打たれながら半分死んでいた。通りすがりのおばさんが心配して暖かいココアを買ってきてくれたのだが、記憶が曖昧できちんとお礼を言えたのかすら怪しい。それから近くの旅館を教えてもらい、濡れた衣服をコインランドリーで洗っている間に一度完全に意識が飛んだ。そして気がつけば旅館の布団で眠っていた。質素な朝ごはんを半分眠ったまま食べ終わる頃には昼前になっていて、まずはびしょ濡れの靴をコインランドリーの靴乾燥機で乾かした。そんな丁度いい機械があるなんて初めて知った。そうやって装備を整えたあと、ようやく僕らは気がつくことになる。お尻が痛い。とてつもなく痛い。とても自転車に跨ることができるコンディションではない。お互いの顔を見て、これ以上進むことが不可能であることを確信した。
「いやあ、冨山さんすみませんこんなところまで」
「構いませんよ。それにしてもあんな自転車でよくこの山を越えましたね、若いなあ」
「いや、死ぬかと思いましたよ。最後のこの坂とか、手が滑って転んだりしてたらね。あれ五十キロくらい出てたんじゃない?」
「あれほんと命がけだった。握力無くなりかけてたし、雨で滑るし、ブレーキ効かないし、横崖だし、意識飛びかけてたし」
「アホだったねほんとに」
皇太の会社の人の迎えで僕らは福井県に帰った。あれだけ眠ったのに車中でも気がつくと意識がなくなっていた。どうして知っていたのか、冨山さんは僕のアパートの前で車を止めて起こしてくれた。涎を垂らして眠りこけている皇太を寝ぼけ眼で一目見てから僕はお礼を言って車を降りた。アパートの階段が長く感じた。そして敷きっぱなしの布団に倒れこむと、もう一度闇の中へ落ちていった。
結局、皇太の書いた小説を読むことはできなかった。彼はあの話をどこへ持って行こうとしたのだろう。どんな救いを見出したのだろう。長野県へ向かうバスを待ちながら、そんなことを思い出していた。あの日とは違い、今日の空は眩しいほどに晴れ渡っていた。雲ひとつなく、なんとなく太陽の光から逃れたい気持ちになった。世界は今日も明るく、皇太のいない日々は何の問題もなく回っていく。何かがおかしいと思った。けれど、おかしいのはきっと僕の方だ。だから、誰にも見つからないところで、この罪を背負おうと思った。そうやって逃げ続けることが、僕の罰なのだろう。
大学生活はあっという間に過ぎ去ってしまい、僕らは無事進級して卒業論文着手に必要な単位もあらかた取り終わっていた。あとは通年の実験発表を無事終えれば、研究室配属と就職活動が待っている。インターンで行きたい企業も決まっていたが、自分がそうやって普通の社会人になっていくことに実感は未だ持てていなかった。
皇太と食堂で昼飯を食べながら実験レポートを作っていた時、彼女はやってきた。近づいてきた途端、その女は皇太の頬を思い切りよくビンタした。
「え、何、誰?」
「さいってー!」
左頬を抑える皇太にそれだけ吐き捨てると、目を丸くする僕には見向きもせず踵を返してどこかへ行ってしまった。
「おまえまたなんかしたの」
「知らね」
「いや知らねじゃないっしょ。大丈夫か?」
「ああ。まあ気にすんな、よくあることだ」
「よくあってたまるかよ。今の子教育学部の子でしょ、優香ちゃんの後輩じゃなかったっけ」
「知らね。それよりここのデータ見せてよ、俺メモ取り忘れてた」
「なあ、最近お前変だぞ。僕んちにもあんまこないし、なにしてんだよ」
「うるっせえな!」
食堂が一瞬、しんと静まり返った。皇太は大声を上げた自分に驚いたように目を見開き、黙ったままの僕を見た。
「ごめん、ちょっと寝不足でさ。それよりデータ見せてよ、昼休み終わったら提出なんだからさ」
無理な作り笑いを浮かべる皇太が痛々しかった。そんな姿を僕に見せる彼ではなかった。この頃の彼はどこかよそよそしいような気がしていたが、それは気のせいではなかったのかもしれない。僕は無言でレポートを皇太の方へ押した。彼は「さんきゅ」と言って僕の視線を逃れるようにレポートに取り掛かった。どうしてだろう。どうして何も言ってくれないのだろう。僕が、何もできないからか。
