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【芝居】の【描写】、その【効能】(第12回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、ここのところ“広義の【芝居】”、つまり私が好んでよく用いる【描写】について、【我流】なりに【考察】を巡らせております。

 私の【認識】するところ、“広義の【芝居】”の【役割】は、「全部【理解】して欲しい!」という【心理】から生じる【問題点】、この数々から【作品】を守る――というものです。

 その【問題点】の少なくとも一つは、私の【認識】するところ『【作者自身】が【作品】を“心に響かない【説教】”に仕立て、さらには【作者】の【姿勢】についても「口(【言葉】)だけ【達者】で、【奥深さ】を持たない」と見せてしまいかねない』というもの。

 ではなぜ、“広義の【芝居】”でこの【問題点】から【作品】を守ることが【可能】になるのか――と申せば。

 「全部【理解】して欲しい!」と言わなければ、『“【優先順位】の低い【情報】”は、“伝わらない【観客】には伝わらなくてもいい【表現】”で示す』と考えることもできるというもの。であればこれは、【奥深さ】を表す上で『口(【言葉】)だけで終わらない』、つまり【間接表現】を扱えることになります。

 そして私なりに申せば、“広義の【芝居】”とは、『【表現意図】を“【動き】という【間接表現】”に【翻訳】したもの』です。

 こう割り切ってみると、今度は【表現】をある種の【基準】をもって大別することができるようになっていきます。
 即ち、『【表現手法】として【静】と【動】、どちらを重んじるか』。

 例えば「全部【理解】して欲しい!」ための【直接表現】となれば、それは【作者】の気が済むまで、その一瞬の【状態】を【記述】することになります。そこに【時間】の【流れ】が織り込まれるわけではなく、ゆえに“【静】の【表現手法】”と私は【認識】するわけです。

 では、私が“【動】の【表現手法】”と位置付ける【芝居】はと申せば。

 “【芝居】という【動き】”には“【登場人物】や【物体】の【主観】や【行動原理】(複数)”が【間接表現】として埋め込まれていて、その【状態】を例えるなら“【不可逆圧縮】の【エンコード(暗号化)】”ということが観えてくるわけです。

 もちろん【不可逆圧縮】ですから、【観客】全員が【デコード(復元)】できるわけではありません。ただ、『そこに込められた【意味付け】が(複数)【存在】する』という【間接表現】としては伝わりやすくなります。これは【現実】に【存在】する【奥深さ】にも通ずるものですね。

 もちろん、【容易】な【表現】とは申しません。

 “広義の【芝居】”は【登場人物】の【人格】、ひいてはその【背景】にある【作品世界】全体の【原理原則】を踏まえて、それを【エンコード(暗号化)】した上に成り立っているわけですから。

 ただし、だからこそ『“【表現】に際する【容易さ】を求める【作者】”の【作品】からは【差別化】しやすい』ことになりますね。

 この【位置付け】とその【難度】を踏まえた上で。

 “【動】の【表現手法】”として“広義の【芝居】”を捉えるに、【我流】の【定義】は、“【シーン(状況)】の【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”です。これは【シーン】の【存在意義】を踏まえれば、自ずと【優先順位】は定まります。
 そして“【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”であるからには、“【時間経過】の【表現】”は【不可欠】ということになりますね。

 ここで『“【動】の【表現手法】”としては、“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】する【必要】に迫られる』ということになりますが。
 これを“【静】の【表現手法】”、つまりは“【表層】の【直接表現】”としようとすると、『【動き全体】を一つの【塊】として括れない』ことになります。
 となると、【動き】の全体と細部一つ一つ、それぞれに込められた【意図】をはじめ、そこにある【情報量】は【膨大】になります。しかも全てを【表層】で【表現】することになるわけです。つまり【表現】として【現実的】ではなくなります。話が全くと言っていいほど進まなくなりますから。

 ここに“【行間】の【表現】”を用いる【必要性】は【確定】、よって【間接表現】としての“広義の【芝居】”は【存在意義】を【確定】するわけです。

 また、“広義の【芝居】”という“【動】の【表現手法】”においては。
 『“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】、【再現】する』からには、【作者】は“【作品世界】の【現象】”に入り込んだかのごとく、つまりは【演者】と同じように【役作り】と【演技】を(【物理的】な【動き】を【再現】する【寸前】まで)【展開】することになるわけです。私が“広義の【芝居】”という【表現】を用いる由縁ですね。

 もちろんここまで【動き】にこだわるのは、私なりに考える【意義】あってのことです。

 ヒトを含む動物の“【本能的】な【特性】”まで【考慮】に入れるなら、【動き】というものは【意識】を惹き付ける上で極めて【有用】です。ならば【描写】の上でも【利用価値】は大きいことになりますね。
 さらにここまでの内容を踏まえるに、ここで取り上げる【動き】は『【心理】や【背景事情】などをも【間接表現】として込めた“広義の【芝居】”』となります。

 “生きている【人間】としての【動き】”をその【心理】や癖と絡めて引き出したならば、【観客】の【意識】には『単なる【記号】ではなく、生きた【人間】の姿とその【動き】』として映りやすくなるのでは――という、これは私の【考え方】です。

 ただし、注意点があります。

 【科白】も含め、『【動き】でさえあれば何でも“【動】の【表現手法】”として【上質】たり得る』などということはありません。
 『【手っ取り早く】でっち上げた【表現】から、込めてもいない【間接表現】が匂い立つ』などということは【期待】しようがないのです。

