東京交響楽団「角野隼斗×上野耕平 カプースチン・スペシャルナイト」
※10/23 <追記>「サクソフォーン協奏曲〜」の途中に記載
<はじめに>
8月30日にサントリーホールで行われた東京交響楽団「角野隼斗×上野耕平 カプースチン・スペシャルナイト」の感想です。
通常は鑑賞順にnoteを書いているのですが、FC限定コンサートの感想を先に投稿しています。
また、角野氏のコンサートが集中しnoteを書くよりも予習に時間を割いた事や、その他の理由もあり、投稿が遅れに遅れました。
私が角野氏のコンサート演奏を有料配信で初めて聴いたのが、2020年「カプースチン追悼コンサート」でした。
角野氏を知る前から聴いていた作曲者はカプースチンとガーシュウィンしか無かった私にとっては滅多にない機会だったのです。
そう考えると、このコンサートの翌日に演奏された「ガーシュウィン:ぴあの協奏曲 in F」との二日間は、自分にとって本当に特別な日となりました。
また、当日のXのタイムラインでは台風10号による交通機関の運休でチケットをお持ちでも来られない方々がいらっしゃったり、朝から長時間かけていらっしゃる方も。。。
そんな中、東京は少々雨が降る程度のみ、コンサートへの行き来も傘を使わなかったほど。
相変わらず角野氏のお天気パワーは凄いとは思いつつ、申し訳ないやら。。。
再演やカプースチンをテーマにしたコンサートを期待しております。
※今回は普通に感想中心のnoteのため、目次は設けません
<8つの演奏会用エチュード op.40 より 第1番、第7番、第8番>
角野氏のソロピアノによる3曲。
第1番の最初から「ピアノの音がモワモワしカプースチンのピアノの良さが聴き取れない・感じられない」という印象。
席はこれまで何度も座っていた場所なのですが、ピアノの音は今までとは明らかに異なりました。
後のXでも何人かの方々が同様にピアノの音が明瞭ではない旨のご感想。
先に書いてしまうと、休憩中に行われていた調律がいつもの桉田氏ではありませんでした。
必ずしも桉田氏である必要は無いと思うのですが、今回は他にも問題を感じる所があり、それは<オマケ>に記載します。
この3曲が発表された時、「8つの演奏会用エチュード」から第1番「 前奏曲」/第7番「間奏曲」/第8番「フィナーレ」は言葉通りの選曲です。
言語のつながりで聴かせる面白さはもちろんあると思われますが、純粋に音楽的組み合わせとして考えるとどうなのだろう…という疑問も覚えました。
「前奏曲」の後には軽快な「トッカティーナ」や楽しげな「パストラル」で畳み掛けるように「フィナーレ」に持っていく方が、角野氏らしさが感じられるカプースチンとして皆の期待に応える様な気がしたからです。
が、実際に聴いてみるとこの選曲には超・納得でした。
●第1番「 前奏曲」
音の明瞭さがなかった分、いつも以上に強弱をつけて演奏されていた印象。
カプースチンの特長は「圧(音量そのものではない)が抜けない」所にあると考えているのですが、今回はあえてその「圧」を適度に抜くために音量をコントロールされているのではないか…と。
その結果、今までに感じたことの無い「ウェーブ感」を覚えました。
メロディから考えればもっとウェーブ感が出てもおかしく無い旋律に対しても一定の圧力がかかっているところがカプースチンらしさだと思っているのですが、今回の演奏では今までとはバランスが異なるのです。
カプースチンらしさが無くなった訳ではないのですが、ギリギリらしさが感じる適度な抜け感のある新鮮さでした。
なるほど!ピアノの音が明瞭に聴こえない質感を別表現に展開している!すごい〜!!と、聴きながら興奮してしまいました。
●第7番「間奏曲」
ここで冒頭に書いた選曲の謎が解けました!
なんと拍手を挟む余地なくすぐに演奏が始まったのです。
この日のピアノに合わせたフワ〜っとした優しい響きを基調にした演奏は、オリジナルの表現性とは異なります。
2023年“Reimagine”の感想で書いたこと、オリジナルでは圧が一定で単調だった「夢」に対し角野氏は表現性豊かだったと書いているのですが、今回の「間奏曲」では更にクラシック寄りの繊細な表現になっていたと思います。
多楽章における緩徐楽章としての役割を、その名の通り「間奏曲」に担わせる構成になっているのです!!!