午後の実験を終えて皇太と別れ校門を出ようとした時、優香が僕を見つけて駆け寄ってきた。
「中也くん、皇太知らない?」
「さっき教務課に行くとか言ってたから、まだその辺にいるんじゃない?電話してみる?」
「あいつ最近電話出ないから。てか昼休み、皇太と一緒に居た?」
「あ、うん」
「じゃあその場に居たんだ」
「ああ、ビンタね。なんだったのあれ」
「あいつ最近変じゃない?」
僕は自転車から降りて優香と教務課の方へ歩いた。
「優香ちゃんもそう思う?」
「うん、なんかいつも気が立ってるし、女癖は昔から悪かったけど、最近は節操がなさすぎる。中也くんと何かあった?」
「……いや、そんなことないはずだけど。でも最近夜あんまり遊びにこない」
「そっか。なんだろ、家で何かあったのかな」
「わかんない。聞いてみよっか」
「うん、お願いしていい?」
時計を見て優香は「行かなきゃ」とどこかへ駆けていった。いつも忙しい子だ。彼女のスケジュール張はいつ見てもびっしりと予定が詰め込まれている。僕は一応教務課まで行って皇太の姿を探してみたが見つからなかった。バイトもあったしラインで「大丈夫か」とだけ送って僕は一度アパートに帰った。
バイトから戻ると部屋には明かりが点いていて、勝手に上がり込んだ皇太がポテトチップスとコーラを床に置いて寝そべったままゲームをしていた。僕はそんな姿に何故かとても安心して靴下を洗濯機に放り込んだ。
「よお」
「お帰りー」
「飯食った?」
「ああ。サンドイッチ残ってるけど食う?」
「いや、いい。それより昼のこと説明しろよ。ビビったじゃん」
あはは、と笑って皇太はゲームをセーブして立ち上がった。
「なあ、俺どう見える?」
「どうって何よ、漠然としてるな」
「最近、何か変わったか?」
「……髪切った?」
冗談でそう言うと、皇太は基地外のように大きな声で笑った。部屋着に着替えていた僕は驚いて振り返ると、彼はまだその顔に笑みを貼り付けたまま、じっとこっちを見ていた。僕はそんな皇太を見て、何故か寒気がした。何か、大事なものを見落としていたような、そんな恐怖を覚えた。
「なあ知ってる?覚醒剤ってさ、結構簡単に買えるんだぜ。一グラム三万五千円くらいだったかな。注射器五本付きでさ。それをライターの裏でこうやってすり潰してさ。注射器に入れて、ここに打つんだよ。覚醒剤打つとさ、血管が太くなるんだよな。ほら、見てみろよ。右腕と左腕で、ここの血管の太さ全然違うだろ?すげーんだぜ、覚醒剤打つとさ、全然眠くなんないんだ。それに、何も食いたくなくなる。何も必要なくなるんだよ。けど、なんかしてねえと落ち着かなくてさ。何でもできるんだけど、何をしても満たされる気がしなくなる。マリオカートとかでスター取って無敵状態になってても周りに誰もいなかったら虚しいだろ?あんな感じ。でも、何をしてもさ、求めるものは得られないんだ。だって俺、何が欲しいのかわかんないんだもん。何がしたいのか、自分がどうなりたいのか、どう生きればいいのかわかんないんだよ」
「皇太……」
僕は、何を言えるだろう。目の前で、取り乱して涙を流す親友に、僕は何ができるのだろう。わからなかった。僕はただ、彼を抱きしめた。震える皇太の体の熱が僕に伝わってくる。彼はここに生きていた。けれど、どこへ行けばいいのかわからなくなっていた。そして僕は、彼に何も示してあげることができなかった。
「なあ、何があったんだよ。いや、いいよ。何にもないから怖いんだもんな。逃げらんないんだもんな、自分からは。なあ、前みたいに僕んち遊びにこいよ。僕は、皇太のこと好きだよ。大丈夫だからさ。遠慮してたんだろ?お前優しいもんな。僕に弱い姿とか見せたくなかったんだろ、カッコつけめ」
僕の胸の中で女の子みたいに皇太はしばらく泣き続けた。けれどいつの間にか笑い出して「なんだよお前」と僕のことを強く抱きしめた。
「なんで怒んないんだよ。なんでこんな最低な俺のこと、嫌いになんないんだよ。覚醒剤してたんだぜ?友達の女食ってさ、めちゃくちゃして、お前のこと避けて。なのになんで俺のこと好きだとか言えるんだよ。馬鹿かよ」
