【芝居】の【描写】、その【効能】(第11回)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、ここのところ“広義の【芝居】”、つまり私が好んでよく用いる【描写】について、【我流】なりに【考察】を巡らせております。
私の【認識】するところ、“広義の【芝居】”の【役割】は、「全部【理解】して欲しい!」という【心理】から生じる【問題点】、この数々から【作品】を守る――というものです。
その【問題点】の少なくとも一つは、私の【認識】するところ『【作者自身】が【作品】を“心に響かない【説教】”に仕立て、さらには【作者】の【姿勢】についても「口(【言葉】)だけ【達者】で、【奥深さ】を持たない」と見せてしまいかねない』というもの。
ではなぜ、“広義の【芝居】”でこの【問題点】から【作品】を守ることが【可能】になるのか――と申せば。
「全部【理解】して欲しい!」と言わなければ、『“【優先順位】の低い【情報】”は、“伝わらない【観客】には伝わらなくてもいい【表現】”で示す』と考えることもできるというもの。であれば『【行間】という【概念】を活かす』という【方法論】が、【選択肢】に上がってきます。これは【奥深さ】を表す上で【有利】に働く【考え方】です――【表現】が『口(【言葉】)だけで終わらない』、つまり【間接表現】を備えるからです。
そして私なりに申せば、“広義の【芝居】”とは、『【表現意図】を“【動き】という【間接表現】”に【翻訳】したもの』です。
こう割り切ってみると、今度は【表現】をある種の【基準】をもって大別することができるようになっていきます。
即ち、『【表現手法】として【静】と【動】、どちらを重んじるか』。
例えば「全部【理解】して欲しい!」ための【直接表現】となれば、それは【作者】の気が済むまで、その一瞬の【状態】を【記述】することになります。そこに【時間】の【流れ】が織り込まれるわけではなく、ゆえに“【静】の【表現手法】”と私は【認識】するわけです。
では、私が“【動】の【表現手法】”と位置付ける【芝居】はと申せば。
“【芝居】という【動き】”には“【登場人物】や【物体】の【主観】や【行動原理】(複数)”が埋め込まれていて、その【状態】を例えるなら“【不可逆圧縮】の【エンコード(暗号化)】”ということが観えてくるわけです。
もちろん【不可逆圧縮】ですから、【観客】全員が【デコード(復元)】できるわけではありません。ただ、『そこに込められた【意味付け】が(複数)【存在】する』という【間接表現】としては伝わりやすくなります。これは【現実】にも【存在】する【奥深さ】にも通ずるものですね。
もちろん、【容易】な【表現】とは申しません。
“広義の【芝居】”は【登場人物】の【人格】、ひいてはその【背景】にある【作品世界】全体の【原理原則】を【不可逆圧縮】で【エンコード(暗号化)】した上に成り立っているわけですから。
ただし、だからこそ『“【表現】に際する【容易さ】を求める【作者】”の【作品】からは【差別化】しやすい』ことになりますね。
この【位置付け】とその【難度】を踏まえた上で。
“【動】の【表現手法】”として“広義の【芝居】”を捉えるに、【我流】の【定義】は、“【シーン(状況)】の【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”です。これは【シーン】の【存在意義】を踏まえれば、自ずと【優先順位】は定まります。
そして“【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”であるからには、“【時間経過】の【表現】”は【不可欠】ということになりますね。
ですが“【静】の【表現手法】”つまり【直接表現】では、『【静止】した【物体】や【状態】を、その【背景】(これも【過去】であって【静】に分類できる)を交えつつ【説明】または【描写】する』わけです。ここに【時間経過】の【概念】は、ないとは申しませんが【希薄】でありましょう。
これに対して『“【動】の【表現手法】”としては、“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】する【必要】に迫られる』ということになりますが。
これを“【表層】の【直接表現】”としようにも、『【動き全体】を一つの【塊】として括れない』ことになります。となると、【動き】の全体と細部一つ一つ、それぞれに込められた【意図】をはじめ、そこにある【情報量】は【膨大】になります。しかも全てを【表層】で【表現】することになるわけです。つまり【表現】として【現実的】ではなくなります。話が全くと言っていいほど進まなくなりますから。
ここに“【行間】の【表現】”を用いる【必要性】は【確定】、よって【間接表現】としての“広義の【芝居】”は【存在意義】を【確定】するわけです。
また、“広義の【芝居】”という“【動】の【表現手法】”においては。