冒頭に書いた「超納得」とういうのはこのこと!しかもまだ続きがあるのでそれは後述。
後半は、その柔らかい繊細な表現が、ジャズ的な和音へと自然に変化してきましたが、 “Reimagine” のような弾む表現が難しい為、これまでにはなかったクラシカルな響きを活かす質感で演奏されていました。
●第8番「フィナーレ」
曲の冒頭は波の様にフワッと立ち上がりスーッと引く、寄せては返す様なうねり・揺らぎ・グルーブが美しくしい。
「間奏曲」の緩徐楽章的質感からなのか、打鍵音より響きが勝る音響を効果とするためなのか、その両方なのかはわかりませんが、ここでもまた新鮮なカプースチン像が感じられました。
右手と左手の役割も右で強く左で弱く(単に片手で強さを変えているという例えで右か左かは不明)という様なこともされていました。
オリジナルでは余り感じられなかった右と左の対比や、強い連打に対して繊細な弱音をあしらいにされていたり、やりすぎるとカプースチンらしくなくなってしまうなかで、絶妙のバランスで角野氏がスパイスを効かせている様です。
9/1に行われたかてぃんラボ「カプースチンから学ぶハーモニーの作り方」でも語られていた様に思うのですが、やはり大きくアレンジするとカプースチンではなくなるのでしょう。
カプースチンらしさを活かしつつもこの3曲を多楽章的構成にされてるていることを考えると、実は“Reimagine” 以上に再構築とも考えられるのではないでしょうか。
今後の可能性が大きく感じられるソロ演奏でした。
<24の前奏曲 Op. 53より 第12番、第9番、第17番 (サクソフォーン四重奏版)>
上野耕平氏(ソプラノサクソフォーン)、宮越悠貴氏(アルトサクソフォーン)、都惇氏(テナーサクソフォーンス)、田中奏一朗氏(バリトンサクソフォーン)のサックスカルテットThe Rev Saxophone Quarte(TheRev)による演奏です。
冒頭に書いた2020年の「カプースチン追悼コンサート」の配信で聴いた事があったのですが、このコンサートの少し前にFFさんがTheRevSQチャンネルからのYouTube配信を案内してくださり、運良く聴くことができました(今はもうアーカイヴは残っていない)。
今回の演奏で驚いたのは、サックス四重奏としてのアンサンブルの完成度。カプースチンの曲として必然性が感じられるものだったのです。
2020年当時は、「この曲をサックスで演奏したいから編曲した」というような「楽器編成ありき」に感じられていあのですが、「サックスのみの編成だからこそ可能な表現・音楽性」として感じられたのです。
●第12番 「嬰ト短調」
実はこの演奏順、実際の順番とは異なっているのです。
それに気づくと、角野氏のソロと全く同じ多楽章構成になるように選曲されている〜!と唸る訳です。
「三曲を連続で聴かせる」構成意図はオリジナルとは異なる順序にしたためより明確に伝わりました。
「24の前奏曲」は「8つの演奏会用エチュード」よりも少し現代音楽的というか、「カプースチン的なわかりやすさ」から離れ複雑な印象を覚える曲があります。
その中でこの「嬰ト短調」はノリの良さとわかりやすいメロディで「8つの演奏会〜」的なカプースチンらしさ、聴きやすさがあります。
ただし、アタックの強いパーカッション的な打鍵音を前提にしている以上、吹奏楽器で演奏されるのはやはりチャレンジ、という域を出ない印象。
つい先ほど「「サックスだからこそ可能な表現」と書いたばかりだったのですが、これだけは唯一ピアノの方が良かったかも…と思ってしまいました。
素人考えですが、もう少しミニマル風の演奏でも面白い気がするのですよね。あえて圧を全然ぬかない感じ。笑
●第9番「ホ長調」
前述したように、やはり曲間の拍手はなく多楽章の緩徐楽章として選ばれていると思われます。
しかも第12番とは一転して、サックスだからこそこの曲の素晴らしさが表現できている!と思えるものでした。
柔らかく広がる吹奏楽器だからこそ、減衰せずに音の響きが混ざるからこそ可能とも言える表現。
サックスの楽器表現としてはまさに本領発揮の一曲だったのではないでしょうか。
上野氏のやわらかい高音の美しさと普段聴きなれないバリトンサックスの低音の重なりが本当に素晴らしかったです。
●第17番「変イ長調」
ビッグバンド風でノリノリ。
伴奏としてチャールストンかディキシーランド・ジャズみたいなズンチャッズンチャッという和音に聴こえるのですが、実際には4音しか出ていないのがどう考えても信じられない!凄すぎます!