「そうかもね。僕も結構ドライだから。別に僕は皇太に迷惑かけられてないし。今のところね」
「……中也も結構ひどいやつだよな。意外と倫理観ガバガバ?」
「皇太と友達なんだもん、そりゃそうよ」
「どういう意味だよひっでー」
「てか今日鍵かかってた気がするんだけど」
「俺お前んちの合鍵結構前から持ってっから」
「まじかよほんと気持ち悪いなお前」
「まあね。てか煙草吸っていい?」
「ダメっつってんだろ毎回、そと行けそと」
僕らは酔っ払ったように笑いながら階段を降りて足羽川まで歩いた。僕は皇太から煙草をもらって初めて吸ってみたが、思わずむせてしまって盛大に馬鹿にされた。腹が立ったのでもう一本もらったが、結局むせて笑われた。
「昔言ってたさ、僕が主人公の小説のラスト、僕ナイフで自殺するんでしょ」
「まあ、当たらずといえども遠からず、かな」
「ひっでえ。はやく読ませろよ」
「やだよまだ満足してないもん」
「どんなところが?」
「全体的に。てかどうせ死ぬならナイフよりも銃で死にたいや。最期には頭ん中に花火みたいな音が鳴り響いてて、その儚さの中に消えていく、みたいなさ」
「なるほど、ちょっとだけ小説家っぽいな」
「中也ってさ、優香のこと好きだろ」
「何だよ急に」
「いいから正直に言えよ。いつから?」
「うるせえ」
「何照れてんだ言えよ」
「……最初からだよ」
「何、一目惚れ?ピュアだねえ」
「うっせ。てか、皇太も好きだろ」
皇太は新しい煙草に火をつけながら当たり前のように「好きだよ」と笑った。
「……やっぱりね」
「それも、お前が出会う十年以上も前からな」
「言ったことないの?」
「ないね。あいつは、いいやつだよ。幸せになって欲しい」
「なんだよその言い方。どっか行くみたいじゃん。僕を置いてくなよ」
「俺がいなくなったら寂しい?」
「まあ、自慢じゃないけどほとんど唯一の友達だからね」
「悲しいやつ」
「うっせ。お前がいれば十分なんだよ」
「なにそれ愛の告白?寒気したわ」
「僕の胸で泣いてたやつがよく言うよ」
「うわ、ほんとそれ一生の不覚だわ。忘れろ」
「一生言い続けるから覚悟しとけ」
僕らは煙草が一箱なくなるまで、どうでもいい話をして笑いあっていた。これで何もかも元どおり、僕はそんな風に簡単に思い込んでいたのかもしれない。
それから数日後、僕は皇太に誘われて花火大会へ行くことになった。男二人で花火大会ってどうなのかと少しひいたが、そんな思い出も後で笑えるかと承諾した。海上から打ち上げられる花火で、皇太は海辺の席を購入済みだった。何故か現地集合だと言うので、僕は素直に従ってえちぜん鉄道で揺られ三国港までぼんやり向かった。駅に近づくにつれ、浴衣姿のカップルや家族連れがどんどん増えてきた。こんな中で男二人海辺で花火を見るのはいかがなものかと居心地の悪さを感じ始めるが、もうどうにでもなれと思った。しかし指定された場所にいたのは皇太ではなく、優香だった。僕は心の中で「やられた」と呟いた。
「あれ、中也くん?」
「うん、そうみたい」
「皇太は?」
「僕も、皇太に呼ばれたんだけどね」
予約されていた席は二人用だった。僕らは顔を見合わせて、照れ笑いを交わし合った。
「あいつめー」
「謀られたねー。まあ、せっかくだし」
「そうだね。せっかくだし、楽しませてもらいますか!とりあえず何か食べる?あっちに屋台いっぱい出てたよ」
浴衣姿の優香はとても魅力的で、僕はその背中について行きながら胸が強く痛むのを感じた。優香もきっと、皇太のことが好きなのだろうと、僕は思っていた。それは、皇太のために着てきた浴衣だろう。しかし今、ここにいるのは僕で、どれだけ不自然でもそれは変えることができない。
それから僕らはまるでカップルのように屋台の食べ物を分け合って笑いあった。そして日が暮れ、二人で見た花火は、今まで見たどんな花火よりも美しく僕の心に刻まれた。それは、隣で目を輝かし、こっちへ微笑みかける彼女が、何よりも愛しかったから。
「大丈夫?」
「うん。それにしてもあっつい」
