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大阪フィルハーモニー交響楽団 第47回岐阜定期演奏会 〜二つのリベンジ〜

※5/26  <追加リンク>追記4の途中にリンクを追加
※5/20 <追記4>追記3の後にYouTube埋め込みとともに記載
※5/17 <追記3>追記1の後にYouTube埋め込みとともに記載/目次作成
※5/12 <追記2>末尾に記載
※5/3 <追記1>末尾にYouTube埋め込みとともに記載


本編

角野隼斗氏をソリストとした「大阪フィルハーモニー交響楽団 第47回岐阜定期演奏会」の感想です。
通常は協奏曲は1曲の場合が多いのですが、なんと今回は角野氏のピアノで2曲「ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調」と「ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調」が演奏されるプログラム。
私にとってはどちらも不完全燃焼だった曲で、わずか708席しかないという岐阜のサラマンカホールですが、今回こそは!と、どうにかチケットを入手しました。

どちらも不完全燃焼と書いたのは「ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調(以下ラヴェル〜」は音響の問題でほとんど鑑賞にならなかった事、もう一つが「ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 (以下ショスタコーヴィチ〜)第3楽章のみ」は曲の解釈が自分とは異なっていたからです。
私は自分の理想通りの演奏を望んでいる訳ではなく、どちらかといえば自分の解釈を超えた演奏に出会えた時の方が感動するのですが、この時は本当に角野氏がそれを目指されたのか疑問に感じられました。
というのも、前日にインスタストーリーズでの演奏と余りにも異なっていたから。
子どもを対象にしたコンサートという事、ロシア対ウクライナの戦争が始まった事もあり、ショスタコーヴィチの作家性を正面から取り上げると旧ソ連時代の問題等も関わりが出てきそうなリスクもあったでしょう。
紹介のされ方も少し微妙な感じで、「息子に向けて書いた」「子どもも楽しめる」というところが強調されたものでした。
当時の状況とコンサートのコンセプトを考えれば仕方がないとも思っていますが、曲の解釈に対する考え方については最後のまとめに記載します。
ちなみに、座席は冒頭に書いた「ラベル〜」で鑑賞に失敗して以降、天井が高く客席と共有するホールで座席指定できる場合は2階以上にしているので、今回もバルコニー席からの鑑賞です。
そして結論から先に書くと、「リベンジが叶った!!!」でした。笑

●モーツァルト:交響曲第32番 ト長調

近隣騒音で鑑賞できる状況になく、感想はありません。
鑑賞できないほど音が煩かったのではなく、ラヴェルの前にお声かけするか悶々と迷っていた為に鑑賞ができなかったということです。
岐阜まで来て後悔はしたくなかったので、ピアノ搬入中に申し上げました。
その後、嫌味のアクションや終演後の逆クレームがあり落ち込みましたが、その方をはさんだ向こう側の方からはお礼をおっしゃって頂けたことと、それ以降の鑑賞は素晴らしいものだったので、「善し」とします。

●ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調

この公演少し前に拝見した「ざっくり学ぶ「協奏曲」早わかり!|新日本フィルハーモニー交響楽団 NOTE班(著:岡田友弘氏)のカテゴリ分類がとても参考になりました。
冒頭のテーマ部分、その分類からすれば「オケが主でピアノが従」なのですが、木管楽器等がメインの所に伴奏というよりあしらい的に入るピアノがなんと美しい事!
この曲はところどころハープが印象的ですが、冒頭のピアノの音色がもうすでにそれがイメージできるハープの質感!
その後に訪れるピアノが主になる部分も、なんとも言えない不思議な音色がします。
最近、角野氏のピアノの音がやわらかく変わったという投稿も拝見します。
私はもともとビートを感じる音楽が好きなので、単なるやわらかい音はあまり好きではありません(角野氏に出会うまではクラシックピアノが全く聴けなかったほど)。
なので、この辺りの質感には敏感なのですが、冒頭部で感じた「やわらかさ」はそれらと明らかに異なるのです。
タオエルならば、マリンバやビブラフォーンを毛糸巻きのバチで叩いている感じに近く、音色はやわらかいのにしっかりとその中心に「芯」が感じられ、角野氏の音!という感じ。

また、曲が何気なく曲が進んでいく中で、その「テンポのフリ・タイム感」が天才的で感嘆することしかできません。
これまでアルゲリッチ氏の演奏を普通に良い演奏だと思って聴いていたのに…今はもう、それすらわざとらしく感じるのです(すみません)。
生理的これほどまで自然に心地良さを表現できるクラシックピアニストは他に知りません。
実際には、べセスマエストロの指揮がそのタイム感に大きな影響を与えていたと思われるのですが、この時には気づいていませんでした。。。

そして第1楽章のハープが印象的になる所!
ええ???なんか、初めて聴く音の質感?!?!
主はオーケストラに移行したのですが、ハープの音色とピアノが重なって倍音的な不思議な音が聴こえてきたのです。
冒頭のテーマの繰り返しだったので、「そうか、だから冒頭がハープみたいだったのか!」と膝を叩きました!!!
中盤のオケ主・ピアノ従になる所も伴奏というよりも装飾的なのです。
私のイメージでは、装飾は伴奏よりも「主」に一体化している感覚です(詳しくは後述)。
楽器が異なる個別の旋律が聴き分けられる事以上に音が混ざり響きで広がる所を聴かせる音楽というか、、、とても不思議な浮遊する感覚でした。
そして、超絶的にトリルが美しい〜〜!!笑
第1楽章の最後の盛り上がりへ!!!

