天使の誘惑

メルバっていうのは女の人の名前だよ。左隣のカップルの男がそう言うのを聞いて私は顔を上げた。ほんと?とタッチパネルの前で指を彷徨わせている女の子が疑わしげな目を向ける。私はアイスメルバをスプーンでひとくちすくった。

「ほんとだって。たしかオーストラリアだかイギリスだかの歌手がいきつけのホテルかレストランかで、新しいデザートが食べたいっていうからシェフが考えだしたのがピーチメルバ」

「めっちゃあやふやじゃん。しかもこれアイスメルバって書いてあるよ」

「どんなデザートかわかりやすくするためじゃない?桃は写真でわかるし」

桃のコンポートを口の中で転がしながら耳を傾けていた私は、そのメルバはどんなに可憐な人なのだろうと思った。

バニラアイスと甘く煮た桃のデザートをシェフにイメージさせたメルバはきっと天使みたいに可愛らしいのだろう。だって、まるで「私を食べて」と誘っているみたい。

結局彼女は彼の話を信じなかったのかそれは関係ないのか、カタラーナブリュレを選んだようだった。なんだよ、と拗ねる彼氏にいたずらな笑みを向けるその子はとても可愛らしいと思った。

近頃ぼんやりとしている私の頭は、黛ジュンのある歌の歌詞を思い出した。

私の唇に指先でキスして諦めた人。

アラサーの私は日曜日の夜にひとり、回転寿司のカウンターに座っていることをなんとも思わない女になってしまった。そんな私にもピーチメルバのような甘い記憶はある。

それは二十歳を迎えた年の夏祭り。地元に帰省していた中学の同級生たちと浴衣なんて引っ張り出して出かけていった。だから久し振りに会った健太を見て、おめかししてきてよかったと思ったのだった。

「こういうのなんていうんだっけ。あ、まごにもいしょう?」

「ばーか」

「でも歯に青のりつけてちゃ台無しだな」

私が口元を隠すと健太は大笑いして「嘘だよーん」と舌を出した。

「ほんとむかつく」

「でもめっちゃ似合ってる。綺麗だよ」

屈託のない笑みの前で私は俯いて赤面する。健太は昔からこうだ。突然真っ直ぐな言葉を一番弱いところへ放ってくる。私にはそれを打ち返す技術がない。

いつの間にか祭りの中でふたりきりになっていた。あとでなんて言われるかな、なんて余計な心配ばかりしながら祭りの熱気の中を夢うつつに歩いた。

「東大いってるんだって?」
「うん」
「昔から頭だけはよかったからな」
「頭だけ?」
「怒んなよ、りんご飴買ってやるから。食うだろ?」
「食べる」

私達は祭りの中心から離れた神社の階段に腰をおろしてりんご飴をかじった。祭りの賑わいが心地よく体を揺らしていた。ふたりで懐かしい曲を口ずさんで笑った。東京にいれば思い出すこともない素敵な思い出がたくさん溢れ出した。

不意に笑い合っていたふたりの視線が空中で結び合い、闇の中でお互いゆっくりと顔を近づけた。

私が目を閉じると、温かい指先が唇に触れた。目を開くと、泣き出しそうな笑顔がそこにあった。

「俺ももうちょっとがんばるな」
「うん」
「そろそろみんなのとこ戻るか」
「……うん」

その後健太とは、成人式のときに少し会ったきり。忙しくて地元に帰る暇がなかった私は、東京に遊びに来た友達から彼が結婚したことをきいた。

自動会計で支払いを済ませて回転寿司を出た私は、懐かしい歌を口ずさみながら、毎日祭りみたいなこの街を歩いていく。家に帰ったらメルバがどんな人なのか調べてみよう、と思いながら。

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