また、メロディパートはサックスというよりもクラリネットっぽい印象で、サーカスやチンドン屋さんっぽさすら感じました。
大道芸の呼び込みの様なワクワクが溢れていて、本当に楽しい1曲でした!
<フルート、チェロとピアノのための三重奏曲 op.86>
東響交響楽団からフルート:竹山愛氏/チェロ:笹沼樹氏と角野氏というソリストとの三重奏。
ピアノが他の二つの楽器よりも奥に配置されていた事、音が明瞭に聴こえない調律だった事もあり、ピアノだけが遠くでボヤーと響いている印象。
そのバランスの悪さが気になってしまい、鑑賞スタンスに持っていくのに時間がかかりました。
とはいえ、人間という生物は「慣れ」という補正が作用するので、聴きづらさは残るものの「違和感」は次第に消えていくのが面白い所でもあります。
●第1楽章 アレグロ モルト
演奏が始まる、という瞬間にスマホの音が鳴り仕切り直しになりましたが、始まった直後ではなかったのが不幸中の幸いです。
冒頭のピアノの低音がジャジーにズンズン響くはずなのですが、残念ながら音がボヤけて遠くで響いている印象。
一方、フルートはとてもよく響きます。
どこで息継ぎされているのか不思議な位に「圧が抜けない」カプースチンらしさが表現されている印象。
ノリはあるのに圧が抜けない、さらには拍子(小節)単位ではないタームが感じられるのですが、呼吸を用いるフルートでこれが表現できるの竹山氏、本当に凄い!
(聴いた音源の中では、カプースチンらしさが感じられず単に美しいフルートになっているものもありました)
チェロは度々バチンバチンと鳴らされているのですが、音源で聴いていた時には印象に残らなかったのに、どういう手法で鳴らされているのかよくわかりませんでした。(弦をネックやボディに打ち付けている?)
実は、普通に弓で演奏するチェロの音量がピアノ同様に弱い印象で、ピチカート方が良く聴こえる位で、うーん不思議。。。
なんだかチェロも少し勿体ない印象で、音源で聴いていた以上にフルート主体という印象を覚える楽章でした。
白眉は楽章最後の部分。
各楽器から響く音が圧が抜けないままに、本当に繊細にデクレッシェンドしていき…やがて終章を告げるチャイムかファンファーレの様な「一声」に。
会場からは大きな拍手が起きました!
●第2楽章 アンダンテ
かてぃんラボに残っている2019年の角野氏の演奏と最も異なった印象だったのは、この第2楽章でした。
ゆったりとしたテンポから始まるピアノは、響かせるよりも置くような朴訥とした音で、カスタムアップライトの演奏以降の質感だと思われます。
この日は特にアタック音が不明瞭だったこともあり、よりくぐもった印象になったのかもしれません。
冒頭はピアノがメインでチェロが伴奏?あしらい?という感じ。
フルートも第1楽章までの颯爽とした印象とは異なり、ピアノに寄り添う空気感のある質感。
そして、先ほどまでボリュームが小さめで残念だったチェロが、なんといえず甘〜く儚い美しさ響いてきます。
第1楽章がフルートが中心だとすれば、第2楽章はチェロが主役!と思ったのですが…改めて上記の動画を観ると、コンサートで感じたほどチェロメインとも思えません。
笹沼氏の第2楽章の演奏は特に印象的で素晴らしかったのでしょう。
基本的にこの楽章のピアノは伴奏、しかも片手など音数も少なかったりするのですが、その少ない和音の一つ一つが瑞瑞しく自然的な揺らぎが感じられ、これはもう角野氏しか奏でられない「伴奏」なのですよね。
フルートとチェロだけの所からピアノが入りピアノソロになる所(上記動画の11:33位)、冒頭のくぐもった音とは一転してオルゴールの様にキラキラ繊細な音色にヤラレました。。。笑
面白かったのはフルートは結構お休みがあること。
フルートがメインの時はチェロもピアノも伴奏的に入るのに、フルートは和音が演奏できないからか、伴奏パートを担わないのかもしれません。
●第3楽章 アレグロ ジョコーソ
リズミカルで華やかなピアノで始まり、コロコロと転がるピッコロの様な音色が魅力的なフルート!
