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たまにわからなくなるそのたびにだいじなことってなに?をかくにんしてこうしんする

以前も何かの記事に書いたかもしれないが、ちょっと見つけられなかったのでとりあえず自分へのリマインドがてら書こうと思う。

私はたまに、
・自分が何をやりたいのか
・今やっていることは本当に自分のやりたいこととマッチしているのか
・というかそもそも自分は何をやっているのか

がわからなくなる。

そして上記のことが分からなくなった場合に何が問題になるかというと、
あらゆる取り組みにやる気が出なくなる→取り組みが遅くなるから進捗が生み出せない、そのくせ心だけは焦っている(落ち着かない)→あらゆる取り組みの質も量も低下していく
ということである。なにより、こういうことが生じると、結果的に自分のやりたいこと(ゴール)が遠ざかる。それを肌で感じながらもなぜか立て直せない。そういう状態になるのである。非常に苦しい。

このようなケースは、残念ながら整理下手の私には絶えず何度もやってくる。避けることは簡単ではない。
そのため、対処法さえ持っていれば良いだろうというのが私なりのベターな解決策である。その対処法とは、次の3つの”作業”を行うことである。

①いま自分が何をやっているのか(取り組んでいるコト)を箇条書きにして書きだす


②自分は何をしたいんだっけ?を思い出しながら、あるいは自分の心が変ったのなら更新しつつ箇条書きにして書きだす。その際、まず大きなゴールを書く、というのは難しい…と思っているまだまだゴール設定が甘い自分の場合は、
まずちょこまかとしたやりたいことを書きだしてから、それらを達成した先に何ができるのかを書く
という順序もアリだと思っている。目的がしっかりしていない状態は開発においては好まれないし、本質的に誰かに貢献することは難しいと思う。おかしな順番だと感じる方もいるだろう。しかし、目的がしっかりしていないのなら、目的を無理やり作り出すことは無理なのだから、とりあえず動いてみるしかないのでは?実は言語化できないレベルで自分の中に目的が存在しているかもしれないし、というスタンスを自分は持っている。妥協しているのとは全然ちがう。自分のレベルに相応の答えを選択することは、次のステップに進むために必要なフェーズの一つだと思う。”フェーズの中のフェーズ”は意外と忘れがち。適切なタイミングが分からない、という考え方も存在するようだが、適切なタイミングだったのかどうかはやってみるまでわからない、結果論なのでは?と思う。勢いが大事なときもある。待つべきだったと後悔することもあるかもしれない。でもその分経験値は増える。自らの感情的な経験だけで満足するのではなく、同時に他者からの客観的な評価にも気を配ることでその経験は価値を増すと思う。また、自分を頼り切ることは危ないと思っている。自分を信頼するのと頼り切るのとでは、質と量が違う。

①と②を並べながら、マッチしているかどうかを確認する。そのうえで、”よくわからないけどやっている”取り組みは削除する。
時間と金は有限であり、自分の身体も有限である(勿論、今の時代テクノロジー、人脈で解決できることが殆どだと思うが、ここでは狭い範囲内の話にとどめている)。そのため、「もしかしたら必要かも…」と”なんとなく”やっていることをスパッとやめることは、本当に大事なことを優先するためには重要だと考える。目的のはっきりしていない行動が全て不要だとは言わないが、自分は好きではない。もしそういうことをやるなら時間が勿体ないと感じる。一方で、「付加価値」は好きである。目的が無いように見えるものでもある種の付加価値を求めてやることはたくさんあるはずだ。たとえば、気分が乗らないときの散歩や、何かインスピレーションを受けたいな…と行く美術館巡りは、目的は”何となく”という副詞によって支配されているように見え、上述のロジックを真に受けるとやめるべきことに含まれてしまう。しかし、このような”何となく~したい”は、重要あるいは必須な場合もあるのだ。

以上の内容は、誤解されずに自分の考えを述べる器量と哲学的探究が圧倒的に不足しているので、いずれまた言語化に挑戦したい。

ちなみに、題名をあえて平仮名にしたのには理由がある。わかった人がいたら嬉しい。


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