第2楽章は、やはり毛糸巻きバチのやわらかい音で左手の伴奏が始まったのですが、最初に右手が入るまでにちょっとタメがありました。
そこから右手と左手が微妙にズレたりテンポが揺れたりしながら演奏が続いたのですが、それがもう…筆舌に尽くしがたい(笑)美しさです。
一切のわざとらしさを感じさせないこの絶妙な間合いは、なんと表現して良いのかわかりません。
(これもアルゲリッチ氏の演奏ですら今はわざとらしく感じる)
この少し遅れたタイミングでのポツポツと置いていくような音は、その一音自体が打鍵時の音と響きとの二種類の音がわずかに微妙にズレて聴こえてくる感覚すらあり、ピアノ一音にもかかわらずにユニゾン的な質感すら生まれていました。
例えるならば、握られた皮膚表面から感じるリアルな触覚があるはずですが、その感覚が少ないの握られた圧力は別な存在として手の内側でしっかり感じられる…みたいなものです。
しかも、この「美しさ」は擬古的情緒性を感じる事も、抽象度の高い順動の高い「美」として感じる事も許されているのですよね。。。
「許されている」の意味をお伝えするのはとても難しいのですが、鑑賞者にその音の解釈を委ねている、自由さが保障されているような懐の広さみたいなものです。

2楽章最後、オケ主・ピアノ従、オーボエ背後で鳴っているピアノは光り輝く魔法の様でしたし、最後のトリルなんて「荘厳」以外には何にも置き換えられません。
この日の角野氏のオケ主の時のピアノは、通常の伴奏だけでなくオーケストラと一体化した装飾的表現を実現されていたと思います。
この場合の装飾とは日本美術的な解釈で「荘厳する」という意味に近いのですが、「飾る行為」自体を目的とし(「CREA」の記事が分かりやすい)前述した抽象度・純度の高い美としての認識です。
その絶対的な「美」が宗教や概念を表すという意味でイスラム教のアラベスク紋様にも近く、これらの装飾表現を音楽でも「アラベスク」と呼ぶのはそのためなのでしょう。

第3楽章の冒頭の早い部分、もう少しガンガン弾かれるのかと思いきや…指だけちょんちょんと触れる様に演奏されているところもありとても軽やか。
吹奏楽器との応酬、ピアノも含めてそれぞれの楽器がおしゃべりしている様で、前述しているカテゴリには当てはまらない感じ。
楽器を確認すべくシーンをYouTubeで確認した所、個別の楽器の主張がもう少し強く感じられたので、べセスマエストロの指揮が全体の調和を生かす方向性だったのでしょう。すごく面白かったです。
最後は色々な音があちらこちらからおもちゃ箱のように飛び出てくるのですが、疾走感あるビートも貫かれていて、もうノリノリ!!!体が勝手に揺れてしまいます(私の周囲の方も揺れてました!)。
べセスマエストロ、久石譲氏のミニマル曲の指揮やコリン・カリー氏のライヒ曲の指揮と同じく、演奏されている音以外にもしっかりしたビート感が質感として伝わるのです。
このビート感、不思議なことですに鑑賞者の慣性・または残像として音を奏でていない所にも残るのです。
なので、きっとミニマル系の曲もお得意なはず!
ピアノはそのビートの上をジェットコースターの様に上がったり下がったりしながらゴールに突入しました!!!

●ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調(感想)

「ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番(以下「ショスタコ〜2番)」では2年前に第3楽章の予習をしていたのですが、特に魅力を感じたのは、「軽やかさ」「疾走感」「グルーヴ」「没入感」で、今回もその時選んだ(好みだった)音源を予習として聴きました。
改めて全章を通してみると、第2楽章は美しい感じがするのですが「美しい」と実感する所まで辿り着けないのです。美しいと感じるものが目の前にある幻のように掴めない感覚。
皆様が紹介して下さった音源も聴いてみたものを聴いてみたのですが、どうも違う。。。
改めて複数の音源を聴いてみると、「これ〜〜〜!」と思うものに出会えました!
そこで、密かに第1・第3と第2の演者の異なる音源を組み変えて聴いていたのですが、やはり罪悪感はある訳です。
上手いとか下手とかの問題ではなく、どちらも納得するだけの必然性を持つ異なる解釈を勝手に組み替えて良いのかどうか。。。
こういう聴き方は演奏者や曲に対する不敬と言えるかもしれませんし、受容者の保証された自由とも言えるかもしれませんが、まあ…ガチクラシックファンの方は嫌悪されることでしょう。すみません。
ですが、結果的には私が一番望んでいた表現性が実現したので(単にそのままではないですが)、音源をあげておきます。

第1楽章(YouTube) 
クリスティーナ・オルティス(ピアノ)/ウラディーミル・アシュケナージ(指揮)/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

第2楽章(YouTube)
ボリス・ギルトバーグ(ピアノ)/ヴァシリー・ペトレンコ(指揮)/ロイヤル・リバプール・フィルハーモニー管弦楽団

第3楽章(YouTube)
クリスティーナ・オルティス(ピアノ)/ウラディーミル・アシュケナージ(指揮)/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