ここでもチェロはバチンとしたした音や普通とは異なる音が。
お三方によるノリが良い軽やかな疾走感は、前進性・推進力が強く(圧が抜けないから)まさにカプースチン!!
ただし、所々にレガート的なやわらかい質感や音量変化の波、テンポの揺らぎがチェロとピアノにみられます。
圧を一定に保つのが難しいフルートが旋律としてカプースチンらしさを担保しているのに対し、伴奏はすこし揺らぎや抜け感で音楽性を豊かにしている印象です。
いずれにしても、カプースチンらしさは十分に表現されている上で、それをより活かす絶妙な加減で新たな表現性が感じられ、本当に素晴らしかった!
ここで前半終了による休憩。舞台配置も変わりピアノは後ろへ移動しました。
<サクソフォーン協奏曲 op.50>
ソリストの上野氏が指揮台の下手にスタンバイ。
冒頭にゴーン!という強いピアノが入り、音源よりも象徴的な曲の始まりでした。
サックスは想像していたようなやわらかな響きではなく、険しい岩に打ち付ける波のようなピアノともに、緊張感のある孤高の演奏。
岸壁から望む荒れた海と風、厳しい真冬の自然が目前に浮かんできました。
やがてオーケストラが入ると段々と強い風もおさまってきて、先ほどとは異なるイメージでやわらかなサックスが響き、春めく穏やかな海と明るい日差しが感じられます。
海辺近くの若草が香るのどかな草原で、ゆったりした時間が過ぎて行く様です。
カプースチンでこんな印象主義的・象徴主義的な表現ってあるの????という驚き!!!
この情景的な印象は生演奏で初めて感じた事ですが、自宅で聴き直しても同様の質感をこの曲から感じられる様になっているのです。
音源では上下するサックスの旋律に捉われて感じ取ることができなかったイメージが、このコンサートをきっかけに感じられる様になったのかもしれません。
もちろん、コンサートの記憶で音源のイメージを補完しているのですけれど。。。
そこから段々とジャジーに変化していく所もすごく洒落ています。
コードの事はわかっていませんが、いわゆるドミナント・モーションみたいな…ちょっと不安定なイメージから落とし所に落ち着いたタイミングでジャズのリズムに入るのです。(あくまでもそう感じるイメージ)
そこからテンポもアップしリズムもタイトに変わるのですが、ここで気づきました。
オケの中のピアノがなんと角野氏!!!!笑
いや〜〜〜〜、、、ですよね〜〜〜。笑
そうでなければ、この躍動感・ノリにはなりません!!!(冒頭の印象的な音もきっと)
そこからはもう、エレキギターやドラムも入ってビッグバンド風!
大井剛史マエストロもノリノリで踊っていらっしゃる。
かと思えば…ムーディーなサックスのリードパートがメッチャカッコいい!
ところが、ここでちょっとした問題が。。。
ドラムのスネアの音が下手後方(自分の左後ろ)から、とても強く遅れて響いてくるのです。
ドラムセットが上手前方にあるため、その対角線の壁に音が当たって聞こえてくるのでしょう。
私がサントリーホールを余り好きではない一番の理由がこのディレイのある反響です。
原因は1階壁面と2階やバルコニー側面が大きな大理石になっている為だと思われるのですが、とにかく音に雑味を感じます。
以前書いたことがありますが、壁面が木材になる3階後方の方が音圧は低いものの音自体はクリアで良いと感じるほどです。
左右や後からの反射音が遠くなる様に、全座席のなかで中央の少し前寄りを可能な限り選んでいるのですが、今回はスネアの音が石の壁面にダイレクトに響く周波数だったのか…めっちゃ大きな音になっていました。
せり出したバルコニー部分だけでも見栄を張らずに(意匠に拘らずに)木材等が使われていたらもっと素晴らしいホールになったと思われるのですが…本当に残念。。。
●10/23追記
ポーランドで行われた際のNOSPR Concert Hallはポーランドで一番音響が良いという評判だそうですが、行かれた方のポストによるとサントリーホールと同じ豊田泰久氏が設計されたのだとか。
全体の雰囲気がとても良く似ているのですが、壁面やバルコニーのせり出した所などは木材です。
このホールは絶対素晴らしい音響のはず!!!
