クラウンK、大棟耕介の軌跡!
「放送終了後、1年間の限定公開とさせてください」
そう「クラウンK」こと大棟耕介さんと約束して、今年3月にvoicyラジオを収録した。
「アーカイブとして残るよりも、全力で生きる『今』の姿を見てほしいから」という。講演やパフォーマンスの現場の空気を体感してほしいし、ライブ感を大切にしたいという気持ちに共感した。
彼と会うまで俺はピエロとクラウンの区別もつかなかった。ピエロとクラウンはどちらも道化師という意味だが、クラウンの方が広い意味で、ピエロはその一部。だから、彼は自身のことを「ピエロ」とは言わずに「クラウン」と名乗ってる。Kちゃんの仕事は多岐にわたるから。
有限会社プレジャー企画 代表取締役社長、NPO法人日本ホスピタル・クラウン協会 理事長、愛知教育大学 非常勤講師、WCA(世界道化師協会)事務局長を務める彼はクラウン・道化を演じて30年になる。
サーカスや遊園地だけでなく、被災地や病院、戦地でもパフォーマンスをやっている。2021年、世界で最も活躍した道化師として「クラウン・オブ・ザ・イヤー(世界道化師協会)」を受賞し、2023年には道化師に贈られる世界最高賞「レガシー・オブ・ラフター(世界道化師協会)」を受賞し「笑いの殿堂入り」を果たした。
初めてKちゃんに会ったのは、2009年だった・・・。久米信行さんの出版パーティーで俺の師匠だったエッセイストの太田空真さんが、彼と名刺交換をした際、「えっ、あなたは、あの有名なホスピタルクラウンですか?隊長、知らないの?」と驚きの表情を見せたのだ。
すぐに自著本、2006年に出版した「感動を売る!」と2008年に出版した「感動が共感に変わる!」の2冊を送ると、折り返し2007年に出版され、後にドラマ化された「ホスピタルクラウン」と2008年に出版した「道化師流サービスの力」の2冊を送ってきた。その後、隊員で友人のマサヤ(小林正也)が旅行業界の盟友、高萩徳宗さんとKちゃんと繋げてくれたことで、彼と何度か再会できた。2020年に、最新刊「ようこそドラマチックジャーニーへ」を贈ると、Facebookで紹介してくれた。今度は俺がリスペクトする彼の活動を紹介したい。
小学4年生の時、少年野球チームでレギュラーになれた。一番最初に祖父に買ってもらったのがキャッチャーミットだったからだ。
「人と違ってカッチョいいグローブ、いいな」と思ったらしい。誰もがやりたがらないキャッチャーをやってレギュラーになれた経験は、まさに「ブルーオーシャン戦略」だ。今の彼の片鱗が見えたエピソードだった。
野球に飽きてしまったKちゃんは、中学生になると陸上部に入部した。ラクそうだと判断して選んだ競技が棒高跳びだった。その当時から身長の高かった彼は日本一の記録を残した。しかし本番に弱かったKちゃんは納得のいく結果が出せなかった。
「勉強しなさい!東大にいきなさい!」という親の言葉とは裏腹に、スポーツの名門校、中京大学附属中京高等学校に進学する。一番の成績を残せなかった彼は、「このまま終わるわけにはいかなかった」のだと思う。いつも戦う相手は昨日の自分。中学生の自分に雪辱を果たし彼は優勝した。
しかし「スポーツでは食っていけない」と冷静に判断し、筑波大学体育学部に進学。いつも図書館にいるような学生生活を過ごした。
「棒高跳びでオリンピックに行けるレベルではない」とモチベーションが下がった時、自分にどう投資していくのか、自分をどう高めていくかを考え、4年生になるまで月曜から土曜まで全ての授業を取り勉学に打ち込んだ。自分の知らなかったことがわかるのが面白くて、心の底から「勉強したい」と思ったからだ。
大学4年生になると多くの学生がスポーツ指導員や教員になっていく中で選んだ就職先は名鉄(名古屋鉄道株式会社)。教員一家だったが故に自分が教員になるイメージができなかったという。「いったん外の世界を見てみたい!」と名鉄を選択し、車掌、駅員、遊園地や博物館の企画をしていく。駅員、車掌、駅長を助け、その代理をする駅員・助役を丸2年の研修期間を経て関連会社に出向し6年間勤務した。定刻通りを優先し、毎日決められたことをやっていくのに息苦しさを感じ、性に合わなかった。