ここからは実際に演奏を聴いた感想です。
第1楽章は、軽やかさ・疾走感が安定したビートでどれだけ表現されているかが自分にとっては重要だったのですが、演奏スピードを上げすぎてしまうとピアノは演奏できても他の楽器が追いつけない場合があり、そのギリギリのテンポ感を期待していました。
が、なんと、まさかまさかまさかの別アプローチ!笑
テンポはそれほど早くないのに前ノリにすることで早いテンポに質感に近い疾走感・軽快さ・グルーヴ・躍動感を実現していました。
さすが角野氏!!と思ったのですが、オケの演奏は人数が多くなる分どうしても遅れ気味になるということを耳にしたことがあるので、この縦ノリのビート感はきっとべセスマエストロの明瞭な指揮による所が大きいのでしょう。
この理由、分かりやすい例としては、Penthouse「フライデーズハイ」のオリジナル版とリミックス版の違いが挙げられます。
テンポはほぼ同じなのに、後ノリのリミックス版はゆっくり聴こえますが、逆もしかり、前ノリだとタイトなドライブ感を得られる訳です。

そして音源の1:20位、ピアノが弱音になる所、背景のビートに対するピアノのレガートがとても美しく、角野氏のピアノだけが横ノリになっていました。
この日は舞台に近いバルコニー席で指揮が良く見えたのですが、べセスマエストロは安定したビート感とゆらぐ角野氏の後ノリ感を指揮で制御さているのがわかるのです。
角野氏の演奏の揺らぎを指揮でオケに伝え、オケはビートを刻んでいるなか、それの上でリズムやテンポが自在に演奏されている。
そう、まさに揺らぐジャズの感覚に近いのです。しかも、それが素人でもわかる明快な指揮。すごい!!!

主題の演奏がオケとピアノとが交互に出てくる所、「ラヴィエル〜」のおしゃべりとは異なり、テーマのバトンを渡すような感じ。
主になる時・従になる時、それぞれが波の様に前にでてきたり後ろに下がったりが目に見えるかのようで本当に楽しい。
後半、完全なピアノソロになった所(音源で4:55位から)で明らかにピアノが早くなりました!!!
演奏中に先走ってしまうのとは異なる明確なテンポチェンジがあったのですが、内心オケと一緒になる部分に一抹の不安も…ですが、個人的には「待ってました!!!」な訳です。笑
このコロコロした旋律はやはり速さがあってこそ!
もうね、本当に超絶カッコいい!!!
で、オケが参入してテーマフレーズが演奏される際には、なんと少しテンポが落とされたのです。
オケがメインフレーズに移行するところ、角野氏もオケも自然に。
ナチュラルに変化させるためにたぶん、2巡目位に指揮誘導で。
いやもう、べセスマエストロの指揮すごい!
もちろん遅くなったとはいえ最初に書いたように前ノリですから、疾走感が損なわれることなく、ピアノとオケとが渾然一体のたり盛り上がって終了しました。
うわあ〜〜〜!!という感嘆しか出てこない。笑

少し間をおいて第2楽章。
この美しさ、これまではモダニズム的解釈の影に隠れてこれまでは余り評価されていない部分だったのでしょうか?
というのも、事前の奥田佳道氏によるプレトークでもこの第2楽章の美しさを特に強調されており、それが却って不自然に感じられるほどだったからです。
後に貼り込む角野氏のXでも、わざわざ「2楽章が本当に良い曲なのでもっと世に知られてほしい」とまで。。。
ところが、「ショスタコ〜2番」のSpotify再生数をみると、圧倒的に(第1や第3の3倍〜100倍)第2楽章が聴かれているのです。
確かに王道クラシックファン(ロマン派がお好きなライン)には最も好まれる曲調であることは私が言うまでもないのですが、もしかしたら日本のクラシック界での認識と世界での受容は少し異なっているのかもしれません。
詳しくは後の項に譲りますが、とにかくこの日の演奏からはその美しさを存分に味わいました。

実際の感想に戻ります。
実は冒頭、ラヴェルのピアノで感じた毛糸で包まれているような間接的なニュアンスが弦からも感じられて驚きました。
フワーとした質感とレガートからフッと途切れるニュアンスが、角野氏のピアノの質感が乗り移っている様で…鳥肌もの。
たぶん、このフッと途切れるタイミングを微妙にためてるのでしょう。
技術的なことはわかりませんが、最後に音を切る所だけちょっとタメて弓を離すタイミングにスピードを持たせスタッカート的な印象を与える…みたいな感じです。
そしてピアノ入り。
最初の一音が…もう、もう、なんと言って良いのかわかりませんが、間接的な毛糸くるみ感もありつつ、輝く水が落ちて響くような印象もあり…あああ、語彙がなさすぎる自分がもどかしい。。。
音は小さいのですが、触角的・身体的にその美しい音と響きがダイレクトに伝わってくる感じです。
そして、このトリルがこの世のものとは思えないほど美しい。
後半、コントラバスとピアノが重なる部分でも、ユニゾンで共鳴する感じすらあり、やはり装飾・荘厳!
この第2楽章、私にとっての印象は、グスタフ・クリムト「ダナエ」です。
キラキラ輝く装飾的な黄金の雨につつまれ、現実ではない美しい夢の世界を間接的に感じているのですが、実はそれがリアルでもあった、みたいな。
(描かれたアイテムを読み解くと少々生々しいので省略しますが、その位に非現実的な夢の様な感覚と現実のリアルな感覚が直結しているという意味)

