【芝居】の【描写】、その【効能】(第7回)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、ここのところ“広義の【芝居】”、つまり私が好んでよく用いる【描写】について、【我流】なりに【考察】を巡らせております。
私の【認識】するところ、“広義の【芝居】”の【役割】は、「全部【理解】して欲しい!」という【心理】から生じる【問題点】、この数々から【作品】を守る――というものです。
その【問題点】の少なくとも一つは、私の【認識】するところ『【作者自身】が【作品】を“心に響かない【説教】”に仕立て、さらには【作者】の【姿勢】についても「口(【言葉】)だけ【達者】で、【奥深さ】を持たない」と見せてしまいかねない』というもの。
ではなぜ、“広義の【芝居】”でこの【問題点】から【作品】を守ることが【可能】になるのか――と申せば。
「全部【理解】して欲しい!」と言わなければ、『“【優先順位】の低い【情報】”は、“伝わらない【観客】には伝わらなくてもいい【表現】”で示す』と考えることもできるというもの。であれば『【行間】という【概念】を活かす』という【方法論】が、【選択肢】に上がってきます。これは【奥深さ】を表す上で【有利】に働く考え方です――【表現】が『口(【言葉】)だけで終わらない』、つまり【間接表現】を備えるからです。
そして私なりに申せば、“広義の【芝居】”とは、『【表現意図】を“【動き】という【間接表現】”に【翻訳】したもの』です。
こう割り切ってみると、今度は【表現】をある種の【基準】をもって大別することができるようになっていきます。
即ち、『【表現手法】として【静】と【動】、どちらを重んじるか』。
例えば「全部【理解】して欲しい!」ための【直接表現】となれば、それは【作者】の気が済むまで、その一瞬の【状態】を【記述】することになります。そこに【時間】の【流れ】が織り込まれるわけではなく、ゆえに“【静】の【表現手法】”と私は【認識】するわけです。
では、私が“【動】の【表現手法】”と位置付ける【芝居】はと申せば。
“【芝居】という【動き】”には“【登場人物】や【物体】の【主観】や【行動原理】(複数)”が埋め込まれていて、その【状態】を例えるなら“【不可逆圧縮】の【エンコード(暗号化)】”ということが観えてくるわけです。
もちろん【不可逆圧縮】ですから、【観客】全員が【デコード(復元)】できるわけではありません。ただ、『そこに込められた【意味付け】が(複数)【存在】する』という【間接表現】としては伝わりやすくなります。これは【現実】にも【存在】する【奥深さ】にも通ずるものですね。
もちろん、【容易】な【表現】とは申しません。
“広義の【芝居】”は【登場人物】の【人格】、ひいてはその【背景】にある【作品世界】全体の【原理原則】を【不可逆圧縮】で【エンコード(暗号化)】した上に成り立っているわけですから。
ただし、だからこそ『“【表現】に際する【容易さ】を求める【作者】”』の【作品】からは【差別化】しやすいことになりますね。
この【位置付け】とその【難度】を踏まえた上で、前回は“【芝居】の組み方”へ【考察】を巡らせてみました。
“【動】の【表現手法】”として“広義の【芝居】”を捉えるに、【我流】の【定義】は、“【シーン(状況)】の【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”です。これは【シーン】の【存在意義】を踏まえれば、自ずと【優先順位】は定まります。
そして“【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”であるからには、“【時間経過】の【表現】”は【不可欠】ということになりますね。
ですが“【静】の【表現手法】”つまり【直接表現】では、『【静止】した【物体】や【状態】を、その【背景】(これも【過去】であって【静】に分類できる)を交えつつ【説明】または【描写】する』わけです。ここに【時間経過】の【概念】は、ないとは申しませんが【希薄】でありましょう。
今回はこの【時間経過】、もっと申せば“【時間】に関わる【表現】”について、掘り下げてみましょう。
◇
○【考察】:【芝居】の組み方(その2)
これに対して、私が“【動】の【表現手法】”と【認識】する【芝居】はどうか――ということを、以下に示します。
