センサーライト・プラネット

センサーライト・プラネット


 月まで四億九五七七万六一〇一歩。そんな落書きが町に増え始めたのはいつ頃からだろう。去年の今頃にはなかったはずだから、ここ最近のことなのかもしれない。深夜の町を歩きながら私は、どこからでも同じ歩数を書き殴る誰かを探していた。いや、探してはいない。ただ落書きを辿り、会えたらいいなとぼんやり思っていただけだ。

 工場の裏手を歩いているとき、人感センサーのライトに照らされた。一瞬、光の中で何も見えない。けれど脳裏では、暗闇の中に私だけが浮かび上がる姿が描きだされる。犯人、と私は思う。それから、ある夢のことを思い出す。

 私の隣には、同じ歩幅で歩く誰かがいて、ふたりの空気感は親密だった。私は打ち解けた様子で話し、些細なことで笑った。深夜の散歩、世界はふたりのもの。夜でも灯りがついてる場所、とその人は人差し指を立てる。自動販売機。コインランドリー。薬局の看板。

 コンビニ。すき家。結婚式場の駐車場。うーん、西崎さんちの二階の窓。だれ、西崎さんって。ふたりの歩調が僅かにずれる。知らない、近くまで行って表札見ただけだから。見に行ったの、こんな深夜に、怖いよ。それじゃあ名もなき窓灯り。

 ずるじゃん、その人は笑う。自動販売機の前を通り過ぎても、隣の顔はよく見えなかった。行ってみれば、今日も光ってるはずだから。光ってるの? その人は立ち止まる。うん、そこの曲がり角の先だから、と私が振り返ると、白い光に目が眩み、気がつけばひとり、夜の路地に立ち尽くしている。それからずっとつきまとう、理由のわからない喪失感。

 ときどき、あれは現実で、私は誰かを忘れているんじゃないかと思う。怖くはない。怖くなるほどの実感はない。この夢を見たのはいつだったかなと思う程度だ。月までの歩数は、夢の中では見なかったと思う。

 職場の子がお昼休みに読んでいた漫画の中で、特殊なグローブをつけてホログラムに触るシーンがあった。いるかいないかはお前らが決めろ、とそのキャラクターは言う。他の本の中でも、脳内の電気信号があなたにとっての現実を創り出す、とかなんとか書かれていた。そんな能力が人間にあるなら、と私は歩きながら考える。月までの見えない階段を一歩ずつ登っていけば、あそこまで辿り着けるだろうか。ようこそ魔術劇場へ、狂人になれるだけの知性のないあなたのための催し。そんな文句を謳いながら登る階段は、疑った瞬間に消え失せ、私はまるで月から落下するように、遠ざかるそれに手を伸ばす。その時、私を救う白い光が現れて、なんて、ね。

 夜空では明るすぎる月が幅をきかせ、まわりの星の弱い光をかき消してきた。そこにいるのかい、と問う私の感傷を、ひとりぼっちの私が笑う。

 家から少し離れた駐車場につく。砂利を踏む音が耳元で聞こえるくらいまっくらなのがいい。

 想像で世界を変えられたとしても、私は怖くてあんまりいじれないかもしれない。恐怖は想像力なのに、その抑制にもなるのは不思議だ。もう一度、白い光に包まれ、私の体が重力から解放される様を思い描く。つよく、つよく。しかし私は、空想が現実になるほどあの光を信じきれないみたいだ。ロックを解除する音が大きく響き、空想は完全に掻き消される。車に乗り込みエンジンをかけて窓を少し開け、煙草に火をつける。闇夜に響く救急車のサイレンが、いつまでも近付かず、いつまでも遠ざからない。そのサイレンは現実か、それとも私の空想なのか。スマートウォッチを確認すると、今日は九千歩くらい歩いたらしい。あと何年かかるのだろう。サイレンの音はまだ消えず、何かを救おうとしている。煙草の煙は重力を無視して、私の周りを漂い続ける。そしてやがて、闇の中へ消えていく。私を残して。

 たとえば西崎さんちの光る窓から、ティラノサウルスが顔をのぞかせて、やあこんばんはと手招きすれば、私は会釈をしたりしながら、何の気なしに近づいて、頭からパクリといかれたりする。そんなことを考えながら歩く、別の夜には月は出なくて、ああそうだよねとひとり頷く。つまりは、透明な階段を上がったところで、そこにずっと月がいてくれるわけではない。辿り着きたい何かに、ずっとそこにいてねと願うのは、思慮に欠ける、とても身勝手な考えだ。歩いて、歩いて、私は何と出会いたいのだろう。

 公園の看板前に人影が見えて、特に決まっているわけではない散歩コースを変更しようとした時、ふいにその人影が、看板に落書きを始めた。月の人だ、と私は足を向ける。わざと靴音を鳴らしてみるが、その人が気にする様子はない。月では音は聞こえないよねと、心の中で少し嬉しくなる。マジックペンの音の後ろを通り過ぎる時、誰かに呼ばれた気がした。振り返る。そこには誰もいない。月までの歩数が記された看板が、電灯に照らされて無言で立っている。呆気にとられ、看板に近づく。歩数は、変わっていない。私がどれだけ歩こうが、月へ近づいたりしない。本当に、宇宙人だったりして。

 私は歩きだす。景色は少しずつ変わる。けれど世界は変わらない。わかってる。浸っていたい。自動販売機。曲がり角。西崎さんちの二階の窓。変わらない灯り。なによりも私に強く迫る不在の存在。変わったあとの世界に私がいること。今だけだから、死ぬまで生きていようと思う。私はこっちにいたくてごめん。いつも通りに駐車場まで戻り、煙草を吸って帰った。

 次の日の朝、ふと車の走行距離を見ると、四十万キロを越えていて、なんだ、もう通り過ぎてたと、思って忘れる。

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