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【芝居】の【描写】、その【効能】(第9回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、ここのところ“広義の【芝居】”、つまり私が好んでよく用いる【描写】について、【我流】なりに【考察】を巡らせております。

 私の【認識】するところ、“広義の【芝居】”の【役割】は、「全部【理解】して欲しい!」という【心理】から生じる【問題点】、この数々から【作品】を守る――というものです。

 その【問題点】の少なくとも一つは、私の【認識】するところ『【作者自身】が【作品】を“心に響かない【説教】”に仕立て、さらには【作者】の【姿勢】についても「口(【言葉】)だけ【達者】で、【奥深さ】を持たない」と見せてしまいかねない』というもの。

 ではなぜ、“広義の【芝居】”でこの【問題点】から【作品】を守ることが【可能】になるのか――と申せば。

 「全部【理解】して欲しい!」と言わなければ、『“【優先順位】の低い【情報】”は、“伝わらない【観客】には伝わらなくてもいい【表現】”で示す』と考えることもできるというもの。であれば『【行間】という【概念】を活かす』という【方法論】が、【選択肢】に上がってきます。これは【奥深さ】を表す上で【有利】に働く考え方です――【表現】が『口(【言葉】)だけで終わらない』、つまり【間接表現】を備えるからです。

 そして私なりに申せば、“広義の【芝居】”とは、『【表現意図】を“【動き】という【間接表現】”に【翻訳】したもの』です。

 こう割り切ってみると、今度は【表現】をある種の【基準】をもって大別することができるようになっていきます。
 即ち、『【表現手法】として【静】と【動】、どちらを重んじるか』。

 例えば「全部【理解】して欲しい!」ための【直接表現】となれば、それは【作者】の気が済むまで、その一瞬の【状態】を【記述】することになります。そこに【時間】の【流れ】が織り込まれるわけではなく、ゆえに“【静】の【表現手法】”と私は【認識】するわけです。

 では、私が“【動】の【表現手法】”と位置付ける【芝居】はと申せば。

 “【芝居】という【動き】”には“【登場人物】や【物体】の【主観】や【行動原理】(複数)”が埋め込まれていて、その【状態】を例えるなら“【不可逆圧縮】の【エンコード(暗号化)】”ということが観えてくるわけです。

 もちろん【不可逆圧縮】ですから、【観客】全員が【デコード(復元)】できるわけではありません。ただ、『そこに込められた【意味付け】が(複数)【存在】する』という【間接表現】としては伝わりやすくなります。これは【現実】にも【存在】する【奥深さ】にも通ずるものですね。

 もちろん、【容易】な【表現】とは申しません。

 “広義の【芝居】”は【登場人物】の【人格】、ひいてはその【背景】にある【作品世界】全体の【原理原則】を【不可逆圧縮】で【エンコード(暗号化)】した上に成り立っているわけですから。

 ただし、だからこそ『“【表現】に際する【容易さ】を求める【作者】”』の【作品】からは【差別化】しやすいことになりますね。

 この【位置付け】とその【難度】を踏まえた上で。
 “【動】の【表現手法】”として“広義の【芝居】”を捉えるに、【我流】の【定義】は、“【シーン(状況)】の【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”です。これは【シーン】の【存在意義】を踏まえれば、自ずと【優先順位】は定まります。
 そして“【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”であるからには、“【時間経過】の【表現】”は【不可欠】ということになりますね。

 ですが“【静】の【表現手法】”つまり【直接表現】では、『【静止】した【物体】や【状態】を、その【背景】(これも【過去】であって【静】に分類できる)を交えつつ【説明】または【描写】する』わけです。ここに【時間経過】の【概念】は、ないとは申しませんが【希薄】でありましょう。

 これに対して『“【動】の【表現手法】”としては、“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】する【必要】に迫られる』ということになりますが。
 これを“【表層】の【直接表現】”としようにも、『【動き全体】を一つの【塊】として括れない』ことになります。となると、【動き】の全体と細部一つ一つ、それぞれに込められた【意図】をはじめ、そこにある【情報量】は【膨大】になります。しかも全てを【表層】で【表現】することになるわけです。つまり【表現】として【現実的】ではなくなります。話が全くと言っていいほど進まなくなりますから。