「自分はつまらない人間だ」というコンプレックスを抱えていた彼は一番苦手なものを克服、挑戦したいとクラウン養成講座を受講した。そして、アメリカの名門、ウィスコンシン大学のサマーキャンプに参加し会社を辞める決断をした。「子どもの笑顔」とか「人を楽しませること」より、食うために「クラウン」という職業を選んだのだ。「クラウンが好き、パフォーマンスが好きじゃなかったから、ここまで来れた」と明言した。
名鉄退社後、すぐにクラウンのためのスクールを立ち上げ、仲間づくりを始めた。大手クライアントが付いて法人化し、数十人のクラウンを派遣できる体制を整えた。メンバーが増えてニーズに応えられるようになった時、「ホスピタルクラウン」の活動をスタート。日本になかったホスピタルクラウンを「やりたい!」というより「我々しかできない」と思ったからだ。知識・スキル・経験・時間・お金・組織・信用、必要なことが全て「チーム」として揃っていた。彼らの地道な活動は、新聞・雑誌・TVで数多く取り上げられるようになった。
名古屋の病院から始まって15年、今150名の仲間と北海道から沖縄まで全国96病院まで活動の場を広げた。子どもたちが主役でクラウンは常に脇役。「笑顔を届ける」という表現より「笑顔を引き出すこと」がピッタリくる。活動のキモは、子どもたちが、より子どもらしくあるように。独自のノウハウを持って仕事に取り組んでいるが、「やり方」よりも「あり方」に彼らチームのプロ意識を感じた。
2011年3月11日、東日本大震災が起きて3月末から東京八重洲口から高速バスに乗って、避難所「ビッグパレットふくしま」でパフォーマンスを始めた。「彼らが興味を持ってくれるまで待つ」というアプローチにも説得力があった。4月末には被災地に入ってパフォーマンスをして10年。その長きにわたる活動が「被災地には色がない」という言葉に凝縮されていた。大漁旗のようなカラフルな明るいテント自体が被災した方たちへの勇気づけに繋がり、テントで「小さなサーカス」をやり続けたのだ。このvoicyラジオを収録した3月時点では、能登半島地震による被災者支援も予定していた。
海外では2004年からロシア・サンクトペテルブルクの病院で活動を始め、2007年にウクライナを支援している団体から呼ばれ、2008年から6年間、毎年通った。ベラルーシ、ロシア、ウクライナの小児病棟の笑顔展(写真展)を開催した。2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻から1年後、ポーランドから陸路でウクライナに入り、病院でパフォーマンスをした。「人道支援としては、初めて日本人がやってきた。遠い島国の人が自分たちの事を思ってくれている」と喜ばれた。「自分はクラウンなのでクラウンしかできない」とサラッというが、なかなかできることではない。彼は、できることを全力でやり切った。彼らの行動力には脱帽だ。
コロナ禍で活動が止まり、存在意義を問われたが、1/10しか伝わらなくてもオンラインのパフォーマンスに切り替えて3年凌いで、今少しずつ仕事の依頼も戻ってきている。コロナ禍にあっても、「今の自分には何ができるのか」自問自答し、遊園地やサーカスなどエンターテインメントをやるクラウンと病院で活動するホスピタルクラウンと分けて後継者を育成してきた。
現在の96病院、150名の仲間の活動を、今後は世界でひとり一人の命と向き合い200病院、300名の仲間で活動することを目指している。遊園地、サーカス、ショッピングモールでの活動が病院での活動資金になる好循環をつくりだしているのだ。
今回のラジオを聴いて、彼らの「生きる力を育てる尊い活動」を知ってもらい、彼と、その団体を支援・応援する仲間が増えると嬉しい。
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