そして、やはり大理石はオーソリティ的な意匠として採用されたのだろう…と、少々残念な気持ちに。
話は戻ります。
そこからちょっとモダンジャズっぽい曲調になると、映画音楽やレビューショー(ポピュラーミュージック)の様に盛り上がり、またムーディーな
シーンになったり…繰り返されるというか次々と移り変わるというか。。。
終盤に差し掛かると冒頭の様な風景イメージが再び感じられ、惜別を惜しむかのように秋風の吹く寂しげな景色が見えてきました。
おおお!この情景パートは全体を通して季節が表現されている!と気付きました。
すごいーーー!!!!
情景がイメージとして浮かんでくる事すら凄いのに、季節すら感じられるってどういうこと?!
そんな解釈はどこにも書いていませんし、このコンサートで実際に聴くまで想像だにできなかったことです。
と、その美しさに心奪われていると、余韻に浸る間もなくその音楽は「ザッツ・エンターテイメント」の様なショー的な音楽に変化!
その妙な安定感・予定調和なところに落ち着く感じが「実は今までのは全て映画やショーの中の出来事ですよ」といわんばかり!!笑
劇中劇としてのエンターテインメント、ショーとしてこの作品世界が完結したのです。
カプースチンって、もしかしてガーシュウィンやアステアの時代のミュージカル映画が好きだったとか?ちょっと疑いたくなりますね。
映画交響楽団に在籍していた事もある様ですし、この構成からはそんな印象を受けます。
上野氏の表現と解釈は、クラシック〜ポピュラーミュージック〜ジャズという様式のそれぞれを繋ぎつつもメタ的な構造を感じさせ、更には、カプースチンはジャズだけでなくアメリカのショーやミュージカルも好きだったのでは?と思わせるほどに素晴らしいものでした。笑
本人の演奏からは割と一元的な感覚で貫く統一性が感じられここまでの構造性は読み取れないのですが、それとは異なる質感です。
それはまさに、カプースチン作品には多様な解釈の可能性が埋もれている!と感じさせてくれる素晴らしい演奏でした。
また、この構造的変化・音楽様式の変化(つなぎ)を聴衆に自然に感じさてしまう所は、大井マエストロの指揮と東京交響楽団の演奏力によるものです。
次のピアノ協奏曲も特に感じたのですが、純粋なジャズっぽさとショー的な大衆音楽的表現は、しっかり違いが感じられつつも自然なつながりになっていて、マエストロの佇まいに感じられたナチュラルなお人柄とも関係がある気がしています。
<ピアノ協奏曲 第2番 op.14>
●第1楽章 アレグロ モルト
ピアノが前に出されましたが、上野氏もオケに混ざって演奏されると思われ、何と贅沢な協奏曲…と思っている所に、オケの皆様・マエストロ・角野氏が登場。
管楽器の「前触れ」が入った後、ピアノのバッキングとオケが入ると…忘れていたようなワクワクと幸福感が自分の中に広がってきました。
「夜のヒットスタジオ」のオープニングみたい!
幼い時に大人の世界を垣間みたときの様なワクワク感。
(メロディは全く記憶になくイメージだけが合致していたのですが、調べてみたら結構似ていて自分でも驚いた 笑)
やがて、おもちゃの街のマーチ風にも聴こえてきました。
もちろんビッグバンドのジャズ的表現がベースにあるとはいえ、POPS・大衆音楽という印象で、何と言ってもそのキラキラ感が今のPOPSやジャズとは全く異なるのです!!
あああ〜〜!!
これは「奥様は魔女」のオープニングだ!!!(アメリカ版はJAzzテイストなのでこちらが近い)
星がキラキラ輝く所も、時々摩天楼が映るシーンも(ダーリンが超高層ビルにある広告代理店で働いていた)、日本の子どもにとってはもの凄い憧れの世界だったのです。
後で音源を聴き直してみると「曲のつくり」としては納得できるのですが、音源だけではこのイメージには全く届かないものだな…とも思いました。
角野氏の演奏はもちろんですが、東響オケの皆様とマエストロも疾走感がありつつスイング感があってこそ!本当に素晴らしい!
