【芝居】の【描写】、その【効能】(第3回)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、ここのところ“広義の【芝居】”、つまり私が好んでよく用いる【描写】について、【我流】なりに【考察】を巡らせております。
私の【認識】するところ、“広義の【芝居】”の【役割】は、「全部【理解】して欲しい!」という【心理】から生じる【問題点】、この数々から【作品】を守る――というものです。
その【問題点】の少なくとも一つは、私の【認識】するところ『【作者自身】が【作品】を“心に響かない【説教】”に仕立て、さらには【作者】の【姿勢】についても「口(【言葉】)だけ【達者】で、【奥深さ】を持たない」と見せてしまいかねない』というもの。
ではなぜ、“広義の【芝居】”でこの【問題点】から【作品】を守ることが【可能】になるのか。
前回はこの点について掘り下げてみました。
「全部【理解】して欲しい!」という【心理】をひとまず【封印】してみれば、“より【優先】して【観客】へ伝えたい【情報】”が、言い換えるなら“【情報】の【優先順位】”が、【表現】には【存在】する――という【事実】に眼を向けようもあるものです。
ならば『“【優先順位】の低い【情報】”は、“伝わらない【観客】には伝わらなくてもいい【表現】”で示す』と考えることもできるというもの。であれば『【行間】という【概念】を活かす』という【方法論】が、【選択肢】に上がってきます。
そして私の考えるところ、“広義の【芝居】”とは、『【表現意図】を“【動き】という【間接表現】”に【翻訳】したもの』です。“【間接表現】ゆえの【表現】の幅”を【利用】すれば、“【行間】に込められる【情報量】”も多くなる――という【認識】ですね。
こう割り切ってみると、今度は【表現】をある種の【基準】をもって大別することができるようになっていきます。
今回は、この【基準】についてお話ししてみましょう。
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○【動】の【表現手法】、【静】の【表現手法】
さて、先ほど私は“広義の【芝居】”を指して『【表現意図】を“【動き】という【間接表現】”へ【翻訳】したもの』と言い表しました。【動き】と称したからには、対照的に【静】と称したい【表現】もあるこわけです。
この場合、『【言いたいこと】(=【表現意図】)を【直接的】に【言語化】したもの』が、“【静】の【表現手法】”と私が【認識】しているものです。
もちろんこれには、私なりの【根拠】があります。
【直接表現】の間は往々にして『【状態】も【状況】も“動かない”ものと【認識】されやすい』というのが、その【根拠】です。またこの場合は“【行間】の【情報】”も多くなることはありません。
もちろん、「いやいや【直接表現】でも【動き】は【描写】できるじゃないか!」という【反論】は、私も【予想】するところです。
ここで使われる【動き】とは、言い換えると『【状況】や【状態】が移り変わった、という【表現】』と【認識】できますが。
これにしても、【直接表現】では『【状況】や【状態】は次の【段階】に【移行】した(ある時点における“【静】の【認識】”から次の“【静】の【認識】”へ【移行】した)』、という“(一連の【状態】を)【静】で捉えた【説明】”であって、さらにはここに『【移行】した【背景事情】はかくかくしかじか』という【説明】が加わることが多いものです。
またこの場合、刻々と移り変わる【状況変化】の【行間】に【意味付け】を込めることは多くありません。なぜなら、往々にしてここも『【直接表現】しなければ【作者】の気が済まないから』です。
さて、以上のように【直接表現】を“【静】の【表現手法】”と捉えた上で、です。
例えばこの“【静】の【表現手法】”で【アクション】を描こうとする、とします。すると、得てして『【登場人物】が【棒立ち】』だったり『【アクション】を【遠目に眺めている】だけの【状態】』だったりと、往々にして『【解像度】の低い【表現】』になりやすいものです。
もちろん、私がそう【予測】する【理由】があります。
それは『“【静】の【表現手法】”では、【静止画】を一枚一枚【説明】するように、【段階】ごとに【全体像】を【描き直す】ような【表現】になるから』というもの。
つまり『【重要度】の高い部分も低い部分も描かないと、【静止画】として【粗略】に映るから』。これでは【表現意図】に関わりの薄い【表現】が、【静止画】の数だけ多くなります。『【表現】が【ダブつく】』とでも申しましょうか。
この【ダブつき】を嫌うなら、【静止画】の数を減らすしかありません。つまり【静止画】と【静止画】の間に設ける【時間】の【間隔】を拡げて【認識】するわけです。すると今度は“【動き】に対する【コマ落ち】”が起こりやすくなります。【動き】が激しくなるほど、【表現】としては取りこぼしやすくなるわけですね。
このような【背景】があるため、“【静】の【表現手法】”では、【動き】に関する【情報密度】を高める【難度】は、必然的に極めて高くなります。ここで無理に【情報密度】を追求すると、今度は“【表層】上の【情報量】”、つまり【文章量】が【暴力的】に【増大】するわけですから。
【表現】としては、【面白い説明】も、もちろん【存在】します。【説明】を【物語】に組み込むことも【否定】はしません。よって『比較的【説明】に近しい“【静】の【表現手法】”』についても、私のスタンスは同様です。
ですが、『【説明】の間は【物語】が【静止】する』という【事実】に対しては、【作者】の【覚悟】を要する――ということは、私としても【指摘】せねばなりません。私のこの【感覚】の【言語化】を試みるなら、『いくら【スピード感】や“【動き】の滑らかさ”を望んでも、【説明】や“【静】の【表現手法】”では“【紙芝居】としての【情報量】”が足を引きがちで、【パラパラ・マンガ】にはまず及ばない』というところです。
【派生】の【考え方】として、【説明】は【エッセイ】により近しいものです。【面白さ】を醸すことはもちろんできますが、その【技巧】は“【物語】としての【演出】”よりは【話術】に近しいもの――という、これは【我流】の【認識】です。
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さて、今回は一旦ここまで。
「全部【理解】して欲しい!」ための【直接表現】となれば、それは【作者】の気が済むまで、その一瞬の【状態】を【記述】することになります。そこに【時間】の【流れ】が織り込まれるわけではなく、ゆえに“【静】の【表現手法】”と私は【認識】するわけです。
であれば、【情報量】も【考え方】も、【基盤】にあるものは【一枚絵】へ向かう道理、【動き】を重んじて【情報量】を減らす【パラパラ・マンガ】とは別の【方向性】を帯びる――という、これが私の【認識】ですね。
このように【直接表現】を“【静】の【表現手法】”と位置付けた上で、次回は私が【動き】と位置付ける【芝居】を掘り下げてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。
(次の記事)