帰りの電車は花火帰りの人でディズニーランドのアトラクション以上の混み具合だった。僕は周りの人から優香が押しつぶされないようになんとか踏ん張っていたが、そろそろきつくなってきた。優香はそんな僕に気づいているのか何度も「ごめんね」といって心配してくれる。
電車が大きく揺れ、僕らは思わず抱き合った。一瞬時が止まったように、僕はそのまま動きたくなくなってしまった。ハッとなって離れるまで、どれくらいの時間が経ったのかわからない。
「ごめん」
「いいよ」
上目遣いの優香と目が合い、思わず笑い合う。好きだ、と思った。その時にはもう、僕は彼女に口づけしていた。
唇が離れ、僕らはお互いの目を見つめあった。言葉は必要なかった。僕らはお互いの目の中に刻まれているものを、お互いに理解しあったのだった。
電車が駅に着き、生ぬるい夜風の中に、僕らは手を繋いでしばらくぼんやり立っていた。明るい月が静かに佇む、芝居掛かった夜だった。雲が流れ、月明かりを隠した時、優香が「もうちょっと一緒にいたいな」と呟いた。
「なんて、ありきたりなセリフは幻滅?」
「いや、僕もそう言おうと思ってたところ」
「シンクロだ」
「仲良しだね」
顔を見合わせ笑いあって、二人で僕の家へ向かった。皇太の顔が頭をよぎるが、今だけはこの瞬間に浸ってもいいだろうと、僕は優香の手をぎゅっと握りなおした。そして、次の日の朝、皇太が死んだ。
「ねえどうして?」
泣き続ける優香に、僕は何を言えばよかったのだろう。それに、彼女は何を問うたのだろうか。僕が大学を辞めてどこかへ消えようとすることか?それとも、皇太が死んだ理由だったのだろうか。彼女にも、わからなかったのかもしれない。
「みんな、何かから救われたいんだよ。僕もそうだし、皇太もそうだったのかもしれない。あいつは、自分を救ったんだ」
「そんなの、間違ってる。死ぬことが救いだなんて、そんなの嘘だ。死んだら何もかも終わりだもん。生きてるからこそ、何か見つけられるんじゃないの?」
「優香ちゃんは、幸せなんだよ」
「そんなことを言ってるんじゃない!わからないよ、皇太のことも、中也くんのことも。そんなの、ただ逃げてるだけだ」
「そうかもしれない。けど、生きててよかったって思うことがあるなら、死んだ方がよかったって思うこともあるんじゃない?」
「それは生きてるから思えることじゃん。そんなの、比べられないよ。ねえ、ならどうして中也くんは今泣いてるの?どうして?どうしてそんな風に諦められるの?わからないよ。私はどうすればよかったの?」
僕はどうすればよかったのだろう。僕らに、いったい何が変えられた?優香の手を離して、夜空の月に尋ねてみても、何も教えてはくれなかった。いつだって、何もかもがそこにあるはずなのに、僕らはそれを掴むことができない。残酷だから、現実なんだ。
「誰も、他人を救うことはできないよ。どれだけその人を知っているつもりになっても、その人の心の奥底にある箱に触れるのは、その人自身だけなんだ。何もかもを選択するのは自分自身だ。自分以外に、自分を救える人はいないんだよ」
「そんなことない!人は支え合うことができるって、私は信じてる。人は独りじゃない。だから今私はこんなに痛いんだよ。中也くんもそうでしょ?皇太は私や中也くんの中にちゃんといたんだもん。ねえ、行っちゃ駄目だよ。中也くんまで独りになろうとしなくていい」
「優香ちゃんはとっても素敵な人だと思う。僕は君が大好きだよ。だから、幸せでいて」
「こんなの間違ってる」
「うん。でも、それを選択することができるのも救いなんだよ、きっと」
「そんなことどうだっていい!おかしいよ」
「うん。君が正しいから、安心して」
そして僕は今、バスに揺られカラマツの森をぼんやり眺めていた。心には何も浮かばなかった。これからどうするのか、どうすればいいのか、どうしたいのか、何もわからなかった。ただ逃げ出して、ぼんやり時間をやり過ごしているだけ。雪上車に乗り換えて、スキー場の向こうまで運ばれ、気がつくと旅館の中の屋根裏部屋のような個室で、シーツのしかれていない布団に横たわって天井を見上げていた。何時に夕飯だって言ってたっけ。今でも毎日お腹が減るのは笑える話だ。少し眠って、ノックの音に起こされた。
