【眠らない猫と夜の魚】第11話
「落下と移動」③
翌日、亜樹といっしょに、投身自殺があったと思われる三島ビルにやってきた。
現地には3階建ての長細い雑居ビルが2つ並んでいて、三島ビルはそのひとつだった。どちらも薄汚れた外壁にひびが馴染んだ、年季を感じさせる佇まいだ。
「飛び降りがあったとして、どこに落ちたんだろ」
「ビルとビルの隙間かな」
隣のビルとの隙間に、1メートルくらいの狭い空間がある。隙間を覗くと、隙間に面したビルの壁は、明かり取りの小さな窓しかなかった。
「目撃譚が音だけなのは、見つかりにくい場所だったからなのかも」
「飛び降りをする幽霊はいたけど、誰にも見られてなかったってこと? その代わり、音だけが聞かれていた、と」
亜樹は頷き、躊躇せずにビルとビルの間に足を踏み入れる。続けて入ってみたが、狭くて暗い以外、特筆することはなかった。足元に花が供えられていたりもしない。まあ、自殺があったとしても、30年前だし。
隙間から出ようと思って振り返ると、細長く切り取られた入り口から、向かいの民家の屋根瓦の上に、ぴょんと飛び出たビルの頭が見えた。
「あ。あれ、ときわビルだ」
「ときわビルが見える?」
「うん、屋根瓦の上に3階と4階の部分が突き出て見える」
「なるほどね。じゃあときわビルに行ってみよう」
亜樹に促されてときわビルに移動した。
ときわビルは上から見るとL字型をしていて、建物に囲まれた部分は中庭になっている。庭と言っても、束ねられた金属パイプやブロックや石ころなんかが雑多に置かれていて、足の踏み場もない。資材置き場として使われているようだ。よく見ると、資材の陰に猫地蔵が一体置かれているのが見えた。こんなところにもあるのか。
「目撃されたのってどこだろ」
「窓が多いのは中庭に面した部分だね」
いちおうたばこ屋のばあちゃんに断ってから中庭に足を踏み入れた。隣のビルの側面がすぐ横まで迫っていて視界はよくない。亜樹は中庭を歩き回りながら空の方を見上げている。
私は地面を調べてみたけど、何も見つからなかった。まあ、ここは噂だけで実際に飛び降り自殺が起きたわけじゃないから、それも当然だけど。
名前を呼ばれて振り返ると、亜樹は足を止めて隣のビルの方を見上げていた。
「三島ビルの話が元になって、他の場所に話だけが移動したのかもって言ってたよね。でもそうじゃないかもしれない」
「そうじゃない?」
「三島ビルに幽霊の目撃者がいない以上、三島ビルの幽霊の話が広がったっていうのは考えにくい。だとしたら移動してるのは噂じゃなくて……」
亜樹はそこで言葉を止めると、立っていた場所を横にずれた。
「幽霊自体が移動したのかも」
「えっ?」
「ここに立ってみて」
亜樹の立っていた場所に立つと、建物と建物の細い隙間から細長いマンションが見えた。
「あれ、ヴィラ・みたまだ」
「三島ビルで実際に飛び降りがあって、幽霊が飛び降りを繰り返してたって仮説するとだけど、その幽霊が三島ビルからときわビルに、それからヴィラ・みたまに移動したんじゃないかな」
「それは……どうして?」
「高い建物を見つけて、移動したんだと思う」
「え? ……ああ」
少し遅れて、亜樹の言わんとすることを理解した。
自殺者の霊が、同じ場所で自殺を繰り返す。
この手の怪談はよくある。
死後もなお、飛び降りを繰り返す幽霊。
その怪談の根底にあるのは、死んでも苦しみが終わらなかったら、死が救いではなかったとしたら、という恐怖の感情だ。
でもそれが、怪談だけの話ではなかったとしたら。実際に死んでなお、苦しみの続きがあったとしたら。果てなく続く苦しみの中で、より高い、自殺に適したビルが目に入ったとしたら。
「それぞれのビルの落成年を調べてみないとわからないけど、三島ビルで飛び降りを繰り返してた幽霊が、ときわビルができた後にときわビルに移動して、ヴィラ・みたまができた後にヴィラ・みたまに移動した……って流れだと思う。もちろん、幽霊の実在を肯定した場合の話だけど」
「……いま見えてる中から、一番高い建物に向かったってこと?」
「たぶん、だけどね」
再び自殺するために。
再び落下するために。
いまいる場所から見えている、より高い建物へ。
より完全な救いを、完全な死を求めて。