ここからがいよいよ問題の第3楽章になります。
第1楽章と第2楽章の間はテンポや質感が異なることもありしっかり余白の時間をとるのですが、この第3楽章に移行する際はすぐに演奏が始まるため、下手をすれば違和感を与えたり曲全体のまとまりを損ねてしまう訳です。
しかも、すでに書いたように第1と第2はこれまで異なる解釈でそれぞれ演奏されているので、その落差は通常とはことなる大きなものです。
で、結論は「うわ〜〜!こういう方法があったのか!!!!」笑

第2楽章が終わってすぐの冒頭、軽快なアレグロがはじまったのですが、横ノリでもあり旋律の上下に合わせて揺らぐことで躍動感に繋がっています。
が、この表現はそれ単独だけの意味だけではなく、第2楽章との緩衝にもなっていたのです。
第1楽章と同様のタイトで均一なビートでは第2楽章との違和感が生じると思われるのですが、第2楽章のクラシック特有の伸縮するタイム感を第3楽章のジャズ的な揺らぎとして馴染ませている感じなのです。
音楽的な意味ではなく単なる「後ノリっぽさ」「揺らぎを感じるテンポ」というシニフィアン的な共通項(類似)で二つの章の質感を近づけている感じ。
主旋律が二巡したらタイトなノリが戻ってきたので、楽章間のつなぎとして用いられた表現だったと思われるのですが、決して違和感なく全てに叶った素晴らしいものでした。
この表現をナチュラルに具現化できるクラシックピアニストって、日本ではどう考えても角野氏以外にはいらっしゃらないはずです。
しかも、このつなぎが成立しなければビートのある第1・第3と第2楽章が美しい「ショスタコ〜2番」は曲としては分裂してしまうのです。

なのですが、実はこのノリのコントロールはこの楽章間だけではありませんでした。
曲が進むにつれて所々で「ジャスト・後ノリ」と変化をつけているのが、べセスマエストロの指揮ではっきりわかりました。
そして前回聴いた第3楽章と全く異なるのは、軽快さはあるもの「可愛いい」ではなかったという事。

ピアノのソロからの7拍子、実は私が一番好きな変拍子!!!笑
この7拍子の最後を少しタメることで感覚的には4拍子的把握時の最後の拍を早めた転びそうな切迫感になるのです。
この手法は日本のジャズ・フュージョン系の音楽では結構使われていて、独特の疾走感と躍動感のあるノリになります。
しかも、角野氏はフレーズを一つの波のように扱われているのに対し、この変拍子の間に入る拍はタテでしっかり合わせていて、クラップやフィンガースナップをところどころ入れる様なアクセントになっているのです。
この横と縦のノリが交互に訪れるべセスマエストロの指揮が上から見ていていて圧巻でした。
そしていよいよ始まったハノン。
ユニゾンの美しい均一性とうねり感が同時に感じられて本当に素晴らしい。
最後は鑑賞者もその音楽世界の一員として迎えられたかのような大興奮の一体感・没入感で終了しました!

とにかく、べセスマエストロの縦ノリ・横ノリの振り分けと角野氏の天才的なタイム感が聴いた事がないほど素晴らしかった!
この難しいリズムにティンパニーも後ノリっぽかったりジャストに合わせたり…角野氏独特のピアノ的質感を弦楽器から感じたり…と、この日の大阪フィルのオケの皆様もノーマルな「クラシック演奏」という枠組みを超えてこれまでにない「ショスタコ〜2番」が実現されたと思うのです。
あくまでも個人的な印象ですが、角野氏にとっては過去のどの指揮者にも感じないほどにタイム感の相性が素晴らしく感じられ、べセス氏にとっても角野氏ほどにそのイメージを具現化できるピアニストはいなかったのでは…と思いました。
リズム感・タイム感は身体感覚でしかないので理屈でどうこうできるものではありません。それを共有できる相性の良さは本当に尊い!これからもぜひぜひ、何度でも共演していただきたいと心から思いました。
曲の解釈については次項に詳しく書きますが、とにかくこれまでにない本当に特別素晴らしい演奏だったと思います!!!

「ユニゾンの美しい均一性とうねり感が同時に感じられる」というハノンの部分の演奏は角野氏のXポストからどうぞ。

サラマンカホール【公式】(X)御二方のツーショット
サラマンカホール【公式】(X)サインをされている動画


●ガーシュウィン:スワニー(ソリストアンコール)

以前、「マイナーからメジャーに転調する構成とか…もしや服部良一が「スワニー」から着想を得て「青い山脈」を作った可能性があるのでは?!」と書いたことがあるのですが、朝ドラで服部良一の半生をなんとなく知ると、もう絶対にこれはスワニーから!と思わずにはいわれません。笑
というか、この日の冒頭はあえて平たく演奏されたので、もしかしたら角野氏も朝ドラ絡みであえて日本ぽくされたとか?笑(ちなみに、「ラヴェル:ピアノ協奏曲」は、ゴジラですね!)
中盤に転調してからはラグタイム的な軽快さでNYの当時の雰囲気が醸し出されています。
そこからハノンが入るカッコいいインプロビゼーションで盛り上がったのですが、最後はあえてYouTubeライブの時の様にちょっとズラして洒落た感じ。
これの最後の抜け感、なんとも言えない味わいでした。

