犬神の頭
「犬神様に守られてるから大丈夫だって」
Rはもう四杯目になるメロンソーダをドリンクバーで継ぎ足してくると座りながらそう笑った。4ヶ月ぶりに帰郷した地元は相変らず山と田畑しかなく夜になると遊びに行ける店などカラオケかファミレスくらいしかない。そんなわけでお盆休み深夜のサイゼリヤは同世代くらいの男女と外国人で溢れかえっていた。
「おまえんちキリスト教だろ」
Sが最近吸い始めた煙草をもみ消して新しいものを一本取り出しながら言った。
「それはばあちゃんからだしうちはもともと犬神信仰なんだよ」
「なら余計やばくね?」
どうでもいい話にうんざりしながら僕は帰るタイミングを見計らっていた。友人たちは別に悪い奴らじゃないし一緒にいて楽しいが、卒業以来東京に出たにも関わらず黙々と機械いじりに没頭するだけの僕は彼らの興味の中心である地元の恋愛ゴシップに辟易していた。
「お前も行くっしょ?」
「眠いしそろそろ帰る」
「明日なんかあんの?」
「別にないけど」
じゃあいいじゃん、とさっそくRがグーグルマップで目的地までの経路を調べ出す。Sは何か考え事でもあるように遠い目をして煙草をふかしている。今日一日、Sはどこか上の空だった。優等生だった彼が煙草を吸い始めていたことに僕は少なからず驚いた。やはり浪人生活はストレスが溜まるものなのだろう。Sに対してはほんの少し後ろめたさがある。僕が今通っている大学は、彼が高校入学当時から目指していたところだったから。けれど合格発表のとき、おめでとうと肩をくんでくれた彼を僕は覚えている。今日だって誘いの連絡をくれたのはSだった。
「よし、時間も丁度いいしさっそく行きますか」
「これ吸ったらな」
「おまえほんと煙草吸いすぎ。頭くせーぞ」
「やめろ鼻こすりつけるな」
じゃれ合うRとSを見ていると春まで一緒にいたというのにそれがとても遠くの記憶のように思えた。僕はようやく自分が東京で生活しているんだということを実感し始めたのかもしれない。だから、せっかくだしもう少し付き合ってもいいかなという気分になった。
**
「ここで合ってる?てかRんちの近くじゃん」
助手席に乗せたRのナビで僕の車は田舎の村の中に取り残された廃ホテルの前に着いた。実にありきたりな心霊スポットだが興醒めするわけではない。幽霊などを信じているわけではないが、深夜のこういった場所には根源的な恐怖を感じる。そんな恐怖がいったいどこから生まれてくるのか不思議だった。本能とでも言うのだろうか。五感で感じる以上の「何か」が確かにあるような幻想に囚われる。僕にもそんな想像力があるんだと思うと少し口元が緩む。それにしても、普段通っていたところの近くにこんな場所があるのに、どうして今まで寄り付かなかったのだろう。やはり無意識な恐怖心が働いていたのだろうか。
「そうだけど、車はあっちにまわした方がいいってネットに書いてある」
「なんで?」
「ここ有名すぎて結構警察とか見回りにくるんだって」
なるほど、と車を回そうとするとSが「俺先に降りるわ」とドアに手をかけた。
「え、大丈夫?」
僕は廃ホテルを視界の端に感じながら振り返る。Sの手がポケットの中で煙草の箱を握っていることがわかった。そうか、ただ煙草が吸いたいだけか。それはこの恐怖に勝る欲求なのか。いや、僕がむやみにビビってるだけか?そう思ったが、隣のRも表情からここに来てそれなりにビビっていることがわかった。
じゃ、とSは車から降りる。夏の熱気が少し車内に流れ込み、冷房と混ざって何故か寒気がした。バックミラーで闇の中に火が灯るのを見ながら車を少し移動させた。
「思ったより雰囲気あるな」
「ビビった?」
「うるせー」
「それよかどうせならRんちまで停めにいった方がよくない?警察来るんでしょ」
「いや、できるだけ近くの方がいい」
