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【芝居】の【描写】、その【効能】(第14回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、ここのところ“広義の【芝居】”、つまり私が好んでよく用いる【描写】について、【我流】なりに【考察】を巡らせております。

 私の【認識】するところ、“広義の【芝居】”の【役割】は、「全部【理解】して欲しい!」という【心理】から生じる【問題点】、この数々から【作品】を守る――というものです。

 その【問題点】の少なくとも一つは、『【作者自身】が【作品】を“心に響かない【説教】”に仕立て、さらには【作者】の【姿勢】についても「口(【言葉】)だけ【達者】で、【奥深さ】を持たない」と見せてしまいかねない』というもの。

 ではなぜ、“広義の【芝居】”でこの【問題点】から【作品】を守ることが【可能】になるのか。

 実は「全部【理解】して欲しい!」と言わなければ、『“【優先順位】の低い【情報】”は、“伝わらない【観客】には伝わらなくてもいい【表現】”で示す』と考えることもできるというもの。であればこれは、【奥深さ】を表す上で『口(【言葉】)だけで終わらない』、つまり【間接表現】を扱えることになります。

 そして私なりに申せば、“広義の【芝居】”とは、『【表現意図】を“【動き】という【間接表現】”に【翻訳】したもの』です。

 こう割り切ってみると、今度は【表現】をある種の【基準】をもって大別することができるようになっていきます。
 即ち、『【表現手法】として【静】と【動】、どちらを重んじるか』。

 例えば「全部【理解】して欲しい!」ための【直接表現】となれば、それは【作者】の気が済むまで、その一瞬の【状態】を【記述】することになります。そこに【時間】の【流れ】が織り込まれるわけではなく、ゆえにこれを“【静】の【表現手法】”と、私は【認識】するわけです。

 では、私が“【動】の【表現手法】”と位置付ける【芝居】はと申せば。

 “【芝居】という【動き】”には“【登場人物】や【物体】の【主観】や【行動原理】(複数)”が【間接表現】として埋め込まれています。その【状態】を例えるなら“【不可逆圧縮】の【エンコード(暗号化)】”ということが観えてくるわけです。

 もちろん【不可逆圧縮】ですから、【観客】全員が【デコード(復元)】できるわけではありません。ただ、『そこに込められた【意味付け】が(複数)【存在】する』という【間接表現】としては伝わりやすくなります。これは【現実】に【存在】する【奥深さ】にも通ずるものですね。

 もちろん、【容易】な【表現】とは申しません。

 “広義の【芝居】”は【登場人物】の【人格】、ひいてはその【背景】にある【作品世界】全体の【原理原則】を踏まえて、それを【エンコード(暗号化)】した上に成り立っているわけですから。

 ただし、だからこそ『“【表現】に際する【容易さ】を求める【作者】”の【作品】からは【差別化】しやすい』ことになりますね。

 この【位置付け】とその【難度】を踏まえた上で。

 “【動】の【表現手法】”として“広義の【芝居】”を捉えるに、【我流】の【定義】は、“【シーン(状況)】の【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”です。これは【シーン】の【存在意義】を踏まえれば、自ずと【優先順位】は定まります。
 そして“【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”であるからには、“【時間経過】の【表現】”は【不可欠】ということになりますね。

 ここで『“【動】の【表現手法】”としては、“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】する【必要】に迫られる』ということになりますが。
 これを“【静】の【表現手法】”、つまりは“【表層】の【直接表現】”としようとすると、『【動き全体】を一つの【塊】として括れない』ことになります。
 となると、【動き】の全体と細部一つ一つ、それぞれに込められた【意図】をはじめ、そこにある【情報量】は【膨大】になります。しかも全てを【表層】で【表現】することになるわけです。つまり【表現】として【現実的】ではなくなります。話が全くと言っていいほど進まなくなりますから。