死に続きがあるなんて、怪談のうえでは気軽に語っていることだけど、実際に死に囚われて、長い時間を死に場所を探してさまよう幽霊の姿を想像すると、ゾッとするよりも先に、救いがなさすぎて寂しく思えた。
「……どれくらいの頻度で移動するんだろうね」
「さあ。そもそもみんな移動するものなのかわからないね。飛び降りという形態独自のものかもしれないし、その中でも特殊なケースなのかもしれない。まあ、これだってひとつの怪異を追っただけの、ただの仮説に過ぎないけど」
亜樹の言う通りだ。仮説を重ねないと見えてこないものがある。何かを論じるには、まだまだサンプルが少ないのだ。
最後に、この仮説の終着点であるヴィラ・みたまに向かった。女の子が幽霊を目撃したベランダの下には、アスファルトで舗装された真新しい駐車場があった。吹いてきた海風に顔を上げると、目の前にパノラマでみたま湾が広がっていた。
その端っこに、全面ガラス張りのビルが、五月の光を受けてクリスタルのように光っていた。
*
「移動ねぇ……そんなんあるんだ」
椅子に沈み込んだ水鳥が、空を見ながらつぶやく。その向こうの小夜は、どことなく浮かない表情で、手に持った珈琲の表面を見つめている。死に場所を探してさまよう、幽霊の人生を想像しているのかもしれない。
土曜日の海岸は晴れ渡っていて、あちこちに建てられたテントから焚き火やらバーベキューの匂いが漂ってくる。今日はそこそこ波があるせいで、サーファーの姿も多く海も賑やかだった。顛末を報告するにはうってつけな、平和で穏やかな休日だ。
「まあ、単なる仮説ではあるんだけど」
「でも、その仮説だとしっくり来るよね」
「私、タワマンとか住みたくなくなったわ……」
小夜がげんなりして言う。
「星城ビル、住みたいって言ってなかったっけ」
「そんな話聞いたあとで住みたいわけないでしょ」
「小夜、幽霊とか信じないじゃん」
「幽霊を想像する余地があるのが嫌なの」
3人揃って星城ビルに目を向ける。星城ビルは太陽の光を受けて、その存在を誇示するように輝いていた。完成すればこの付近では一番高くなる。ここみたま市だけでなく、隣のまほろば市のどこからでも目に入るくらいに。
女の子の話では、幽霊は海の方を向いて落ちていると言っていた。だとしたら、もう星城ビルを見つけたのかもしれない。
あそこなら、今度こそ、そんな思いを抱えて移動を始めているのだろうか。もしかしたら他にも、確実な死を求めて、星城ビルを目指して移動している幽霊がいるのかもしれない。
夜の闇に紛れて、ゆらゆらと。
無言でビルを目指す半透明の幽霊たち。その目には、星城ビルは救いのように映っているのか。
そんな想像をしながら、白く輝くビルに目を凝らしたけど、もちろん、落下する人影なんて見えなかった。
目の前を、赤いワンピースの女が歩いている。
月明かりに照らされた海岸沿いの道を、うつむいたままで、とぼとぼ、ゆらゆらと。風が吹けば押し戻されそうな儚いその歩みを、ガードレールに腰掛けたまま、見るとはなしに目で追いかける。
女を囲むように、数匹の魚が遠巻きに泳いでいた。そのうちの一匹が、歩みの遅さにしびれを切らしたように離れていく。
海岸線の果てに墓標のようにそびえる黒いシルエット。おそらくは、そこを目指しているのだろう。
高い建物がないこの街でも、稀にこんな移動が起きる。そう言えばずいぶん昔にもあった。あれは前の役目のときだっただろうか。同じ女だったような気もするが、思い出せなかった。
女が立ち止まる。
自らの血で汚れた足先を見つめたまま、その場でゆっくりと、船を漕ぐように前後に揺れている。
何かを見つけたわけではない。どうして歩いているのかわからなくなっただけだ。思考はもう無いに等しい。わずかに残ったその断片も、やがては夜の冷たい空気の中に消えてしまう。そうなってようやく、女自身も消えることができる。
おそらく、あと数年で。
普通なら、もう少し早く消えることができるはずだ。でもこの土地は、他の場所よりも消えるまでに時間がかかる。
だからもうしばらく、女は落下を繰り返すだろう。
それが幸せなことかわからない。
落下を望んだのが、女自身だったとしても。
「歩かなくても、いいよ」
聞こえるはずもない言葉を、戯れに投げた。
女はしばらくの間、答えに迷うようにその場で揺れていたが、やがて単調に繰り返される波音に背中を押されるように、一歩、また一歩と、夜の淡い闇の中を歩いていった。
(第12話に続く)