Rは頭の中を占める割合が本来のピンクな目的から恐怖に傾き始めたようだった。僕らは心霊スポット巡りに来たわけではない。今地元で流れているある噂を確かめたかったのだ。それは、僕らの高校時代の高嶺の花、Yについての話。Rと僕、そしておそらくSも、Yに淡い恋心を抱いていたのだ。Sと同じく浪人生となったYだったが、最近家に帰らない日が多いらしい。そしてどこから出てきた噂かわからないが、どうやら彼女がこの廃ホテルで塾の講師と逢引しているという話をRが聞きつけたのだった。しかし僕はその噂には懐疑的だ。入ったことはないけれど地元には僕でも知っている安いラブホテルがいくつかあるし、わざわざこんなところを選ぶ理由はないだろう。僕らはもう高校生ではないのだ。何よりYと同じ塾に通っているSが何も知らないというのが不自然だったし、彼から聞いたその塾講師の人物像的にもこのような場所は選びそうになかった。
Yのことは東京でもふいに思い出すことがあった。僕らの間に特にこれといったエピソードがあったわけではない。彼女は例えば十年後の同窓会の誘いがきた時に思い出さずにはいられないような、そんな女の子だった。唯一の思い出は、最後の文化祭の時、僕が書いた脚本を彼女が演じたことだった。そのせいで彼女は突然学校中の人気者となり、僕は彼女を困らせてしまった。おそらくそれで嫉妬を買ったのだろう、その後Yが援助交際をしているというような噂が出回った。Yが可憐で大人びていたことは確かだし、誰かが告白してはフラれたという話もよく聞いた。それでも定期テストでいつも上位に入り、凛とした声で教科書を朗読する彼女からはそんな噂のようなやましさは感じなかった。だからそれは僕のせいで生まれたデマと言ってもよかった。もちろん大学の同期の大人しそうな女の子がパパ活していることを知ったりして、僕の人の見立てはほとんど役に立たないことも理解し始めていたが。
「この辺でいいか」
「おう」
外に出ると山奥の闇の中だというのに蒸し暑さはほとんど変わらなかった。風に揺れる葉音もそれほど清涼感を与えてはくれない。RはiPhoneの明かりで周囲を照らしている。
「ビビりすぎ」
「ちげーよ警察がいねーか見てんだよ」
「いたら明かりでこっちがバレるだけじゃん」
「相変らず正論ばっかうるせーな」
チクリと傷つくがRに悪気がないことはわかっている。こういう言葉にいちいち反応するから東京でもうまく周りに溶け込めなかったのだ。同じサッカー部の補欠同士じゃなかったら、僕とRは友達になっていただろうか。そんなことを考えてしまう自分がたまらなく嫌だった。
足音が妙に大きく聞こえてしまうのは何故だろう。そんなことを考えながらアスファルトの地面を下りSの元へと向かった。女の叫び声が聞こえたのはその時だった。僕らは肩をびくりと跳ね上げ、顔を見合わせると走り出した。闇の中に浮かぶホテルの前まで来るとそちらから誰かが駆けてきたのがわかった。
「Sか?」
それともYか?と僕の思考はRに続いた。しかし現れたのは服を乱した知らない女だった。それから獣が吠える声が前方で轟いた。何がなんだかわからない。けれど何かが起こっている。いや、冷静になれ。ただ情事に耽ろうとしたカップルが野犬に驚いただけだ。なら相手の男はどこだ?Sは?みっともなく僕のTシャツの裾を掴むRを振り切ってホテルの中へ駆け込んだ。入り口は斜めにひしげてガラスが散らばっている。ホールの中は土に埋もれ足元のぬるっと滑るような感触が不快だった。
「ちょっと待ってよ!」
「うるさい」
声が反響して頭がぐわんと揺れる。ホテルの闇を照らすにはスマートフォン二つの明かりでは足りない。Sいるかー?と叫んだ声が後ろから返ってくる。なんでもない、ただ暗いだけだと言い聞かすが、先ほどの獣の叫び声がまだ耳の奥に残っている。現実的な危険があるだけだ。それなら対処できる。はずだ。近くに何かが落下した。僕たちはそろって悲鳴を上げる。恐る恐る近づいて拾うとそれはSが吸っていた煙草の箱だった。Sは上にいるのだろうか。僕はもう一度彼の名前を呼んだが返ってくるのは反響音だけだった。
「Sは?さっきの女なに?やばいってマジでおいSどこだよ帰るぞ!」