 ここに“【行間】の【表現】”を用いる【必要性】は【確定】、よって【間接表現】としての“広義の【芝居】”は【存在意義】を【確定】するわけです。

 また、“広義の【芝居】”という“【動】の【表現手法】”においては。
 『“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】、【再現】する』からには、【作者】は“【作品世界】の【現象】”に入り込んだかのごとく、つまりは【演者】と同じように【役作り】と【演技】を(【物理的】な【動き】を【再現】する【寸前】まで)【展開】することになるわけです。私が“広義の【芝居】”という【表現】を用いる由縁ですね。

 もちろんここまで【動き】にこだわるのは、私なりに考える【意義】あってのことです。

 ヒトを含む動物の“【本能的】な【特性】”まで【考慮】に入れるなら、【動き】というものは【意識】を惹き付ける上で極めて【有用】です。ならば【描写】の上でも【利用価値】は大きいことになりますね。
 さらにここまでの内容を踏まえるに、ここで取り上げる【動き】は『【心理】や【背景事情】などをも【間接表現】として込めた“広義の【芝居】”』となります。

 “生きている【人間】としての【動き】”をその【心理】や癖と絡めて引き出したならば、【観客】の【意識】には『単なる【記号】ではなく、生きた【人間】の姿とその【動き】』として映りやすくなるのでは――という、これは私の【考え方】です。

 ただし、注意点があります。

 【科白】も含め、『【動き】でさえあれば何でも“【動】の【表現手法】”として【上質】たり得る』などということはありません。
 『【手っ取り早く】でっち上げた【表現】から、込めてもいない【間接表現】が匂い立つ』などということは【期待】しようがないのです。

 ここで私として【予想】するのは、『じゃあ【間接表現】の【利点】だけ手に入れよう』という【発想】ですが。もちろん私はお勧めしません。
 【間接表現】の【利点】だけ手に入れて、【主力】は【手っ取り早く】扱える【直接表現】にしよう――としてしまうと、今度はそもそも【間接表現】の【利点】そのものを損ねかねないからです。

 例えば【実例】として、【広告】に着眼してみれば。
 【実際】のところ、『【上質さ】を【表現】しようとする【広告】ほど、【直接表現】を【排除】して【間接表現】で【奥深さ】を【表現】しようとする』もので。
 これは『【自画自賛】や【手前味噌】というものが、いかに【薄っぺらく】映るか』を考えてみれば腑に落ちるというもの。

 ここで【間接表現】、中でも“広義の【芝居】”は、【底知れなさ】や【奥深さ】を【表現】する上で【好相性】で、かつ【面白く】魅せる【演出】に対しても【好相性】――と私は捉えているわけですが。

 前回はこの【演出】と【芝居】、両者の【相性】についてお話ししてみました。

 私の【認識】するところ、【媒体】を問わず、【演出】として強いのは『“【膨大】な【背景情報】”の中にある、【焦点】というべきものを絞り込んで浮かび上がらせていく』という【流れ】です。これを“【現実】と同じ観え方”、即ち【現象】として描けば、【現実】に準ずる【存在感】や【説得力】を得られることになります。

 ここで【流れ】とは“大中小の【物語】”の向くところであり、また“【動】の【表現手法】”即ち“広義の【芝居】”の向くところでもあります。また【現象】という形も、“広義の【芝居】”に向くものですね。
 さらに『【焦点】を絞り込んでいく』には、当初は【焦点】より広い【背景情報】を【提示】する【必要】に迫られるわけで。ここにも【間接表現】として“広義の【芝居】”が【有用】ということになります。

 では、ここからどう絞り込んでいくのか。
 この点について、今回はお話ししてみましょう。

 ◇

○【演出】と【芝居】、その【相性】(その2)

 ここで“広義の【芝居】”を【構成】するには、『“【焦点】へ向かって【収束】させていく”【流れ】』を【表現】することになるわけです。
 まず【初期状態】としては、【間接表現】であることが【重要】ということになりますね。これは『【最初】に【直接表現】を【配置】して【本質的意味】(=【焦点】)を示してしまっては、【収束】を【描くことができない】』ためです。また同時に『【間接表現】は【意味】を【特定】しないがゆえにこそ、【多様】な【意味付け】を【多重並列】で【内包】し得る』という【背景】も“【収束】の【前準備】”として【好都合】に働きます。
 
