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【自己満足】と【シラケ性】(第3回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、ここのところ以下のような【心の声】について考えております。

『それって単なる【自己満足】じゃない?』

 この【心の声】、私は【シラケ性】と称しております。要は『何事に対してもノレない、醒めた【心理】』というところ。【自己満足】とともに、【ニュアンス】としては必ずしもいい【印象】と結び付いてはおりませんが。

 ただし【絶対悪】というわけでもありません。さらには【作者】としての【自分】の【心理】に湧き上がってくるものでもあります。

 ならば、ものは使いよう。
 実は【シラケ性】は、【自分自身】を【俯瞰】、【検証】する役に立てることが【可能】です。また【自己満足】は【他者満足】と【両立】させて【Win-Win】に持ち込めばいい話。
 つまり接し方次第、やり方次第というわけですね。

 今回はここから【発展】させて、【具体】へと【考察】を巡らせて参ります。
 よろしくお付き合いのほどを。

 ◇

○【考え方】:【シラケ性】と向き合う

 さて、【シラケ性】と【自己満足】とに向き合う上で。

 【我流】で考えますに、まずは【シラケ性】についての【考え方】をまとめていきます。

 これは【自己満足】と対にして【他者満足】を重んじていくためにも【必要】なもので、そもそも【シラケ性】とは【作者】一人のものではないからです。【他人】の【シラケ性】に怯えるからこそ、【自分】の【シラケ性】は【尖鋭化】もする――と申せば、私の【考え方】にも一定の【説得力】を感じていただけるかと考えます。

 この【シラケ性】と向き合うに、【我流】で【有効】と捉えているものがあります。それが『【シラケ性】に対する【反論】を【用意】する』というもの。ただしもちろん、『【反論】なら何でもいい』などということはありません。

 【シラケ性】に対する【反論】の、その【一例】を挙げてみましょう。
 『でも、【好意的】な【反応】をくれた【観客】も【存在】するよ』という“【他人】の【論理】”が、それに当たります。【客観】に近い“【他人】の【主観】”を【用意】するわけですね。

○【要注意】:“【好評価】を【強奪】する【姿勢】”

 ただし、ここで【要注意】。
 だからといって“【好評価】を【強奪】する【姿勢】”というものは、決して【お勧め】できません。むしろ【逆効果】になりますので。
 【理由】は単純、『【ゴリ押し】で無理矢理【好評価】と言わせた【事実】』は【自分】に【筒抜け】だからです。

 そうすると、どういうことになるか。
 『せっかく【獲得】した【好評価】は、【観客】から【強奪】したものであるがために【信用】に値しない』ということになります。つまり『【強奪】した【好評価】は、【観客】の【本意】ではない、つまり【低評価】の現れ』という【論理】が成立してしまうという。
 これでは『どんなに褒められても、全く【自信】に繋がらない』ことになります。

 ですが実は、これで済むとも限りません。悪くすると“【好評価】を【強奪】した【事実】”から【逃避】しようとして、『“【ゴリ押し】で【観客】から【好評価】を【強奪】しようとする【姿勢】”を、さらに強めていく』ということすらあり得ます。すると『“【好評価】を【強奪】する【姿勢】”が【強化】され続ける【無限ループ】』が成立してしまうことに。となるとこれは、さながら【蟻地獄】のようですらありますね。【自信】は失われる一方、【強奪姿勢】で見切りもつけられる一方の“【負】の【スパイラル】”――というわけです。早い話が、【救い】はどこにもありません。

 この“【好評価】を【強奪】する【姿勢】”は、【顕著】な【特徴】を帯びやすいものです。

 中でも『【作者】が「こう思って!」という【メッセージ】を【作品】の【表層】に込めたくなる【心理】』は、特に解りやすいものでありましょう。【作者】としては『【好評価】を【観客】から【強奪】したい』わけですから、【方向性】としては『“【観客】の【心理】”が【演出意図】に従わない【現象】』をどんどん【許容】できなくなっていく――というわけです。

 ところがこの【姿勢】、極めて【皮肉】な【現象】を導くものです。“【観客】の【心理】”に「『こう思え』だって? やなこった。むしろ、わざとらしくて【シラケる】ね」という具合に、『かえって【シラケ性】を【誘発】しかねない』のです。

 よくよく考えてみれば、『そもそも【心理】とは、【自分一人】だけのもの』です。“【思考】の【自由】”と私は呼んでおりますが、これを【聖域】と見なす【観客】も少なからずおいででしょう。
 そこへ赤の【他人】である【作者】が『【好評価】を【強奪】したい』というなら、この【構図】はもう『【作者】が“【観客】の【心理】”を、思い通りに操ろうとする』ことになります。

 これは『【観客】が持つ“【思考】の【自由】”を、【作者】が【侵略】しようとする【構図】』になりますね。

 【聖域】を【侵略】されて喜ぶ人が多い――などとは、少なくとも私は考えません。むしろ【作者】の【立場】からすれば、“【観客】の【心理】”を【尊重】した上で、【演出意図】の通りやすい【Win-Win】の【手法】を用いる方が、【意図】は通りやすいものでしょう。

 これは寓話『北風と太陽』でも示されている【教訓】ですね。【作者】としては【余裕】を見せて「あなたの好きなように思って下さい」と構えている――そんな【イメージ】が、太陽の【姿勢】には近いのではないでしょうか。“【好評価】を【観客】から【強奪】しようとする【姿勢】”は、さながら旅人をコートに執着させてしまう北風のよう――というわけです。

 見方を変えると、『【作者】が【短絡的】に【意図】を【ゴリ押し】するほど、望ましい【結果】は遠ざかる』という【教訓】にもなりそうです。

 ということは“【好評価】を【観客】から【強奪】しようとする【姿勢】”の【逆】、言い換えると“【作者】として【短絡的】に【意図】を【ゴリ押し】する【姿勢】”の【逆】が望ましい――ということになりますが。
 【我流】で【言語化】するなら、これは“【観客】の【心理】に向き合う【姿勢】”ということになります。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 【自分】の【シラケ性】と向き合うに、【反論】を用意するのは大変【有効】です。ただし、【反論】自体は【厳選】するが吉というもの。
 なぜなら、『【反論】のつもりで“【好評価】を【観客】から【強奪】する【姿勢】”を取ると、【逆】に【自分】と【観客】の【シラケ性】を【誘発】する【結果】に陥るから』です。【安易】や【短絡】に流れては【裏目】に出る、これは【見本】のようですね。

 とすると、望ましい【姿勢】はつまりこの【逆】ということになります。
 次回は、これについて掘り下げてみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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