「長谷川くん、ご飯食べないと下げられるよ?」
「あ、わかりました。ありがとうございます」
機械的に食事をして、ぼんやりと明日の説明を受けた。制服と布団のシーツを持って部屋に帰ると、やることもなく、また眠った。夜中の二時ごろに目が覚めて、僕は何かに呼ばれるように外へ向かった。玄関を出ると、オレンジ色のランプの光が揺れていた。山奥だが、今日はそんなに澄んだ星空じゃなかった。薄い靄のような雲が星空をぼんやりと薄めていた。雪の中へ踏み出して、旅館の真上に上る半月を見上げた。月光は丸いベールを空に広げ、冷たく僕を見下ろしていた。眩しいほどの月明かりは、しかし僕には降り注いで来ないようだった。美しかった。僕は意味もなく、涙がこみ上げてきそうになった。月から目をそらし、煙草に火をつけた。無心で一本吸い終わり、もう一本取り出そうとした指先が、寒さに悴んだのか、それを取り落とした。
拾おうとした視界の端に、狐の姿を見た。空中で行き場を無くした手を、ゆっくりとコートのポケットに戻した。「探し物は何だろう?」と狐が尋ねた。
「わからない。たぶん、どうしてみんな平気な顔をして生きているのか、知りたいんだと思う」
「死にたいの?」
「死にたいわけじゃない。けれど、わからないんだ。例えば、ある銀行員の男がいるとする。彼は妻子持ちで、上の子がもうすぐ中学受験だ。そのために自分は頑張って働かなければならない。でも、本当にそうなのだろうか。息子にしたって、遊びたいはずなのに、友達との約束を断って塾へ行っている。それは本当に彼の意志なのか、それとも親の願望のためでしかないのだろうか。私立中学へ進むのだって、どうしてそうしなければならないのか、親も、子供も、本当にわかっているのだろうか。子供の将来のため。それが、なんだっていうのだろう。子供の幸せを願うのは親なら当たり前だ。でも、それはどうしてだろう。男はそんなことを考え始めてしまう。妻子のことは愛している。けれど、それはどうしてだ?幸せになりたい。けれど、どうしてだ?明日も同じように生き続ける。どうして?彼にもやりたいことはあった。彼は昔から小説を書きたいと願っていた。けれどそんな願望は心の奥の箱にしまい、仕事に行き、帰れば家族と夕飯を食べ、テレビを見て、それから、子供達と一緒に眠る。次の日起きれば、またその繰り返し。そして、それだけで満足していた。十分に幸せだった。行きたい場所があっても、妻や子供の意見を優先した。久しぶりに本を読み、夢中になっているところで子供に遊ぼうと誘われれば、喜んで従った。これは誰の人生なのだ?そして、そんな疑問を持ってしまう自分を強く恥じ、嫌悪した。どうして?」
「人生は、他人のものだって?」
「さあ、わからない。そうかもしれない。そしてそれを本人さえ望んでいるのかもしれない。独りの人間なんてものは存在できないのかも。けれど、僕らは個人の意識というものを持っていると信じている。頭の中は他人にはわからない。自分だけのものだ。誰もが心の奥底に、自分だけの箱を抱えて生きている。自分はどうして生きているんだろう。そんなことよりも大切なものが、目の前にはたくさんあった。けれど、本当にそうだろうか。どうして生きているのか、それは大して重要なことではないと、言い切れるのだろうか」
「だから君は、他人を愛せないと言うのかい?心の奥の箱、その中にあるものを取り出すために」