僕は煙草の箱についた泥を拭い尻ポケットにねじ込むと階段へ向かった。まじかよ勘弁してよと言いながらRもついてくる。腐敗した階段が崩れないか注意しながら一歩ずつ進む。何かを感じ僕は足を止めた。感覚がおかしくなっているのか?僕はその時、明らかに寒さを感じていた。腕に鳥肌が立っているのがわかった。それなのに背中には大量の汗が伝っている。
「何?急に止まんなよ!」
「しっ!何か聞こえる」
どこかもっと上の方で扉が乱暴に開かれた。僕らは驚いて反射的に階段を駆け下りる。肺を握り潰すような声が勝手に漏れる。足元が不確かで何度もバランスを崩す。
「聞こえた?」
聞こえた。心の中で叫ぶ。
「聞こえただろ?なあ!」
「聞こえた!」
「助けてくれって!それから、それから」
唸り声が背後で聞こえた。僕らは全力で走った。緩めに縛った紐のせいで靴が飛んでいくのもおかまいなしに走った。クロックスだったRはとうの昔に裸足で走っていた。痛みを感じる余裕もなかった。道路まで出たところで僕らは後ろを振り返った。闇の中を何かが駆けてくる。大きさからして犬。しかし直感が「違う」と言う。Rが悲鳴を上げながらライトを向ける。それが浮かび上がった。緑色をしたその物体は確かに犬の体をしていた。しかしその体の上にのっているものは頭部ではなかった。歪な突起がいくつも浮かび上がりブロッコリーのような形を成している。その突起のひとつひとつが闇の中で光を反射していた。それは目だった。苦しみに歪む表情の人間の顔がそこから何本も生えていた。
「逃げろ!」
僕が叫ぶ前にRは駆け出していた。車は近くだ。しかしそれはものすごいスピードで距離を縮めてくる。だめだ。間に合わない。Rより遅れている僕が先に餌食になる。走りながらポケットから車のキーを取り出した。
「R!こっち向け!」
Rは恐怖に引きつった顔でよだれを撒き散らしながら振り返った。僕はその顔面目掛けてキーを投げつけると振り返る。
それを見ると恐怖で胃が沸騰しそうだった。しかし僕はそれに向かって走り始めた。逃げきれない。なら後ろから来られるよりも正面から向かっていってギリギリでかわす方が可能性があると思ったのだ。どうして自分がそんな冷静でいられるのかわからなかった。Sはどうなった?さっきの男は食い殺されたのか?それともあの顔を成している歪な塊の中にいるのだろうか。Sも?思考は途切れた。瞬きする間にそれは目の前だった。かわす。かわす。かわす。それだけに集中する。足が浮いている。足が。僕はそれが目の前に来た時に足をもつれさせたのだ。体が浮いた。だめだ。その時、それの顔の一部に、Sを見た。
しかしそれは僕の隣を風のように駆け抜けていった。僕はアスファルトの路面を転げ回りはっと顔を上げた。悲鳴が聞こえたのはそれと同時だった。Rがやられた。何故?しかしそれはすぐに理解できた。僕とRの間にはそれなりの距離があった。僕が転げ回っている一瞬の間にそれはRに追いついて捕食した。つまりそれはこの距離の僕なんて今この瞬間にでも捕食できる能力を持っているのだ。だから、ただ後回しにされた。その瞬間ぞっと悪寒が走った。車の中から這い出してきたそれがこちらを振り向く。無数の目が闇の中に光る。無理だ。
女の悲鳴が上がった。それは声の聞こえた方へ向け駆け出した。僕は立ち上がる。大丈夫だ。走れる。アドレナリンでわからないだけかもしれないが走れた。全身の痛みを感じられる程度には冷静だった。足の裏の痛みが特に酷かった。ガラスを踏んだに違いない。
車のキーはない。僕は峠を走り出した。思い出せ。Rが昔得意げに語った話。あれは犬神かもしれない。おそらくそれに類するものだろう。この土地に根付く伝承をRは語っていた。思い出せ。
部活の帰り道、Rはよく自分の家に伝わる呪いの話をしていた。そうだ、自転車でRのうちの畑の間を帰っている時だ。練習試合でボロ負けした日だった。もともと弱小のサッカー部で補欠の僕らには試合の勝敗などどうでもよかった。犬の話。犬の呪いの話をRはしていた。