楽章終わりには当然ながら会場から大きな拍手!!!!!
●第2楽章 アンダンテ
ムーディーに始まる第2楽章ですが、昔のキャバレーやダンスホールで流れていたかのような踊れるラウンジミュージックという感じ(注:さすがにリアルタイムでは経験していませんが、地方の旅館やホテルにはカラオケが無い代わりにバーに併設された小さいダンスホール(レコード音源やジュークボックスの音楽で踊る)があって大人達が踊っていた)。
記憶から消えつつあった懐かしいイメージがフワ〜っと浮かんできました。
そこからピアノソロに入ると、この初期の協奏曲には珍しい?後年につながるカプースチンらしい旋律。
このカプースチンらしさ満載のピアノとムーディーなオーケストラ(所々クラリネットが良い味!)との掛け合いが何度かやり取りされると、やがてピアノも美しいメロディとなってオーケストラの上で優雅に踊り出しました。
弱めの音なのですが、通常のクラシックとは異なる角野氏だからこそ奏でられる「ジャズっぽい芯のある美しい音」です。
その絶妙な質感が、まだ様式が確立されていない中に見えるカプースチンらしさを引き立てているとでも言えば良いでしょうか。。。
音源を聴いていてもオケに馴染んで特に印象は残らない所なのですが、角野氏の場合はとても印象に残る箇所でした。
最後はとてもおしゃれに軽やかに終了。可愛すぎる〜〜〜!!!笑
(ちょっとYouTubeライブの終わり方っぽい様な…)
●第3楽章 ヴィヴァーチェ
冒頭の部分、角野氏が以前から好きだとおっしゃっていた「Toccata For Piano & Orchestra Op 8」(これまでは映画のワンシーンでしか観られなかったのにDTMですが曲全体が昨年フルバーションがUPされていた!)の冒頭の疾走感に印象が近いと思っていましたが、短調での疾走感はスパイ映画の様な緊張感が感じられました。
その音のイメージとYouTubeで公開されている映画の謎っぽいイメージが私の中で混在していたのかもしれません。音楽的には余り似ていませんから。笑
ピアノのバババババババという主題的な旋律?、どうやら口ずさんでいらっしゃる様でした。
この両手がユニゾンで高速で演奏される所、リズムの面白さでジャズっぽく聴こえるのですが、旋律的には「ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番」のハノンとは似た様にも感じられ、ジャズにおけるリズムの重要性を改めて感じます。
そこから長調に転調するとピアノもオケも可愛らしい印象になったかと思いきや、ピアノが目まぐるしく動き回ってとにかくすごい!
冒頭のバババババの主題?フレーズが繰り返されるのですが、2回目は最初より切迫感のある重めの変化を強く感じました。
オケの方はピチカートでその旋律を受けていたので(1回目のホーンだった)、その違いでピアノの重さが際立っていたかもしれません。
こういう展開をクラシック的な解釈で演奏されている所、「カプースチンの曲をカプースチンらしい演奏で」という解釈とは少し異なって感じられ、上野氏も含めた今回の特徴の様に感じられます。
終盤はムーディーなラウンジ感が広がっていくと…またバババババのフレーズからの明るい転調が短いタームで現れ、ピアノはものすごい疾走感で盛り上がりホーンは合間にその高揚を煽る煽る!!!
最後はよりジャジーなピアノを中心にオケも一気に盛り上がってエンド!!!
ジャズライブみたいにヒューヒュー声を出して拍手したかった!!!