 ここから、【時間経過】に従って【間接表現】を重ねていくと、さてどうでしょう。こうすると、【時間経過】とともに“【間接表現】の【意味付け】が重なる【内容】”が増えていくことになります。この【過程】で、『【観客】および【登場人物】、つまり“【主観】の主”が各々の【主観】に基づいて“【意味】を【焦点】へ向かって絞り込んでいく”【現象】』が発生します。これが【時間経過】とともに【進行】するわけですから、【観客】からも【登場人物】からも“【意味】を【焦点】へ向かって【収束】させていく【流れ】”が観えてくることになりますね。

 もちろんここで「【意味付け】を【言いたいこと】に対して【逐一】【厳密】に【重ねたい】!」とすると、【厄介】というものです。
 【厳密】を期そうとすればするほど、“【不正確】な【理解】”を許すことはできません。従って【断言】に近い、“【強い表現】”に走りがちです。この行き着く先が【直接表現】ですね。これまでお話ししてきた通り、そこに【流れ】を生むことは【難しく】なります。一つ一つの【挙動】やその【表現】を解りにくくしてしまったり、あるいは【説明】を大量に付け加えて【冗長】にしてしまったりすることになりますから。

 大切なのは、『その場では“【不正確】な【理解】”を受け入れること』。【具体的】には、『“【不正確】な【理解】”を【一時的】に受け入れ、“【解釈】の幅を許す【弱い表現】”を【重ね合わせ】ることに徹する』ということです。

 実はここで、【表現】一つ一つが“【弱い表現】”であることが【重要】な【意味】を持ちます。
 【弱い表現】を用いる場合、【観客】の“【不正確】な【理解】”もまた弱いままなのです。つまり『ぼやけて【認識】されている』わけですね。
 ならば、これを【重ね合わせ】ていくことで、『【弱い表現】のぼやけた【意味合い】の数々に“【重ね合わせ】られる【部分】”が【存在】すること』が【認識】されやすくなります。“【不正確】な【理解】”が弱いからこそ、【修正】のハードルも低い、というわけです。
 ここからさらに【意味合い】を【重ね合わせ】ていけば『“【重ね合わせ】られる【部分】”こそが【焦点】』という【事実】が【観客】に【認識】されやすくなります。さらに続けて【意味合い】を【重ね合わせ】ていくことで、今度は『【焦点】が絞り込まれていく【過程】』までもが【観客】に【認識】されやすくなっていくわけです。

 ならば【動き】を、【客観】に徹して【表現】するのも一手、ということになります。下手に【主観】を加えず【強調】しない【弱い表現】である分だけ、“【不正確】な【理解】”が【観客】に生じても弱いままですから。

 こうやって、『“【動き】の【積み重ね】”で“【意味合い】の【重ね合わせ】”を積み上げ続け、その【重ね合わせ】で“【焦点】を絞り込んでいく”という【表現】』が【重要】な【意味】を持つことになります。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 【観客】の【心理】に生じる“【不正確】な【理解】”を、【作者】として【一時的】に受け入れたなら。この時、“【解釈】の幅を許す【弱い表現】”が【実現】できることになります。

 この場合、【観客】には【表現意図】を『ぼやけて【認識】されている』わけですが。しかし『“【焦点】へ向かって【収束】させていく”【流れ】』を【演出】する上では、“【収束】の【前準備】”としてむしろ【好都合】です。さらに【弱い表現】では【観客】の“【不正確】な【理解】”もまた弱いままです。つまり修正のハードルも低いわけで、こうした【弱い表現】を【重ね合わせ】ていくことで、今度は『【焦点】が絞り込まれていく【過程】』までもが【観客】に【認識】されやすくなるというもの。

 となれば【作者】が【客観】に徹するのは、【弱い表現】としても【現象】としても【有利】、その【重ね合わせ】で“【焦点】を絞り込んでいく”という【物語】としても【有利】、ということになりますね。

 次回はここまでの【考察】から、【芝居】の【本質】をまとめてみましょう。

 お楽しみいただけましたら、これに勝る悦びはありません。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(次の記事)


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