●ベートーヴェン:交響曲第8番 ヘ長調 作品93

プレトークでは、あまり有名ではないけれどベートーベンが一番好きな曲だったというお話でした。
正直、ザ・クラシックという交響曲は苦手なのですが、べセス氏の指揮は本当にリズミカルで、しかも音が切れるタイミングが生理的に心地よいのです。
とにかく「自然!」私もついつい体を揺らしてしまいましたが、周りの方も結構体を揺らしながらご覧になっていました。
まあ、角野氏の息をつめるような演奏が終わった解放感もあったかもしれません。笑
後半、チェロのソロが本当に素晴らしくて、その後ろから聴こえてきたホルンやクラリネットのやわらかい音色とが会場に広がりました。
とはいえ、ピアノ協奏曲の様に深く入り込んで鑑賞するには至らず、ベートーベンを聴くにはだまだ修行が必要な様です。ただ、今までにない位にベートーベンが楽しく聴けたのは自分でも嬉しかったです!


●解釈について

公演後、「ショスタコ〜2番」のあまりの感動に下記のポストをしてしましました!

この意味は、第1楽章・第3楽章の質感と第2楽章の質感が異なり、同時にそれを表現できるピアニストが希少だという意味は当然のこと、それだけではありません。
この「ショスタコ〜2番」の解釈の方向性は、前衛的・モダニズム的表現として情感をあえて排するものと、第2楽章を中心としたロマン派的な情緒性をもって解釈する2タイプとして考えられます。
ただし、2年前に私が試聴した音源の多くは時代が古いものも含めて、第1・第3楽章の質感を中心としたモダニズム解釈に依っているものでした。

全章を聴くに当たりたどり着いた第2楽章の音源、ギルトブルク氏のプロフィールには「熱情的かつ物語を語るような音楽」「ラフマニノフの演奏には定評がある」ということなので、まさに私が望んでいた表現性。
それまで「目の前にあるのに掴めない美しさ」をようやく掴んだ感覚です。
この音源、ショスタコーヴィチの名前が付く複数のプレイリストでも、ギルトブルク氏の第2楽章は必ず入っていると言えるほどでした(他第1・第3はなくても)。
結果として、Spotifyでは同曲第2楽章の再生回数がダントツ。なんと、第1・第3楽章の約100倍です!笑
しかも、クラシック曲の再生数としてもとんでもない数字。

ペトレンコ氏とギルトブルグ氏の音源 Spotifyの再生数スクショ

これはあくまでも仮説ですが、もしかしたらこの演奏が「ショスタコ〜2番 第2楽章」の再評価につながり、海外では多くのクラシックファンが聴くようになった可能性が考えられます(実際、他の音源でも第2楽章だけが3倍以上聴かれている)。
指揮のペトレンコ氏とギルトブルグ氏がロマン派に寄せた解釈を行ない、それがこの曲の再評価に至り、その評判は海外では普及している一方で日本ではまだ広がっていない状況のなか、指揮がべセス氏だったので今回の斬新な解釈に至ったのではないか…と。
まあ、あくまでも私の勝手な想像です。笑
表現的な事に話を戻すと、当然ながら第1楽章も第3楽章もこのギルトブル氏の演奏ではロマン派的な解釈です。
第1楽章冒頭のテーマなどは歩くような人の温かみを感じるステップ感でこれはこれで素晴らしいのですが、もともとがクラシックファンではない私はモダニズム的抽象度の高い第1・第3楽章の方が断然面白く感じてしまう訳です。。。

では、この二つの解釈を混在させるとどうなるのか。
実は似た様なことをハンブルク交響楽団高崎公演での「バルトーク:ピアノ協奏曲第3番」で経験しています。
第1楽章は抽象度の高い情緒的抑揚をあえて避けた演奏だったのに対し、第2楽章は情緒的な表現だったため、曲としてはバラバラになっている印象があったのです。
が、第3楽章を聴くと実はこのバラバラ感にこそ現代音楽的に聴かせる鍵がある!と感じられて本当に感動しました。
しかも後で調べると、当時は他のバルトークの曲に比べて保守的だという批判すらあり、この曲の評価が高まったのは後年とのこと。
これらの条件を考えると、当時のバルトークはこの日聴いたような現代的印象を意図して作曲していたものの演奏時にはそれが叶わなかった。
ただし現在定着している曲の印象・高評価は保守的な視点からのものなので作曲者の想定した表現とは異なっていた可能性すらある、という事です。
この曲の再評価は後年ですが、現在ではこのバルトークの3番第2楽章の方が他よりも多くのクラシックファンに聴かれる状況に至っているのです(Spotify調べ)。

話を元にもどします。
1・3楽章と2楽章の表現を分けただけなら協奏曲として全体を演奏する意味を持ちませんので、今回はこのバルトークとは異なり、通常の協奏曲として全体を調和させる必要がある訳です。
私が組み替えて聴いた行為は「ショスタコ〜2番」という曲全体に対する解釈ではなく、自分好みに合わせて楽章をバラバラにするだけ、いうなれば表現者や作品(作曲者)への敬意を欠いたもです。
この様な愚行を一流の指揮者・ソリスト・オーケストラが行うことはあり得ず、そういう意味も含めて「だれも実現できなかった事」と書きました。
これを実現するには、曲全体を通して調和させる「べセス氏の解釈と角野氏の表現性」が必要だったからで、それがこの日の演奏で実現したという事なのです!!!!

