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【芝居】の【描写】、その【効能】(第6回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、ここのところ“広義の【芝居】”、つまり私が好んでよく用いる【描写】について、【我流】なりに【考察】を巡らせております。

 私の【認識】するところ、“広義の【芝居】”の【役割】は、「全部【理解】して欲しい!」という【心理】から生じる【問題点】、この数々から【作品】を守る――というものです。

 その【問題点】の少なくとも一つは、私の【認識】するところ『【作者自身】が【作品】を“心に響かない【説教】”に仕立て、さらには【作者】の【姿勢】についても「口(【言葉】)だけ【達者】で、【奥深さ】を持たない」と見せてしまいかねない』というもの。

 ではなぜ、“広義の【芝居】”でこの【問題点】から【作品】を守ることが【可能】になるのか――と申せば。

 「全部【理解】して欲しい!」と言わなければ、『“【優先順位】の低い【情報】”は、“伝わらない【観客】には伝わらなくてもいい【表現】”で示す』と考えることもできるというもの。であれば『【行間】という【概念】を活かす』という【方法論】が、【選択肢】に上がってきます。これは【奥深さ】を表す上で【有利】に働く考え方です――【表現】が『口(【言葉】)だけで終わらない』、つまり【間接表現】を備えるからです。

 そして私の考えるところ、“広義の【芝居】”とは、『【表現意図】を“【動き】という【間接表現】”に【翻訳】したもの』です。

 こう割り切ってみると、今度は【表現】をある種の【基準】をもって大別することができるようになっていきます。
 即ち、『【表現手法】として【静】と【動】、どちらを重んじるか』。

 例えば「全部【理解】して欲しい!」ための【直接表現】となれば、それは【作者】の気が済むまで、その一瞬の【状態】を【記述】することになります。そこに【時間】の【流れ】が織り込まれるわけではなく、ゆえに“【静】の【表現手法】”と私は【認識】するわけです。

 このように【直接表現】を“【静】の【表現手法】”と位置付けた上で、では私が“【動】の【表現手法】”と位置付ける【芝居】を掘り下げてみますと。

 “【芝居】という【動き】”には“【登場人物】や【物体】の【主観】や【行動原理】(複数)”が埋め込まれていて、その【状態】を例えるなら“【不可逆圧縮】の【エンコード(暗号化)】”ということが観えてくるわけです。

 もちろん【不可逆圧縮】であるからには、【観客】全員が【デコード(復元)】できるわけではありません。ただ、『そこに込められた【意味付け】が(複数)【存在】する』という【間接表現】としては伝わりやすくなります。これは【現実】にも【存在】する【奥深さ】にも通ずるものですね。

 もちろん、【容易】な【表現】とは申しません。

 前回は、この“【容易】ではない【背景】”と、その【恩恵】を考えてみました。

 “広義の【芝居】”は【登場人物】の【人格】、ひいてはその【背景】にある【作品世界】全体の【原理原則】を【不可逆圧縮】で【エンコード(暗号化)】した上に成り立っているわけですが。それほどの【情報】を踏まえる以上は、その【完成度】や【自然さ】を【追求】するのは『とても【容易】とは言えない』のはむしろ【当然】でありましょう。

 ただし、だからこそ『“【表現】に際する【容易さ】を求める【作者】”』の【作品】からは【差別化】しやすいことになりますね。

 この【位置付け】とその【難度】を踏まえた上で、今回は“【芝居】の組み方”へ【考察】を巡らせてみることとしましょう。

 ◇

○【考察】:【芝居】の組み方(その1)

 と、“広義の【芝居】”の【位置付け】を踏まえたところで。
 『【芝居】をどう組み上げていくか』に【考察】を巡らせてみましょう。

 まず先述の通り、ここで【考察】する“広義の【芝居】”とは“【動】(あるいは【変化】)の【表現手法】”です。
 ですが、【動】にしても【変化】にしても、何でもいいわけではありません。

 【我流】で“広義の【芝居】”と【認識】するものは、“【シーン(状況)】の【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”です。
 言い換えれば“【シーン】の【存在意義】を【構成】する【動き】”ということになりますね。

 この【背景】には、『【我流】では、【シーン】の“入り”と“引き”の間に【変化】も【落差】もない場合、基本的に“その【シーン】には【存在意義】がない”と【判断】する』という【我流】の【考え方】があります。『【存在】しなくても【物語】が【成立】してしまうような【シーン】は、【物語】を【冗長】にしてしまう』という【判断】ですね。

 この【考え方】に根差した上で“広義の【芝居】”を言い表すならば、“【シーン(状況)】の【落差】や【変化】に絡む【存在】”の【動き】、もしくは“さらに広いスパンで観たときに“【状況】の【落差】や【変化】に絡む【存在】”の【動き】ということになります。
 これとは逆に“【意義】を持たない【動き】”は、ここでは【芝居】として【考察】する【対象】に加えません。全てを【記述】していては“【描写】の【流れ】”が【阻害】されるからです。
 “【意義】を持たない【動き】”は【優先順位】の低いものとして、例えるなら“ただの【大道具】や【小道具】”あるいは“【舞台】の一部または【舞台装置】”と同列に見なします。

 そうすると、【芝居】として取り上げる【動き】や【現象】は、『ただ、そこにあるだけのもの“ではない”』ことになりますね。 
 【芝居】は“【シーン】の【存在意義】を【構成】する上で【貢献】する【動き】や【変化】”というわけです。

 ここで、“【シーン】の【落差】や【変化】”に絡むからには、同時に“【動】の【表現手法】”であるからには、【芝居】は“【時間経過】の【表現】”を含むことになります。

 この【認識】からいけば、【説明】に近しい(と私が【位置付け】ている)“【静】の【表現手法】”は、“【状態】による【描写】”とも言えそうですね。『【静止】した【物体】や【状態】を、その【背景】(これも【過去】であって【変化】しませんから【静】に分類できる)を交えつつ【説明】または【描写】する』わけですから。
 ここには【時間経過】の【概念】は、ないとまでは申さないにしても【希薄】です。この場合、【動き】を表すにしても、ただ【単純】に“【動き】という【状態】”として括られ、【静止状態】に限りなく近い、せいぜい“【静止画】の一コマに収まる【状態】”として【認識】されていると、私は捉えています。後述しますが、その【理由】は『【動き】の【捉え方】が【大雑把】で、ゆえに【動き】を【大雑把】な【塊】としてのみ捉えており、そのために“【時系列】上の【順序】”がおろそかになりがちだから』、というのが私の【認識】です。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 “【動】の【表現手法】”として“広義の【芝居】”を捉えるに、【我流】の【定義】は、“【シーン(状況)】の【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”です。これは【シーン】の【存在意義】を踏まえれば、自ずと【優先順位】は定まります。
 そして“【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”であるからには、“【時間経過】の【表現】”は【不可欠】ということになりますね。

 次回はこの【時間経過】、もっと申せば“【時間】に関わる【表現】”について、掘り下げてみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(次の記事)


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