「……僕は、ある女の子を強く愛していると思っていた。僕は彼女と、一度だけ寝たことがある。けれどその時でさえ、突然心が冷める瞬間があった。彼女が感じ、昇り詰めようとしている時、僕は突然、何をしているのだろうと思った。そして、彼女ももしかしたら、そう思っているんじゃないかと考えると、とても怖くなった。その瞬間に夢中になれないんだ。何かを演じている自分に、不意に気がついてしまう。僕はアイドルが好きで、皇太とよくライブに行った。ライブ中はみんなと同じようにペンライトを振って、大声でコールしたりして。五色の光の波の中で、その瞬間だけになれたような気がした。でも、やっぱりそんな自分を観察している僕がいた。その瞬間に夢中になっているような演技をしている自分を、僕は冷めた目で見ていた。何の意味があるのだろうって。意味のあることなんて、どこにもありはしないのに。その瞬間を楽しめばいいのに、これは何なのだろうって、そんなことしてどうなるんだろうって、いつもいつも、一瞬のうちに全てを無価値にしてしまう目が、僕の中にあった。何かが終わった後も、その瞬間に浸っている演技を続ける僕は、とても醜い存在だと思った。濡れたような目で僕を見つめ微笑んだ彼女。ライブの後、興奮しながら語り合うオタク友達。みんな今に夢中で、その瞬間を強く感じ生きる能力があった。けれど僕は、自分の演技をよく知っていた。そして、もしかするとみんなそんな演技をしているんじゃないかと思うと、とても恐ろしくなるんだ。何もかもが紛い物で、みんな僕を見て笑っているんじゃないかって思ってしまう」
「君は、永遠が欲しいのかい」
「そうかもしれない。おとぎ話に出てくるような、真実の愛なんてありえないと考えながら、それに憧れているのかもしれない。というよりも、信じたいと、思っているのかな。でも、永遠に変わらないものなんて、何の魅力もないじゃないか。それなのに、どうしてそんなものを求めるのだろう」
「不安だから。独りが怖いから。寂しいから。君は小さな子供のままなんだ」
「みんなどうして、信じられるんだろう。どうして生きていけるんだろう」
「君も、生きているじゃないか」
「そうなんだろうか。僕にはその実感がないんだ。現在に、目の前のものに夢中になりきることができない。たぶん、暇だからだろう。物心ついた頃から、中学でも、高校でも、大学でも、暇だったんだろうな。勉強していても、部活をしていても、友達と遊んでいても、恋愛していても。何か別のことを考えていたり、どこか別の場所にいるような気がしたり。きっと、何もしなくても生きていけると感じていたから。明日食うものに困るわけでもなく、何かに追われているわけでもなかった。明日が来るって信じきっていて、何もかもが退屈だったんだ。馬鹿だから、そう思い込んでしまっていた。強く、心を捉えるものがない。目の前に何もかもがあるはずなのに、僕は何も見えていなかった。見ようとしなかったのかもしれない。皇太も、そうだったのだろうか。わからない。自分のことさえわからないのに、他人のことなんて理解できるはずがない。けれど僕は、彼を理解しなければいけなかった。彼はそれを僕の中に求めていたのだから。そして僕は、彼を助けることができなかった。いや、そんなことを考えることすら、僕の傲慢さかもしれない。僕に何ができただろう。あの日に戻って、今の僕に何を変えられる?何も変えられない。僕は誰も救うことはできない」
狐は笑って踵を返し、森の中へ帰っていった。雪の上に落ちた煙草を見つめ、僕はどこへ帰ればいいのだろうと思った。行きたい場所も、帰りたい場所も、僕にはもうなくなってしまった。
煙草を拾い、震える唇に咥えた。体が煙草の熱さえ欲するほどに冷え切っていた。ライターの火は、なかなか点かなかった。カチ、カチという音が、闇の中でこだまする。ようやく煙を吸い込んで、傲慢な顔で僕を見下ろすあの月へ吹きかけた。足元の凍った雪を蹴ると、ガラスの欠けらを撒き散らしたような乾いた音がした。見下ろすと、オレンジ色の光に照らされた僕の影が、油のように茶色く濁っていた。消えてしまえ、と誰かが囁く。僕はその影に向かって、火の点いた煙草を投げ捨てた。
僕はただ逃げ出しただけだ。そしてその先に、いったい何があるというのだろう。何もありはしない。けれど僕は生きている。それが何だっていうのだろう。これは何なのだろう。続いていく、その意味は?そうじゃない。意味だとか価値だとか、そんなものは後付けでしかない。生きているのは今この瞬間、ここにあるはずなのに、僕はいつもそれを蔑ろにしている。どうして今を生きられない?皇太は、その瞬間、今を掴み取ったのだろう。僕はいったいどうすればいい?