ただ、私が行った様な分解・再構築は音楽の受容として許されていないとも思っていません。
あくまでも「プロオーケストラのクラシックコンサート」としては許されないものということです。
角野氏の様なソリストが個人で主催されるコンサートにおけるシニフィアンを中心とした組み合わせや、私の様に自分の好みを最優先した組み合わせも音楽の楽しみ方としては自由が保障されます。

逆に、作品への解釈を目的した「表現よりも強い動機」に至れば、本末転倒となり音楽性を損ねることもあり得ます。
今回の解釈は、そういう新規性や正当性を求めたものとは異なり、表現者の身体に染み込んだ「思考を介さない心地よさ」が、自然と広がっていくようなナチュラルな感覚でした。
そう、角野氏だけではなくべセスマエストロはもジャズやミニマルミュージックをお好きなのでは…と感じられる解釈です。
調べてみると、べセス氏の「ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲第2番 2楽章ワルツ」の音源を見つけました。
(この場合の「ジャズ」はダンス音楽・ポピュラー音楽的な意味合いで、さらにはこの曲自体が「ジャズ組曲」ではなく「舞台管弦楽のための組曲第1番」だといわれているなど、相当ややこしい状態。苦笑「ジャズ」の定義としての理解ではなく、クラシックに対するポピュラーミュージックという意味での参考としてください)
聴くと、ビートが安定していてこの日の演奏にも共通していました。
実際の角野氏のピアノはもう少しスウィング感・グルーヴ感ばあるのですが、とにかく雰囲気には近いと言えるでしょう。
念の為に他の方の演奏と聴き比べてみると、ワルツは拍数による伸縮があるクラシック的なタイム感だったので、やはりべセスマエストロによるポピュラー音楽的な解釈がこの日の解釈の根底にあるのだろう…と。
(ちなみにこの曲、少しハウル「人生のメリーゴーランド」っぽい 笑)

また、ショスタコーヴィチといえば第二次大戦や旧ソ連の独裁政権との関係を考えがちですが、「表現された作品(表現そのもの)=芸術」を主語として捉えれば、世に生み出された時点から作者と作品は独立した存在となります。
しかも、現在定着している評価や分類はバルトークの例を挙げたように大衆による受容・継承で形作られたた結果に過ぎず、作品とイコールで結ばれるものではありません。
再現芸術であるならば、尚のこと作品とその表現が背負う歴史・文化には距離があることは自明で、だからこそ古典は永遠に古くならず常にその時々の現代に「名作」として存在し続けることができるのです。
プレトークでの奥田氏も、「モーツァルト:交響曲第32番」の扱いで「交響曲」分類は「オペラの序曲」の可能性もあるという事や、「ショスタコ〜2番」が息子に向けて書かれた解釈も2種類ご紹介くださいました。
一見定着しているかと思われる通説や分類の不完全さを言及されていたのです(一定以上の可能性がある状態で保留する事=帰属・アトリビューション)。
クラシック音楽に専門的に関わっていらっしゃる方は、今の「定説が正しい」という保守的な鑑賞者層に危機感をもっていらっしゃる様に感じますが、どうも一般的なクラシック受容からはそれを感じられないのです。

以前の「ショスタコ〜2番 3楽章」での曲解説、息子の為に…と強調すればするほど、ロシアの戦争や独裁政権との関わりを排除しようとする逆説的な作為=子どもっぽさの強調をとして感じてしまいました。
一方、高崎での「バルトーク〜3番」では、モダニズム的解釈が実は曲が作曲者が意図した演奏に近かったかも?と思えるほど自然に受け入れられました。
解釈を拒否したかのような「素」の表現も、実はその曲のあるがままを表現したいという表現者の解釈に他なりません。
若い方の全く新しい感覚でその作品が生まれ変わることもあり、それは本当に素晴らしいことです。
ただし、だからと言って作品や作者の「伝承されてきた歴史性(事実そのものではなく伝わってきた事象)」を無視して良いということとも異なります。
文化として伝承そのものが作品のコンテクストとして紐づけられ、メタ的にはその受容変化の流れ自体も鑑賞として味わうこともできる上、その経緯を知ることで受容側に新しい発見を与えてくれるからです。
私は造形芸術の鑑賞スタンスを基にしているので、クラシック音楽界隈でも「作品や作家の歴史的文化的情報を得る一方でそれにとらわれない直観を重視する」視点が多くの方々で共有されたら、それぞれ楽しく自由に鑑賞できるのに…と、どうしても思ってしまいます。