「まず犬を飢餓状態の殺気だった状態にするんだよ。飢餓状態っていうのは」
「はらぺこのこと」
「そう!はらぺこで何にでも襲い掛かろうとする犬の首を斬り落として道に埋めるんだ。そうしたらその上を何も知らない人が何度も通るだろ。すると犬の怨念はどんどん増していく。そうすると呪物として犬の体が育っていくんだよ」
「えげつねえ」
「だしょ。その呪物から逃れるには頭を掘り出すしかない。それが埋められたって言われてるのがここ」
どこ?Rんちの畑だ。それはここからそう遠くない。
**
夜の闇の中で僕は必死に土を掘り返していた。しかしどれだけ掘ろうと頭は出てこない。当たり前だろうと言う自分がまだ残っているが恐怖に突き動かされた体は爪が折れても穴を掘り続ける。土の中に、闇の中に体が溶け込んでいく。疲労と寒気。肺が切れる。咳き込みながら穴を掘る。いつまで?わからない。掘り続けなければ恐怖にのまれてしまう。どれだけの時間が経過したのかわからない。朝は遠かった。しかしいつしか穴の大きさは僕の体を丸めれば入るほどになっていた。唸り声が聞こえた。あれが来た。ついに来た。まだ何も見つかっていない。もう走れない。もう動けない。
僕はそうすることを知っていたように穴の中で体を丸め闇にまぎれた。肺がひゅーひゅー音を立てるのを必死に堪える。それの足音はもうすぐそこに聞こえる。もう何もできない。恐怖と疲労は限界を越え、僕にはもう立ち向かう気力はなかった。土の中に寝ていると、それの一歩一歩が明確に聞こえた。死が一歩ずつ近づいてくる。ごめんなさい。ごめんなさい。気がつくと僕は誰にともなく謝っていた。僕にはあなたを救うことができませんでした。ごめんなさい。
「ハァー、ハァー」
それの呼吸が耳元で聞こえる。そしてそれに混じり「助けてくれ」という人間の声が無数にこだましていた。誰が何の為に誰を呪ったのか。そんなことはもう関係がなかった。怨念はコントロールを失い全てを呪っていた。それが生まれた理由だから。助けてくれ?よくそんなことが言えるな。苦しめる為に苦しめ、殺す為に殺した。そして呪う為に生み出されたのだ。だからそれはそれにとって正しい行いをしているだけだった。
そんなことを考えていると僕の胸の内はふいに恐怖よりも悲しみで満たされた。人間に命を扱うことはできない。だから僕らは形式とはいえ今でも「いただきます」と言う。狩人は禊をする。しかし僕らは気づかないうちに度を越えてしまった。いくつもの種を滅ぼし、同種でも殺し合い続けている。感謝は忘れられ、憎しみが増える。そしてついに、機械に命を吹き込もうとしている。人間に取って変わるかもしれない存在を産み出そうとしている。それは止められるものではない。正しさとは別の次元で世界は流れ続けている。もうすぐ人間には手に負えない世界が来るのかもしれない。それは人間に感謝するだろうか?それとも人間などただの資源だと考えるだろうか。それでもこれは、人間が生み出したものだ。人間である僕は、それを受け入れる責任があるのかもしれない。
どれほどの時間、僕はそんなことを考えていたのだろう。気がつくとそれはゆっくりと遠ざかっていた。理由はわからない。やはりその場所が、それにとって聖地のようなものだったのかもしれない。しかしもう思考する余裕もなかった。いつしか僕はその穴の中で泥のような眠りに落ちていた。
**
その後、RとSの姿を見た者はいない。キーは車にささっていたが血痕は見当たらなかった。僕は東京に戻り、ポケットに入っていた土を高い校舎の屋上から撒いた。見上げると、やけに明るい満月が浮かんでいた。
満月の光の下で、僕はSの煙草の箱を開いた。そこには折り畳まれた紙切れが入っていた。手紙だった。
Sはやはりこの大学に合格した僕に嫉妬していたと告白していた。それで、僕らの憧れだったYが卒業式の日、僕に渡して欲しいと言ってSに託した手紙を捨ててしまった。その謝罪の手紙だった。しかしそれももうむなしいだけだ。Yも行方不明になっていたのだから。