 ここに“【行間】の【表現】”を用いる【必要性】は【確定】、よって【間接表現】としての“広義の【芝居】”は【存在意義】を【確定】するわけです。

 前回はこれを受けて、“広義の【芝居】”で【必要】になる【考察】について、お話ししました。

 “【動】の【表現手法】”において『“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】、【再現】する』からには。【作者】は“【作品世界】の【現象】”に入り込んだかのごとく、つまりは【演者】と同じように【役作り】と【演技】を(【物理的】な【動き】の【寸前】まで)【展開】することになるわけです。私が“広義の【芝居】”という【表現】を用いる由縁ですね。

 もちろんここまで【動き】にこだわるのは、私なりに考える【意義】あってのことです。

 今回はこの【意義】について掘り下げてみましょう。

 ◇

○【動き】の【意義】、その重さ(その1)

 さて。
 私がここまで【動き】や【変化】にこだわるのには、もちろん【理由】があります。

 ヒトを含む動物の【認識】は、『【動き】に【敏感】』です。これは恐らく“【生存】の上で【獲物】や【敵】を【認識】する上での【必要性】”からでありましょう。言い換えれば、“【本能的】な【特性】”ということです。【感覚】からの【理解】ではありますが、【我流】ではこれを【利用】します。
 裏を返すと、ヒトを含む動物の【認識】は、『【動き】のない【静止物体】に対しては、“大して【関心】を抱かない”』ということでもあります。

 この【事実】からすると、『【観客】の【意識】を【誘導】する上で、【動き】は“【本能的】な【特性】”に乗じることができる』ということになります。つまり『“【動】の【表現手法】”は、より【自然】に【観客】の【意識】を引き付けやすい』わけです。

 逆に『【静止状態】に【観客】の【意識】を引き付けたい』のならば、相応の【工夫】が【必要】になる道理です。

 【具体的】には、例えば『“【観客】の【意識】を引き付けたい【静止状態】”があるなら、その【静止状態】を“【動】と【錯覚】しやすい【状態】”を【演出】する』という手が考えられますね。
 例えば【カメラ・ワーク】。『“【認識】の【焦点】”自体を【移動】させ、【静止状態】の上に【動き】を作り出す』というものです。

 または【演出】として『【静止状態】の【周囲】あるいは【前後関係】を、“【動】で満たす”』という手もあります。
 これは『【周囲】や【前後関係】の【動き】に慣れて“【静止】の【判断基準】”が引きずられ、“【意識】を引き付けたい【静止状態】”が【相対的】に【動】と【錯覚】される”ようにする』というものですね。

 要はこれ、【意識】を引き付ける【対象】はどうあれ『“【動】(という【認識】)の【表現手法】”であることは変わらない』ということです。

 では、以上の【考え方】を“広義の【芝居】”に取り込んでみましょう。
 つまりは、こういうことです。『【芝居】で魅せたい【存在】があるなら、【動き】に絡める』のが【効果的】。

 例えば髪を表すとします。
 髪の色や長さ、質感といった【特徴】の数々を“【登場人物】が動かない【状態】”で【記述】したところで、【観客】の【印象】には大して残らないことが多いものです。
 その【理由】の、少なくとも一つは『そこに【動き】がないから』です。これは動物としての【認識】の【問題】もありますが、さらに『【動き】に代表される【生命感】にも欠けるところから、“単なる【記号】”と映りやすい』という【側面】もありましょう。

 ならば、です。例えば髪を【表現】するのに、『当の【登場人物】が髪をかき上げる【動き】』を絡めれば、さてどうでしょう。そこには“【動く】髪”が【出現】して、動物としての【意識】を引き付けやすくなります。さらには、“生きている【人間】としての【動き】”をその【心理】や癖と絡めて引き出したならば、さてどうでしょう。【観客】の【意識】には『単なる【記号】ではなく、生きた【人間】の一部としての髪』として映りやすくなるのではありますまいか。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 ヒトを含む動物の“【本能的】な【特性】”まで【考慮】に入れるなら、【動き】というものは【意識】を惹き付ける上で極めて【有用】です。ならば【描写】の上でも【利用価値】は大きいことになりますね。
 さらにここまでの内容を踏まえるに、【動き】は“広義の【芝居】”として【間接表現】にも向いていることになります。

 ただ、【動き】を用いるにしても、【科白】に偏重してしまう【傾向】については【要注意】――と私は【認識】しております。
 これについては、また次回にお話ししてみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(次の記事)


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