芸術の解釈に正しい答えなどはなく、誤解も含めて可能性としてはすべてOKです。
ただし、それが正当性や自己顕示(シグネチャー的独創性)など、表現以外の動機を第一目的した場合、その解釈からは「恣意的な違和感」が生まれます。
理由はわかりませんが、その芸術性を自己(解釈の主体)よりも下に置くリスペクトのない解釈からはそれが伝わってきてしまうのです。
もし、無理やりに「芸術的解釈とは何か」と考えるならば、その解釈が何かを問題にするものではなく、「表現者は本当にその解釈を直観として欲しているかどうか」という点でのみで定義されるのではないでしょうか。
鑑賞者は一期一会の機会において、その表現者の直観的(≒即興的)表現を味わうもの(これも実は解釈で鑑賞とは二次的解釈に他ならない)なのだと思っています。

追記

<追記1>

この時にオケに参加されていたフルート奏者:野津臣貴博氏「のづちゃんねる」でご紹介がありました。
通常気合いが入るのに自然体である事に驚かれていましたが、22公演を巡る全国ソロツアーの合間であった事を知ったらさらにどう思われるかしら…と思ってしまいました。笑
が、それこそが私が好きな「内側からの視点」による演奏です。
過去には「解釈の非介在」と同義で用いていましたが、今は構造的な俯瞰的視点も同時に存在するはずなので、自然=非解釈とはなりません。
作者が事前に考える恣意的な自己表現ではないという意味で自然に感じられるという事です。
「がっちりと準備して今まさに本番やってるぞ、というのがかてぃんは全くなかった あるのは景色とラヴェル ショスタコーヴィチのみ」
これこそが、私がショパンコンクール以来角野氏の表現のなかで最も惹かれる所です。

現実には「角野隼斗氏の「野心的挑戦」を〜」に書いた様に、今後の角野氏の演奏は私が苦手にしている方向性にまで広がっていく事が予想されるので、このタイミングで自分にとっては「原点」のような事を語って下さった事に心から感謝いたします。


<追記3>

野津臣貴氏「のづちゃんねる」で、ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番をさらに語って下さった動画が配信されたので追記します。
やはり日本のプロオケの方でも、この曲の緩徐楽章の解釈は馴染みがなかった様です。
ファンとして「角野隼斗」というピアニストをすごく評価して下さる事は嬉しいですが、そういう事ではないのです。
もちろん、その素晴らしい演奏は前提なのですが、Spotifyをみればこの緩徐楽章の解釈が現在の聴衆(主に欧州)に大々的に受け入れられている事実が先にあり、べセスマエストロも含めて角野氏はその解釈を用いてご自身の表現としたのです。
私にとっては音楽そのものが持つ「美・快」を遺憾無く引き出した演奏の様に感じられ陶酔し心奪われましたが、これは正しいとか正しくないとかではなく、現代の聴衆の感性にマッチした表現性という事なのです。
その表現を望む聴衆の指向性が第2楽章と第1・第3楽章のSpotifyの再生回数で、すでに顕在化されているのです。
角野氏単独の解釈ではない事に私がこだわる理由は、クラシック音楽における「伝統的(正しい)解釈」というものが、実はそれを語る演者・評論家・クラシックファンが実際に触れることができた少し前の解釈でしかなく、解釈そのものは聴衆の好みによって常に変化し続けていくという具体的事例と考えられるからです。
しかも、本当に良いと感じている場合もあれば、長年聴き続けてきた「慣れ・親しみ」という部分で評価が高い場合もあるのです。
一方で、踏襲は形骸化を招くので、ある一定の期間が経つと飽きや不満を感じる人々も出てくるので新しい解釈を求める人が増える事、さらに時代が経る事で環境が変わり人々の感性そのものが変化するという事もあります。
この緩徐楽章の表現を1〜3楽章との関わりでの調和が実現できたのは今回が初めてだと思いますが、たぶん10年〜15年後位には今回演奏解釈とそれを全体としてまとめる表現手法が一般化されるだろうと私は考えます。
勝手な予想、というか予言?笑
なぜなら、これからの指揮者やピアニストはべセスマエストロや角野氏の様なタイム感抜群な方々が多くなる事が予想できるからです。
それが音楽環境の違い、時代の変化です。
今は角野氏とその他僅かなピアニストしか演奏できない難しい表現性であっても、次世代なら多くの方々も演奏可能になるはずで、演奏可能ならばこちらが主流になる!と思えるほど素晴らしい演奏と解釈だったのです。
(主流と一般化は違うのでこれは言い過ぎですが、そう言いたくなるほど)
私が角野氏をクラシック界の破格(異端)者としてではなく、次世代の牽引者として扱うのはこういう事です。


