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僕と左手と

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 僕の左手がかえってきた。散々殺菌された手はひどく他人行儀に振る舞っていた。アイデンティティを漂白され限りなく物に近い何かになっているように思えた。そのせいで逆に僕の体の一部としては異質の存在となった。

 高校を卒業し、僕は地元の大学へ、未羽は東京の大学へとそれぞれ進学した。寂しがり屋の彼女は東京へ僕の左手を持っていった。未羽はそれで安心し、僕はそれを感じ安心した。

「ほんとキス魔だよね」

「そうかな」

 初めて東京のアパートへ泊まりに行った日、そんな話をしたことを覚えている。ゴールデンウィークのことで、離れてまだ一ヶ月ほどしか経っていなかった。しかし僕は毎日未羽に会いたくてたまらない気持ちでこの日を待っていた。それはもしかすると彼女が連れていった左手に対する嫉妬なのかもしれない。未羽の左頬にだけ浮かぶ笑窪を見つめながら僕はそんなことを思った。

「口唇期固着って知ってる?」

「いや」

「乳離れが早いとね、その時期の欲求にこだわることがあるんだって。爪を噛んだり、キス魔だったり、煙草を何本も吸ったりね。けーくんって弟ひとつ下だから」

「そうかもって?」

「教科書で見たときね、すぐ思った。てか煙草吸ってるでしょ」

 げ、と僕がいうと、未羽は目を細めた。

「カッコつけよって。悪い先輩とパチンコとか行ってないでしょうね」

「行ってないよ、うちの家系まじで博才ないもん。やっぱくさい?」

「うちでは絶対吸わないでね。一緒に暮らしてもだよ」

 その日の夜は、一時的に戻ってきた左手で煙草を吸った。都会の喫煙所には忙しそうな人たちが立ち代わり現れ、一本だけ吸っては足早に去っていく。未羽がシャワーを浴びている間に三本立て続けに吸いながら、この街で暮らしている未羽のことを想像した。それはやけにはっきりと思い浮かべることができ、左手が知っているからだろうかと思った。

 未羽はひどい花粉症で、いつもマスクをたくさんストックしていた。けれど周りの子がみんな買えない中で自分だけ持っていることに罪悪感を覚えたらしい。彼女は持っているマスクをほとんど友達に配ってしまった。それでその日、残り少なくなった自分用のマスクを買いに深夜のスーパーへ出かけていったのだと左手は教えてくれた。未羽は病気に罹っていたわけではなく事故で死んだ。即死だったと左手は語る。左手は、僕よりもずっと早く彼女の死を知っていて、だから僕よりもずっと長く、彼女の死を悲しんでいる。僕と左手の間には明らかな時間差があり、それが僕には初め、どうしようもなく辛かった。僕は左手になりたかった。左手は生まれた時からずっと、僕になりたかったと言った。そうしてようやく、少しずつ未羽のことを教えてくれた。だから僕は眠る時、ずっと左手に未羽の手を感じることができる。未羽は初めてのお盆休みに帰省した時にはもう東京に慣れたと言っていたが、それからもずっと眠る時に僕の左手を必要としていたのだ。

 東京から左手が返されるまでにはしばらく時間がかかった。それ以外の遺品も同じように「処理」が必要で、だから未羽の葬式には東京で暮らした彼女のものは何もなかった。時間が抜け落ちていた。僕はその空白が恐ろしく、今そこにない左手が彼女に繋がっているような気がして、葬式の間中ずっと、ない左手を動かそうとしていた。その時のことだった。不意に暖かく手が握られた。左手が。だからようやく僕は涙を流すことができ、未羽の死を実感したのだった。

 左手がかえってくると真っ直ぐ歩くことに苦労した。左手は死んだように重く、僕も左手のない体に慣れていた。左手が語り始めたのは、未羽が好きだったカフェをようやくひとりで訪れることができた日のこと。未羽の死からもう半年が経っていた。その間自分がどう生きていたのかうまく思い出せないが、不要不急をできる限り避け、生活だけになっている今の社会では誰だって同じようなものだったらしい。

 その日の夜、初めて左手が語り始めた。僕は静かにその言葉を聴き、思わず手を握り返そうとするがそれは空を切るばかりで、むなしくて、思わず「やめてくれ」と叫んだ。しかし三年間僕から離れていた左手にいうことをきかすことはできず、僕はじっとその声に耳を傾けるしかなかった。

 どうして今まで黙っていたんだ。そう問いかけると、僕も耐えていたんだ、と左手は応えた。そして、君が耐えられるようになるのを待っていたんだ。そうでなければ、君はずっと未羽の手を感じるために眠り続けてしまっただろう。そして君は僕になり、僕が君になっていただろう。僕にはそれができることがわかっていた。けれどそれは、間違ったことだ。

 未羽のいない日々をやり過ごしながら僕は、左手が言ったことは正しいと思った。きっと僕はそうしただろう。どうして空は今でもこんなに綺麗なのだろう。未羽と手を繋いで歩いた公園に、今日は人がひとりもいなかった。東京で未羽と過ごした左手に、なれるものならなりたかった。僕はこれから、未羽のように優しく生きていけるだろうか。人はだいたい弱いから、そこにある本当に大切な何かよりも、自分が持っていないと思う何かを欲しがってしまうものだ。左手はそう僕を慰め、真っ直ぐ歩くよう注意した。また体が傾いていたのだった。そして左手は僕の頬を撫でた。そこにはよく知っている、大好きだった笑窪があった。僕はポケットの煙草をゴミ箱に捨て、もう一度だけ、左手を握り締めた。


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