 ここで私として【予想】するのは、『じゃあ【間接表現】の【利点】だけ手に入れよう』という【発想】ですが。もちろん私はお勧めしません。
 前回はこの辺りの【背景】をお話ししてみました。

https://note.com/nakamura_naohiro/n/n642fff505d85?sub_rt=share_pb


 【間接表現】の【利点】だけ手に入れて、【主力】は【手っ取り早く】扱える【直接表現】にしよう――としてしまうと、今度はそもそも【間接表現】の【利点】そのものを損ねかねないからです。

 今回は【広告】から【実例】を交えて、この辺りをお話ししてみましょう。

 ◇

○【直接表現】の誘惑とその【結果】(その2)

 広く見渡してみれば【実感】しますが、【直接表現】を持ち込んだ【広告】は『途端に【浅く】なり、【安っぽく映る】ようになる』ものです。
 スペック然り、価格然り。この点、【作品】の【広報】についても然りです。

 【作品】の【広報】については、例えば『この【作品】には、【魅力的】な【登場人物】がたくさん登場します!』という【謳い文句】を【想像】してみて下さい。
 これ、『【作者】(もしくは【作品】を送り出す側)が、“【自分】の作り出した【存在】”である【登場人物】を、“【魅力的】と褒めそやしている”【構図】』なのです。早い話が【自画自賛】、【観客】からは「ああ、【他者】には褒めてもらえないから【手前味噌】を語るしかないのか」と観られたとして、何ら不思議はありません。
 『【魅力的】かどうか』、広義では“【評価】を決める【権利】”を持っているのは、本来【受け手】である【観客】一人一人なのですから。

 逆に『【観客】一人一人から高く【評価】されること』を狙う【ハイ・ブランド】の【広告】は、さてどうでしょう。
 【観察】してみれば、【直接表現】を実質的に【排除】して、『【間接表現】で【奥深さ】を【表現】している』という【事実】に気付くはずです。
 もちろんここには『【価値】を【多角的】に【最大化】する【表現意図】もある』のですが、『【最終的】に【直接表現】を【排除】する【方針】を採っている』という【事実】は【無視】できません。
 つまり、『【観客】から高く【評価】されたいなら、(特に【本質】に近しい部分ほど)【直接表現】はむしろ【邪魔】』という【判断】が窺えるわけです。

 もちろん、この【背景】には“【奥深さ】の【表現】”が関わっていることを忘れることはできません。
 『【奥深さ】とは、【無用の用】や【底知れなさ】の【表現】』です。これが【意味】するのは『【底知れなさ】は、【底】という【具体】を【表現】した【瞬間】に【喪失】する』ということです。

 言い方を変えるなら、こういうことです。『【底】を【直接】かつ【具体的】に示してしまう【直接表現】では、【実現】できない【表現】が【存在】する』。

 例えば、こういうことです。
 『【現実】(【スポーツ】)は、【筋書き】のない【ドラマ】』という【認識】があります。これが【意味】するのは、『“【筋書き】という【直接表現】”を【認識】した途端、【現実】に準ずる【存在感】は感じてもらえなくなる(という【観客】は【確実】に【存在】する)』ということです。【現実】は『これが【本質的意味】ですよ』などと自らを【直接表現】で【解説】したりしませんから。

 この【事実】が【意味】するのは、『【表現】の【本質】に近しい【部分】であるほど、【直接表現】で損なわれる【現実感】は【深刻化】する』ということです。

 つまり『【観客】に【現実感】を伴って【観賞】して欲しいなら、“【言いたいこと】に近しい【部分】”ほど、“【直接表現】を【排除】する【必要性】”は重くなる』ということです。つまり『より強く【言いたいこと】ほど、【言わずに描く表現】の【重要性】が効いてくる』と。
 これはつまり『【言いたいこと】を【直接表現】せずに、【間接表現】で【迂回】するだけの【忍耐力】を問われる』ことを【意味】します。

 【要約】すれば、『“【言いたいこと】を吐き出したい【欲求】”と“【観客】に【現実感】を伴って【没入】してもらい、【説得力】を感じてもらうための【技巧】”は、基本として【背反関係】にある』ということです。
 言い換えれば『「全部【理解】して欲しい!」という【欲求】は、忠実に繰り出せば繰り出すほど【解ってもらえる可能性】をむしろ下げる【傾向】にある』というわけですね。

 私が【ご提示】する“広義の【芝居】”という【概念】は、つまりこの【事実】の一角を衝いていることになります。

 ◇

 さて今回は一旦ここまで。

 【実際】のところ、『【上質さ】を【表現】しようとする【広告】ほど、【直接表現】を【排除】して【間接表現】で【奥深さ】を【表現】しようとする』もので。
 これは『【自画自賛】や【手前味噌】というものが、いかに【薄っぺらく】映るか』を考えてみれば腑に落ちるというもの。

 ここで【間接表現】、中でも“広義の【芝居】”は、【底知れなさ】や【奥深さ】を【表現】する上で【好相性】で、かつ【面白く】魅せる【演出】に対しても【好相性】――と私は捉えているわけですが。

 この【演出】と【芝居】、両者の【相性】について、次回はお話ししてみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(次の記事)


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