(っていうか、もしかしたら無意識に声だしていたかも…苦笑)
ここからは余談です。
勝手な憶測でしかないのですが、私が苦手にしていた昔の日本のオーケストラであれば、リズムや質感がこれほどまでに洗練されていたとは思えないのです。
前述している日本のダンスホールやキャバレーでのビッグバンドはクラシックとは別の文脈で発展していたと思われるからです。
それから数十年、テクノロジーの発展で多人数での生演奏がクラシックのオーケストラに集約されてしまったこと、クラシックを専門とされている方々でもPOPSもJAZZも自由に聴く機会が多くなったことなどの結果として、どんな作風や様式でも対応できるオーケストラの姿があると思われます。
私にとってはとても喜ばしい事なのですが(だからこそクラシックが聴ける様になったとも言えるのですが)、「多人数による生演奏」はそれぞれの専門性を維持できなくなった為、機会が最大のところにその多様性を担わせた、とも言えるのです。
その対象ごとに考えれば多様な表現性が広がったと言えるのでしょうが、文化全体として考えれば専門性の消滅とも言え、なかなか難しい問題を孕んでいます。
AIによる社会変化を考えればこの方向性は避けられませんが。。。
<アンコール 山本菜摘:Encore Piece for Kohei Ueno>
MCによると、アンコールの曲がなかなか決まらなかったとのこと。
確かに、アンコールに合うカプースチンの曲って難しいかもしれません。
ということで、上野氏のために書き下ろされた山本氏の「Encore Piece for Kohei Ueno」が演奏されました。
「フルート、チェロとピアノのための〜」は角野氏中心だったので、実はここでサックスメインになると全体のバランスが取れるのですよね。
冒頭の3曲と協奏曲はお二方で対称になっていましたから。
柔らかいサックスの響きにアップライト的なタッチのピアノとがとても美しく、「夕焼け小焼け」に似た懐かしいな印象です(「夕焼け小焼け」は「KEYS」千秋楽のアンコールでしたね!)。
二つの楽器が重なる音も掛け合いも美しく、繊細なサックスからの最後の余韻を余す所なく味わうため、会場も一呼吸おいてから拍手が起きていました。
この優しい曲がアンコールに似合う曲ということももちろんあるのですが、前述したように新たなカプースチンの解釈を広げるようなコンサートだったので、あえて別の文脈からアンコール曲が選ばれる事も洒落ているな…と感じました。
タイトルに合わせて全てのイメージを集約せず、あえて少しズラす方が趣味が良い感覚が日本文化っぽいのですよね(私が日本文化好きだから感じる偏った印象デス)。
9/1に行われたかてぃんラボ「カプースチンから学ぶハーモニーの作り方」ではこのコンサートの振り返りという意味合いもありつつも、後年のカプールチン的な和音・らしさがが興味の中心に感じられたので、先に投稿している「Official Fanclub 8810〜」での編曲に生かされているという意味が強い気がしました。
だとすると…もしかしたら角野氏が当初考えていたこのコンサートは、もう少しカプースチンらしい表現を指向されていた可能性も考えられます。
しかし、ピアノの音が不明瞭であった事や上野氏がクラシック音楽的な解釈をされていた事で、結果として今までの角野氏の解釈から少しズレたもの(範囲が広がったという良い意味でのズレ)に至った可能性も考えられられます。
ご自身でもおっしゃっていた「環境に影響されやすい」という資質もあるでしょうが、本来であればネガティブな条件すら活かす表現とも言えるかもしれません。
し自己表現のあり方の柔軟さ、環境と一体化する場に内在するその表現性に、私は強く惹かれます。
そして、このズレが許される・もしくは積極的な解釈を試みられる様になるのは、やはり作者が他界した事が大きいのだと思います。
作者が亡くなる事でその作品は古典化が始まるのかもしれません。
ちなみに、二つ目のポストに書いていた「ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲」については「大阪フィルハーモニー交響楽団〜」の際に少し調べたことを元にして書きました。
ただし、なぜソ連が敵対しているアメリカのジャズを普及させよう(寛容というスタンス以上のもの)としたのかは自分にとって大きな疑問のままでした。
共産主義の時代において、ショスタコーヴィチからカプースチンの時代までも変わらずソ連国内のジャズへの評価が高かったことは、私には理解できなかったのです。
今回の鑑賞で感じた輝きは、世界の中心としての豊かさそのものであり、周りの国々からの憧れがそこに集約されている特別な価値を持っています。
