【予告編】に関する【一考察】(第3回)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、【あらすじ】欄へ書き込む【内容】については大いに悩んだ【経験】を持っております。
何せ【額面通り】に捉えれば、【あらすじ】は公募原稿で求められる【梗概】と【同義】、つまり【作品全体】の【要約】です。私としては「え、全部【ネタバレ】って、それでいいの?」と【躊躇】しますもので。
では、【あらすじ】欄の【内容】として望ましいものは――というところに【興味】が赴くと考えますが。
【額面通り】の【梗概】や【あらすじ】は、公募の【選考委員】でもない【観客全員】が求めるもの〝ではありません〟。
『【観賞】前にいきなり【核心】までの【ネタバレ】をぶちまけられた』として、喜ばない【観客】も相当数は【存在】するわけです。
また【Web小説】、しかも【連載】という【公開形態】も考え合わせれば、そもそも【額面通り】の【梗概】や【あらすじ】、つまり【核心】まで含め【ネタバレ】が【選考委員】でもない【観客全員】を喜ばせることにはなりません。
と、ここまでを【確認】した上で。
前回は【あらすじ】欄の【可能性】欄について【考察】してみました。
例として【文庫本】の【アオリ文】に【着眼】してみると、この時点で『【作品】には【本編以外】における【楽しみ】も【存在】している』ということが判ります。この『【本編以外】における【楽しみ】』を、私は【周辺体験】、ただしその中で【プラス】の【事例】と位置付けております。
今回はこの【周辺体験】について、お話ししてみましょう。
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○【考察】:【期待】という【周辺体験】
ここで、私は〝【作品】に対する【期待】〟というものを、〝【作品】の【周辺体験】〟の一つ、という形で【ご紹介】しました。
その際に【例】として【ご提示】した【アオリ文】は、もちろん【観客】にとって【作品本体】ではありません。ではありませんが、『出来の良い【アオリ文】は、「【作品本体】に対する【期待】を高める」という【意味】で、【観客】にとって〝【作品】と接する【周辺体験】〟を豊かにする【役割】を果たしている』ということも間違いないでしょう。
『まだ観ぬ【作品本体】に対する【期待】に胸躍らせる』というのは、少なくとも『【観客】にとって【人生】を豊かにする【体験】』ではあるわけです。
さて、私が【体験】にこだわるのには【理由】があります。
『人は、【体験】を通して【人生】の【一部】として取り込んだものにのみ、【価値】を感じることができるから』です。
よくよく考えてみて下さい。〝【存在】を知りもしないもの〟があったとして、人はそれに【価値】を感じることができるでしょうか。
【我流】で考えますところ、答えは【否】です。
【例】として、〝【致命的】に【流行】に疎い【人物】〟を挙げましょう。【周囲】の人々がどれほど【流行】に【熱狂】していようと、【致命的】なまでに疎くては、その【流行】の【存在】すらも【認識】していなかったりします。そういう人にとって、【流行】には【価値】などかけらも【存在】していないのです。少なくともその【時点】では、『当の【流行】の【存在】すら知らない』のですから。
ただ、こういう人も遅れて【流行】にハマることだってあるわけです。つまり知れば【流行】の【価値】を【認識】できるわけですが、『そもそも知らなければ、その人にとって【価値】は生まれない』ということになりますね。
これを【整理】すると、『その人が【流行】の【存在】に触れ、【体験】して(【周辺体験】を含む)、【人生】の【一部】として取り込んで、そこで初めて【価値】を認めることができる』というわけです。
であれば。
【作品本体】に限らずとも、『【作品本体】の【存在】を知る【体験】』それ自体もまた【体験】であり、〟【作品】への【期待】に胸躍らせる【体験】〟の【入り口】でもあるわけです。しかもこれら【全て】が、〝【一連】の【体験】として【価値】になり得る【評価対象】〟でもあるわけです。何せ『【観客】の【人生】に取り込まれた【体験】のみが、【価値】として認められ得る』わけですから。
なので【観客】にとっては、『【作品本体】のみならず、その【存在】を知るところから始まり、【観客】同士の【交流】も経て、最後に忘れ去るまでの〝【一連】の【体験】〟が、【価値】としての【評価対象】』と言えることになります。
これら〝【一連】の【体験】〟を、【我流】ではまとめて【総合世界観】、ここから【作品本体】の【観賞体験】を外したものを【周辺体験】と呼んでおります。
以上のような【背景】を踏まえれば、『【作品本体】への【期待】は、【周辺体験】として【価値】の【評価対象】』と私が観ている、その【事実】に【納得】していただける向きもありましょう。
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さて、今回は一旦ここまで。
人は【体験】で、【物事】を【人生】の【一部】として取り込みます。またそこで【価値観】に照らして、初めて【価値】が【認識】されます。
逆に『【物事】の【存在】を知る』という【体験】すらない場合、人は【価値】を感じることはないわけです。
また【作品本編】以外でも、【アオリ文】などの【周辺体験】で【期待】に胸躍らせたなら、その【周辺体験】そのものにも【価値】を感じることはあり得るわけです。
つまり広義で考えれば、『【期待】を煽るものも含め、【周辺体験】は【作品】の【価値】の一部たり得る』というわけですね。
というわけで次回は、【期待】を煽るものについてお話ししてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。
(次の記事)