華麗な一頁 —金子きみと文学青年たち—
この一節は、金子きみが「水あかり」という題で『新短歌』1960(昭和35)年11月号に寄せた文章からの引用である。
この号は、その年の7月に逝去した清水信の追悼号だった。きみは若かりし頃に清水と一緒に足繁くかよった「その会」のことを回想して清水の死を悼んでいる。会には、短歌を詠む若者、詩や小説を書く若者、絵を描く若者たちがいた。賑やかに文学論や芸術論を戦わせながら安酒をあおり、それぞれに理想は高くとも生活は慎ましかった、「奢らない」気さくな青年たちだった。
追悼文「水あかり」の冒頭部分を転載しよう。
金子きみの追悼文は、同じ号に掲載された多数の追悼文のなかで群を抜いて文学性に富んでいる。きみは、清水の名を出す前に清水との大切な思い出の場所である「その川」のことを述べ、急速な都市開発のために、今はその川もなくなったことを、清水を喪った淋しさに重ね合わせて書いている。
他の追悼文のような「清水先生の〇〇」などという平凡な題ではなく、「水あかり」という夜を連想させる題名にしたのは、どこか思わせぶりな随筆的手法とも言える。そして、本文を上の箇所まで読むと「銀座うらのわずかなネオン」の水あかりだったという具体的な描写から、読者は、その夜きみが清水と二人で見ていた情景に引き込まれていく。
きみは清水と橋の上でたたずみ、ネオンの映る川面を見ながら二人きりで短い時を過ごす。きみは当時二十二、三。清水は三十七、八。清水はきみにある問いかけをする。きみは答えに窮し思わず涙を流してしまう。
その後二人は何ごとも無かったかのように、いつもの「その会」に行く。すると集まっている文学青年たちの一人が、
と、きみと清水がいつも一緒にいることをからかった。きみに密かに思いを寄せる若者が、清水に対する嫉妬をのぞかせて口にした言葉である。
すかざす、別の青年が言う。
このセリフも「お前こそ、きみちゃんを狙っているのだろう」と揶揄しつつ(そうはさせまい。抜け駆けは許さないぞ)というライバル心がにじみ出ている。
清水の追悼文にも拘わらず、きみはこの青年たちのやり取りを直接話法でいきいきと再現してみせたあと、次のように感慨を述べている。
華麗な一頁。
自分が文学青年たちの関心の的であったこと、彼らのライバル心を煽った原因のひとつが、自分より15歳年上だった清水にあたかも愛人のように大切にされていたこと、銀座うらを流れる川の橋の上で清水と二人きりでいた時に涙を流したことさえあったこと。
それを、自らの過去の「華麗な一頁」としたこの言葉から、清水に可愛がられ、複数の若者たちに囲まれ、清水との仲をからかわれた独身時代の自分を、きみが心から誇らしげに思っていることがわかる。
その後、金子智一とほぼ見合いのような結婚をしたきみにとって、まだ「荘司きみ」だったこの夜の出来事は、紛れもなく若き日の「華麗な一頁」なのだ。たとえ「うたかた」のような淡い思い出であったとしても。
追悼エッセイは、このあと次のように続く。
「忘れちゃいやよ」は渡辺はま子が歌って当時大ヒットした歌謡曲である。「月が鏡であったなら」で始まるこの歌の作詞をした最上洋が、この晩の会に来ていた。そしてみんなで歌謡曲を即興で作り出すという遊びになった。
この述懐は感慨深い。その夜まだ二十代だったきみは、清水と二人きりで橋の上にいた時に思わず流した涙を宴席の遊びの題材にされたことに納得がいかなかった。
しかも「なぞめくはうれし」という清水の想いはきみにとって二人のあいだの秘密にしておきたい気持だっただろうに、それが容赦なく公開され、その場の会話の流れで青年たちの爆笑を引き起こす。
素知らぬふりを装う機転も利かず、きみは「笑いにひっぱたかれる思い」で身をすくめてしまう。そんな態度を示したらこの歌詞のモデルが自分であることを明かしているようなものだが、そう考える余裕さえ無い。
今の若い人たちの言葉で言えばバレバレな状況で赤面して身を固くしているきみを見て「何かあるな」と気付いた青年もきっと何人かいたに違いない。
そのすべてを懐かしく回想するきみは、清水が享年60歳で逝ったこの夏、45歳であった。自分の短歌の才能を見出してくれた清水に尊敬以上の想いをほのかに抱いていた若き日の「華麗な一頁」を開き、師を悼んだ。
初出:連載「新短歌を読む」『未来山脈』2018年4月号、p. 48
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