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【芝居】の【描写】、その【効能】(第2回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、ここのところ“広義の【芝居】”、つまり私が好んでよく用いる【描写】について、【我流】なりに【考察】を巡らせております。

 私の【認識】するところ、“広義の【芝居】”の【役割】は、「全部【理解】して欲しい!」という【心理】から生じる【問題点】、この数々から【作品】を守る――というものです。

 その【問題点】の少なくとも一つは、私の【認識】するところ『【作者自身】が【作品】を“心に響かない【説教】”に仕立て、さらには【作者】の【姿勢】についても「口(【言葉】)だけ【達者】で、【奥深さ】を持たない」と見せてしまいかねない』というもの。

 ではなぜ、“広義の【芝居】”でこの【問題点】から【作品】を守ることが【可能】になるのか。
 今回はその点についてお話しすることにしましょう。

 ◇

○心に響かない【表現】、響く【表現】

 ここに示した“心に響かない【説教】”とは逆のやり方も、もちろん【存在】します。概して“心に響く【良質な物語】”が、この“逆のやり方”に相当しそうですね。

 何かと申せば、【良質な物語】には『【言いたいこと】に【優先順位】を振り、【最重要のテーマ】を伝えることに力を集中する【作者】の【姿勢】』が覗いている――と、私には感じられるわけです。そのやり方は『【間接表現】を主体として【表現】を構築し、【言いたいこと】のうち【優先順位】の低いものは、“【理解】されること”にこだわらない』というところでしょうか。

 あくまでも『【言いたいこと】の【核心】を【物語】として【印象付けること】』に集中している、というのが私の【認識】ですが、実は“広義の【芝居】”もまた根を同じくしています。

 何かと申せば、『【芝居】は基本的に【言いたいこと】を【直接表現】で示さない』のです。
 例えば【説明科白】を“【未熟】な【表現】”と見なすように、【芝居】ではよく【言いたいこと】を“【自然】で【具体例】な【現象】”やその連なりで示し続ける【間接表現】が好まれます。

 私なりに言い方を変えると、【芝居】は【傾向】としては『【言いたいこと】を【直接表現】に頼らず、【身体言語(Body Language)】や、もっと言えば【現象】へ【エンコード(暗号化)】したもの』と捉えることができる――というところですね。
 ただしこの【エンコード(暗号化)】は【不可逆圧縮】に相当します。つまりは『【言いたいこと】一つ一つを【完全】に【復元】することは、【実質的】に【期待】できない』わけです。その代わり、『【圧縮率】を上げて、【膨大】な【情報量】を込めることが【可能】になる』という【利点】が得られることになります。

 もちろんこの【情報量】、【相応】の【役割】を果たします。

 一つには、“【芝居】に込められた【膨大】な【情報量】”の大部分は、【直接】と【間接】とに関わらず『【言いたいこと】をあるいは【表現】し、あるいは【補強】する【役割】を果たす』ものです。さらには残りの【情報量】で『【関連】する【表現】で【言いたいこと】を【補強】する【役割】も果たす』ものでもあります。言うなれば『たとえ一部でも気付かれれば、【言いたいこと】(しかも複数)の【補強材料】として積み上がる【表現】』というところでしょうか。

 また一つには、これは『【芝居】の【背景】に【膨大】な【情報量】がある、という【事実】』そのものを示す【役割】を果たします。

 実はこの【情報量】の【存在】というものの【効能】は、『“【深堀り】の余地を持つ【奥深さ】”を【観客】に示す』というだけに留まりません。同時に、“【膨大】な【情報量】を【背景】に持たせる、【手抜き】のない【姿勢】”を示すことにもなるのです。
 すると『口(【言葉】)だけ【達者】で、【奥深さ】のない【姿勢】』とは、綺麗に【正反対】の【姿勢】を示すことになります。もちろん【手っ取り早く】できることではありませんので、“浅はかな【小悪党】”はやりたがりません。すると“【信頼】の【根拠】”が、ここに一つ積み上がることにもなるわけです。
 【作者】の“【手抜き】のない【姿勢】”の数々が、【観客】に対して『口(【言葉】単体)だけではない』ことを【証明】していくわけですね。

 ここに【観客】は【表現】に対して“(【作品内】においては)【事実】と【認識】する【根拠】”の数々を観ることになり、その積み重ねに【説得力】を、もっと申せば“【信頼】としての【説得力】”を感じることになるのでしょう。少なくとも【観客】としての私は、そういう【感覚】を抱きます。

 実際、私が“【良質】な【物語】”と感じる【作品】では、よく採用される【情報】の【構造】があります。
 それが『【表層】には“(【現象】まで含めた)広義の【芝居】”を【配置】』し、『大中小の【テーマ】は【現象】の【原理原則】に絡めて【深層】(=【行間】)に【配置】する』というものです。

 さてここで、【簡略】を承知で【表現】するなら。
 “広義の【芝居】”とは、『【表現意図】を“【動き】という【間接表現】”に【翻訳】したもの』です。ここでいう【動き】とは【身体言語(Body Language)】を含みますが、もっと広げて“【表層】の【現象】”とも【認識】できるものです。

 要は『【芝居】は“【言いたいこと】一つ一つに【理解】を求めること”ではない』という【覚悟】が、まずあるわけです。
 そう【覚悟】した上で、『【芝居】は【表現意図】を【観客】へより深く刺すために、また【膨大】な【情報量】が醸す【奥深さ】自体を【観客】へ伝えるために、“敢えて【直接表現】を【迂回】する【表現手法】”』という【事実】が観えてきます。

 【直接表現】を【迂回】するからには、“広義の【芝居】”とはもちろん“【作者】の【忍耐】なくして用いることはできない【表現手法】”ではあります。さらには、『深い【表現】ほど、“伝わらない【観客】”には伝わりにくい』という【事実】も【作者】の【忍耐】を【要求】します。
 ですが、むしろそれだからこそ、“広義の【芝居】”は『“伝わる【観客】には、より深く刺さる”という【少数精鋭】向けの【表現手法】』でもあることは【留意】に値する――と私は考えております。

 言い換えれば、“広義の【芝居】”とは『“深い【表現】を求めない【観客】”には、“見過ごしていいもの”と映る【情報】を多く(ただし【行間】に)含む【表現】』、つまりは『【行間】を活かすのに好適な【表現】』でもあるわけですね。“見過ごしていいところ”に“解る人は解る【意味付け】”を込めておけば、【説教臭さ】を【回避】しながら“深い【表現】”を仕込める道理です。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 「全部【理解】して欲しい!」という【心理】をひとまず【封印】してみれば、“より【優先】して【観客】へ伝えたい【情報】”が、言い換えるなら“【情報】の【優先順位】”が、【表現】には【存在】する――という【事実】に眼を向けようもあるものです。

 ならば『“【優先順位】の低い【情報】”は、“伝わらない【観客】には伝わらなくてもいい【表現】”で示す』と考えることもできるというもの。であれば『【行間】という【概念】を活かす』という【方法論】が、【選択肢】に上がってきます。

 と割り切ってみると、今度は【表現】をある種の【基準】をもって大別することができるようになっていきます。

 次回は、この【基準】についてお話ししてみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(次の記事)


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