「小説を書け。そして、忘れろ」
皇太なら、そう言ったかもしれない。そう、確かに彼は僕の中にいた。優香が正しかった。けれど、僕は彼を忘れない。どうして皇太が死ななければいけなかったのか、僕にはわからないんだ。例えば、こんな会話もありえたかもしれない。
「どうして皇太は死にたいの?」
「俺はただ、自分の存在を信じたいだけなんだよ」
「……君が『自分』と呼称するものはきっと世界中のどこにでも存在するものなんだ。それは絶望ともとれるし、救いととることもできる。『自分』なんてものは存在しないと考えることもできるし、逆にその不特定多数こそが『自分』というものの存在を保証していることになるのかもしれない。僕にとってはさ、皇太は今生きていて、ここに存在する。それが僕にとっての事実だ。そして君がどう思おうと、君以上に多くの人間がそのことを認めたのなら、君はそれを否定できなくなるんじゃない?貨幣価値だってそうだし、飛行機が当たり前のように移動手段になっているのもそうだ。人間が空を飛ぶなんて不自然なものでさえそうやって顔の見えないそこら中の『自分』がいるから肯定されている。みんながみんなおばけが見えるって言い出したら、本当に見えるようになるのかもしれないね。何もかもが何かに取って代わられるものだということはさ、赦しなんじゃない?世界が君を失っても何も変わらないという事実。けれど僕が変わってしまうということもまた事実でしょ。そんな矛盾も赦しだ」
「いや」と皇太は頭を振る。
「それは罪でも罰でも、ましてや赦しでもなく、あたりまえのことさ」
皇太が死んでも、僕は彼を救わなければならない。頭がおかしいだろうか。それでも、僕はそれを選んだのだから、そこから始めなければどこへも行けない。だから僕はこの話を書いた。
ベッドの上で僕の書いた小説もどきを読んだ皇太は「相変わらず暗いやつ」と骨ばった顔で笑った。
「まあね。けどこれでわかったでしょ?お前が死んだら僕の人生までその死に巻き込まれるんだよ。お前は独りじゃ死ねない」
「……まいったね。やっかいな友達を持ったもんだ」
「それに僕、お前が昏睡状態だったこの三ヶ月、本当に大学辞めて旅館で働いてたからね。料理長くっそ怖いしさあ、毎日どなられたおして。それもお前のせい。だから責任とって家継いで、僕を雇ってもらわないといけないわけ。僕の人生まるまる皇太とのコネにかかってるんだから、しっかり生きて僕を養ってもらわないと困る。これでもう死ねないでしょ?」
皇太はしばらく何も言わず俯いていたが、やがて肩を揺らして笑い出した。
「ほんと、中也って頭おかしいよな」
「ありがたく思え」
「ああ。さんきゅーな」
「ま、本当にそう思えるかどうかはこれから長いこと生きてみないことにはわかんないけどね」
「こういう形のメンヘラもあるんだなあ、勉強になったわ。えらく高い授業料だけど」
「人生賭けてやったからね、勝手に。レートはマックスだよ」
皇太は目を背けたくなるほどやせ細った腕を伸ばして原稿をテーブルに置くと、大きく伸びをした。
「はー、仕方ないなあ。生きるかあ」
深いため息がシンクロし、僕らはぷっと吹き出した。ああ、それくらいでいいんだよ、と僕は思った。無理に頑張って生きなくても、仕方なしに生きたって、それでいいんだ。死んだ方がよかったって思えるくらいなら、きっとどこかで、生きててよかったとも思えるだろうから。