『“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】、【再現】する』からには、【作者】は“【作品世界】の【現象】”に入り込んだかのごとく、つまりは【演者】と同じように【役作り】と【演技】を(【物理的】な【動き】を【再現】する【寸前】まで)【展開】することになるわけです。私が“広義の【芝居】”という【表現】を用いる由縁ですね。
もちろんここまで【動き】にこだわるのは、私なりに考える【意義】あってのことです。
ヒトを含む動物の“【本能的】な【特性】”まで【考慮】に入れるなら、【動き】というものは【意識】を惹き付ける上で極めて【有用】です。ならば【描写】の上でも【利用価値】は大きいことになりますね。
さらにここまでの内容を踏まえるに、ここで取り上げる【動き】は『【心理】や【背景事情】などをも【間接表現】として込めた“広義の【芝居】”』となります。
“生きている【人間】としての【動き】”をその【心理】や癖と絡めて引き出したならば、【観客】の【意識】には『単なる【記号】ではなく、生きた【人間】の姿とその【動き】』として映りやすくなるのでは――という、これは私の【考え方】です。
ただし、注意点が――ということを、前回はお話しさせていただきました。
【科白】も含め、『【動き】でさえあれば何でも“【動】の【表現手法】”として【上質】たり得る』などということはありません。
『【手っ取り早く】でっち上げた【表現】から、込めてもいない【間接表現】が匂い立つ』などということは【期待】しようがないのです。
ここで私として【予想】するのは、『じゃあ【間接表現】の【利点】だけ手に入れよう』という【発想】ですが。もちろん私はお勧めしません。
これについて、今回はお話ししてみましょう。
◇
○【直接表現】の誘惑とその【結果】(その1)
さて。
ここまでで、“広義の【芝居】”を含む【間接表現】には相応の【利点】がある、ということは【認識】いただけたかと考えます。
ここで私が【予想】する【発想】があります。
「じゃあ【間接表現】の【利点】だけ手に入れよう。主力は【手っ取り早く】描ける【直接表現】にして、ほどよく【間接表現】を織り込めばいいじゃないか!」
【我流】で考えますところ、ことはそう【単純】ではありません。
まず【直接表現】の【特徴】を振り返ってみましょう。
【直接表現】の【特徴】は【文章】の【性質】と近しいものです。
何かと申せば、『【直接表現】は、少ない【情報量】で【本質的意味】を【直接】表そうとしている』というもの。よって『【文章】は【単体】で持ち得る【情報量】が少ないため、【内容】を削ぎ落として【本質的意味】のみを【直接】表すのに比較的向いた【性質】を帯びやすい』ということになります。
ただしもちろん【代償】があります。『【本質的意味】を【直接】表す関係上、【本質的意味】以外の【内容】が、霞んで見えなくなりやすい』という面が、それに当たるわけです。
元より、『“【直接表現】に込め得る【情報量】”は、極めて限定的』です。そのものズバリの【本質的意味】を表すのですから、“余計な【情報】”はそのままでは載りません。
となると、です。
『【直接表現】で【情報量】を稼ごうとすると、“いくら【表現】しても足りない”ことになる』わけです。つまりこの場合、『【情報量】が【暴力的】に【増大】する【事態】に陥りやすい』ということになります。
ではこの【短所】を、補助的に導入した【間接表現】で補えるか――というと、ことはそう【単純】な話ではありません。
この場合、往々にして『【直接表現】が【本質的意味】を表してしまう』わけですから、『【直接表現】は【間接表現】の【存在感】を殺して【蛇足感】すら与えてしまいやすい』というのが【実情】です。何しろ【表現】の【中核】にある【本質的意味】を【直接】示すのですから、言い方を選べば『身も蓋もない』ことになるわけです。ここに何を付け足そうと、【奥深さ】も何もあったものではありません。もちろん【表現】は【手っ取り早く】ならざるを得ませんから、“浅はかな【小悪党】”との【差別化】もできません。よって先述の【理屈】で、【表現】には【信頼感】も【存在感】も宿りにくい道理です。
要は『【直接表現】と【間接表現】それぞれの【存在感】が揃わない』というところですが、この辺りについては【広告】を【観察】してみれば比較的【理解】しやすいところです。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
【間接表現】の【利点】だけ手に入れて、【主力】は【手っ取り早く】扱える【直接表現】にしよう――という【発想】については、そもそも【間接表現】の【利点】そのものを損ねかねないものです。
次回は【実例】を交えて、この辺りをお話ししてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。