<追記4>
野津臣貴博氏「のづちゃんねる」で、べセスマエストロのベートーヴェン:交響曲第8番について超高速演奏であること、しかもこれが楽譜に書かれている通りであるという貴重なお話が語られていました。
前述の感想はこの演奏に即したものですが、まさかそれがこれほど通常とは異なる事だとは思ってもいませんでした。笑
そもそも、この楽譜に記載されているテンポは「間違い」とされていたという事がとても興味深い問題です。
「間違い」という考え方自体が後年の解釈なので、追記3で書いた「主流とされている解釈自体には「正しさ」などは存在しない」という事例としても考察できるからです。
当時の楽器でそれができなかったとしても、ベートーベンが楽譜に書いているのであればそれを指向していた可能性は考えられます。
複数箇所なので「メトロノームが壊れていた」という説のご紹介もありましたが、作曲家が壊れていたメトロノームのテンポを楽譜に記載するなんて普通はちょっと考えられません。
差異が大きければ素人の私たちですらわかるのに「壊れていたからそのまま書いてしまった」なんて、ベートーベンの能力をどれほど見くびればこんな答に辿り着くのか…と、クラシック音楽に疎いからこそ信じ難いものを感じます。
また、当時不可能な演奏だから「間違い」と決めつける事も、その考え方自体が余りにも短絡的すぎるのです。
もしかしたら、難聴という状況にあったために自身が想像する音のイメージの方が実際に演奏されるだろう音のイメージより強かった可能性も考えられます。
つまりその音楽作品に対しての「理想」を書いたということ。
だとしたら、今回のテンポで演奏することが作品にとっては相応しいと考えられ、過去においては物理的な問題で演奏できていなかっただけ、という事になるのです。
これは、実現可能性ではなく表現志向性とする認識で、当時ではこの早いテンポでの演奏は無理だったとしても、それを目指して演奏を試みてほしいというメッセージだったという考え方です。
ちょっと大きな話になってしまいますが、世界平和は実現しないので「平和」という言葉は不要というのではなく、「平和」という概念があることで「平和への志向性」が生まれる、みたいな事です。
具体的な指示なので概念の問題ではないとはいえ、ベートーベンが何をもってそのテンポを書いたのか、結論ありきで盲信する事の方がおかしいのです。
慣例として演奏されてきたテンポという結論が先にあったとしても、それを作品解釈として正当化する必然性にはなりません。
つまり、解釈の変遷のなかで楽譜とは異なるテンポが「慣例」として定着しているにすぎないということです。
楽譜のテンポと伝承されている演奏のテンポがなぜ異なるのかはわからない、というのが本来あるべきスタンスだと思います。
そして、当時実現不可能だったものが現在可能であるのならば、今はそう演奏する事もその作品にとって素晴らしい事なのではないでしょうか。

ヴィキングル・オラフソン氏がバッハ:ゴルトベルクの解釈について語られた中で、「バッハが未来に向けて書いた手紙」「ピリオド演奏の正統性については、少し考え直してみるべき」と語られているのですが、そのことと同じです。
ただし、「彼ら(ピリオド演奏の正統性を主張する方々)も正しいですし、唯一無二の答えというものは存在しません」とも語られている通り、慣例的テンポを否定することも誤りで、どちらか一つに決めるような事ではないのです。
というか、理由がわからない慣例だったとしても、長らくそれが受け継がれてきた所には芸術的必然性は存在し、譜面に書かれたテンポが絶対に正しいという主張も変なことなのです。
美術領域だと、この程度の論拠では「アトリビュート=帰属(注:西洋美術史ではアトリビュート=持物の意味もあります)」として複数の可能性を保留したままなのですが、クラシック界(特に保守的ファン)は特定解釈を「正しい」「正統」とし、それ以外を排他的に扱うので驚く事があります。
それぞれの可能性を保留したままだからこそ、芸術作品の解釈も表現も多様に開かれているのですから。

●5/26追加リンク

作品の解釈というものは、底が見えない深い可能性の沼から真摯にその核を掬い上げる様な行為で、浅瀬に見えている物を拾うものではありません。
形式をなぞるのではなく発生時の根源性を探る行為が解釈です。(注:意図的に行う再解釈・再構築以外)
以前小曽根氏が角野氏の表現に対して「原点回帰」と語られていた通りに、角野氏も同様のスタンスで解釈を考えられていると思われますが、保守層からはわかりづらいので「伝統的ではない」「異端」と評価されるというだけです。だからこそ恣意的ではないのに斬新であり新鮮なのです。
これは深い歴史的解釈とともに即興的という表現性にもつながるところで「俯瞰的でもあり凝視的」でもあるというのはそういう事です。
解釈はあくまでも多様に考えられる可能性の中の一つであり、表現者は個々にそれに挑むからこそ全体として豊かな芸術表現が花開くという事です。
これは広義の芸術では一般的な姿勢です。
野津氏が「次の時代に行ってます」おっしゃっていましたが、ようやくクラシック音楽界の特殊な状況が広義の芸術解釈のような自由度を持ち始めたのだと感じています。
それこそが、私が現代の若い音楽家を支持をする所以です。
私が角野氏に対し「うわ〜〜!こっち(広義の芸術領域)に来た〜!!」と驚いた時と似た様なインパクトを、野津氏は感じられたかもしれません。


<追記2>
ちょっと分かりづらかったかもしれないのと、たまたまのタイミングが重なったので、さらに追記します。

上記への私のリプ

ちなみに、今読んでいる千葉雅也氏著「センスの哲学」がまさに!!!という感じで頷いている。
「センスとは いろんなことに関わる抽象的なリズム感の良さ」と文中で言い切っている部分も含めて、私がこれまでバランスと書いていた部分も身体的と書いていた部分もここに含まれる。
まさに「角野隼斗の表現性=センスの良さ」だ!!!と。
また、たまたま角野氏が挑戦されていたゲーム「ポリリリリズム」の作者の方が紹介されていたNHK「フロンティア ヒトはなぜ歌うのか」を観たばかりでしたが、千葉氏が哲学的見知から導き出した内容を脳科学と音楽人類学で実証している様な番組でした。
またもやシンクロニシティ的偶然に喜んだ次第。

「センス」については、本著を読了した後に別の機会で何かかくかもしれません。



※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略
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