もしかしたら、世界のあこがれを体現している「大衆の音楽(ここ重要!)」をソビエトの自国文化でも同レベルで持っていると証明したかったのかもしれない…と。
ジャズに隣接するブルース的質感は感じられず、大衆音楽としてのPOPSやミュージカル的な要素を感じるビッグバンドはジャズとしては偏りがあるとも言えますが、「大衆音楽としての輝き」が基準だとすれば王道と言えるでしょう。
アメリカにおけるビッグバンドの全盛は40年〜50年代だそうで、この協奏曲が書かれた60年代にはすでに主流はモダンジャズに移行しています。
ソ連が求めていたのはジャズという音楽様式そのものではなく、大衆が憧れるあのキラキラだったと考えれば、納得できるかも…と。
ここに書いた事は単なる私の個人的想像でしかないのですが(論拠も全くありませんが)、書物で調べてもこういう感覚・想像になる事は絶対になく、音楽を実際にその体験して初めて感じられることです。
歴史解釈として記すことは避けなければなりませんが、自由にイマジネーションを膨らませることが許される今の価値観(ポストトゥルース)は、私にとっては幸せな時代だな…と感じます。
※投稿がすごく遅くなってしまい、ポーランドでのマリン・オルソップ氏とNOSPRとのコンサートの日でタイミングが悪いなあ…と思っていたころ、なんと来年の仙台フィルハーモニー管弦楽団で同ピアノ協奏曲が演奏される事が発表されました。
しかもショスタコーヴィチの交響曲と一緒とは!笑
<おまけ>
●ステージ上のピアノの扱いと全体性
あまり良いことではないので書くのはどうかとも思ったのですが、簡単に残しておきます。
途中でピアノを移動される際、ピアノの位置が決まる前に適当な場所にピアノの椅子を持ってきてしまい、ピアノを下手に移動(調整)する際に、お尻で椅子を押して床をギーギー鳴らされていました。
また、譜面台を取り外して縦に持ち替える際にも、短辺を床に置いて持ち替えられていました。
調律師の方なのかステマネさんなのかはわかりませんが、もう少しピアノを大切に扱って頂きたいと思わずにはいられ残念さ。。。
桉田氏のピアノの扱いには能の後見の所作と同等の美しさがあります。
茶道だと理に適った所作の美しさに「見栄え」がプラスされた様に感じるのですが、後見は舞台上の美しい型に対して違和感がない美しさです。
美しい型のなかでの日常動作は違和感になる訳で、舞台上の非現実的な世界に自然に馴染む所作は美しくなければならないのです。
今回はカプースチンの曲・角野氏の演奏にはそぐわない調律だったと思いますが、単に技術的な問題だけではなく、コンサート全体に対する視点の弱さだと感じられるのです。
(調律師の方がピアノを動かしたのかどうかは定かではありませんが、ピアノの移動を他者に任せた場合も調律師として全体への志向が欠如している事になる)
桉田氏の所作の美しさには、コンサート全体を意識されている姿勢が現れているのだと感じます。
角野氏のカッコ良さに対して「見た目云々」という話題が持ち上がる事がありますが、視覚や空気感までを含む全体性を表現として意識している表現姿勢・センスの表れだと言えるでしょう。
こんなことを書くと身なりに無頓着な自分の首を絞めることになりますが、私は受容者として自己を意識しない透明化された視点が好みなので、無頓着のままで良いと思っています。(まあ、言い訳ですけど‥)
一方、コンサートのためにおしゃれを楽しまれる方々は、その「場」を能動的に堪能される鑑賞スタイルと言えます。
お茶会も場そのものを楽しむものなので、さすがに私もそういう所では自分の身なりのバランスを考えますから。。。
●サントリーホール内の撮影について
ついでなので、、、
コンサート開始前に「撮影禁止」のプラカードを持たれた方が歩かれていた方が歩かれていました。
多くの観客はその前後も普通に撮影されていますし、撮影禁止の条件がわからなかったので係の方に質問してみました。
回答は、開演前のステージにオーケストラの方や調律の方がいらっしゃる場合は撮影NGで空のステージなら撮影はOKということです。
「アンコール終了後のカーテンコールは撮影OK」という案内もありましたが、それは出演者や公演によって変わる条件だと考えられ、「開演前にステージ上に人が居る際の撮影はNGでそれ以外はOK」というのはサントリーホールとしての方針だと思われます。
ホール入口に案内が置かれていますが、あれを読んでもこの撮影条件は辿り着けないので、記載させていただきました。
※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略
■追記も含めたnoteの更新記録はこちらからご確認ください