先ほど『【芝居】は“【時間経過】の【表現】”を含む』とお伝えしました。であるからには、必然として“【時系列】上の【順序】”を重んじることになります。
これは『【動き】を表すに、“【時系列】を遡ること”を嫌う』という【意味】でもあります。
何かと申せば、『“【時系列】上の【順序】”を重んじるからには、“【物事】の【認識】”は【時間】を【細分化】した形で行うことになる』ということです。
【作者】が【物事】を捉える【過程】の【イメージ】としては、『【時間軸】を細かくスライスしながら【認識】する』というところですね。
例えば【登場人物】の【動き】を捉えるにしても、『【知覚】、【認識】、【判断】、【行動】といった、“【動き】を【形成】する【過程】”一つ一つを【作者】が【意識】に乗せる』というわけです。
これは、『複数の【動き】が【存在】していて、ある【瞬間】、うち一つの【動きA】の【途中】で別の【動きB】が【干渉】する』という【状況】を【想像】していただければよろしいかと。
もっと噛み砕くなら、例えば以下のような【状況】です。
まず“望ましくない【認識】”の【結果】として、【例1】を挙げてみます。
・【例1】:Aは攻撃した。Bは防御して、より強力な攻撃を繰り出した。Aはより強力に防御して、さらに強力に攻撃した。(以下繰り返し)……
【例1】では、【動き】を【攻撃】や【防御】という“【大雑把】な【単位】”で捉えています。なのでこれ以上は【細分化】できず、従って細かな【駆け引き】を描くことはできません。その【結果】として、【ターン制ゲーム】のような【展開】が【限界】となります。
これに対する“望ましい【認識】”の【結果】として、以下【例2】を挙げてみます。
・【例2】:【登場人物】AとBが対峙している。Aが【攻勢】に出ようと深く踏み込んだ。そこへBが意表を衝いてなお間を詰め、Aの腰へと組み付きにかかる。Aは横へと力を加えた。すんでのところでBをかわしたが、Aは【姿勢】を崩されてしまった。
【例2】では、【登場人物】が互いに【相手】の【動き】を潰し合うように【駆け引き】を【展開】しています。【動き】を“比較的細かな、個々の【動作】”まで【細分化】して【認識】していますので、『【相手】の【動き】を途中まで【認識】したら、その【目論見】を潰すべく別の【動作】へ切り替える』という【展開】を作り得るというわけです。
以上の【例】から、“【時系列】の【順序】”を重んじる上では、『“【動きA】の【途中】”、ここに“【動きB】が【干渉】する【瞬間】”の【状態】、というものを【表現】する【必要】に迫られる』ということにお気付きいただけるものと考えます。
そのためには【動きA】も【動きB】も【細分化】して【認識】しなければなりません。さらには『両者それぞれの、どの【時点】で【干渉】が生じたか』、また『その【影響】でそれぞれの【動き】が、どの【段階】でどう【変化】するか』――要は“【干渉】の【瞬間】とその後”についても【認識】する【必要】が生じるというわけです。
さらには【動きA】の主と【動きB】の主、それぞれは【相手】の【干渉】を【知覚】し【認識】し、【思考】して【判断】し、その【結果】として次の【動き】に出るわけです。そこには【相手】に対する【認識】の【変化】もあれば、【心理】の【変化】だってあるでしょう。これらを一つ一つ【直接表現】していては極めて【冗長】になりますが、それはそれとしてこの後の【認識】にも【心理】にも、ひいては【動き】にも【影響】が出ないはずはありません。
この時点で『“【表層】の【直接表現】だけで終わらせろうとしない”、という“【行間】の【表現】”を用いる【必要性】』は【確定】します。なおかつ『【認識】や【心理】、【動き】はそれぞれいつの時点で、【具体的】にどう【変化】するか』についても【考察】する【必要性】は【確定】します。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
【具体例】としてご覧いただいたなら、『“【動】の【表現手法】”としては、“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】する【必要】に迫られる』というのがお解りいただけるかと考えます。
ですがこれを“【表層】の【直接表現】”とするにも、『【動き全体】を一つの【塊】として括れない』となると、【動き全体】の【意図】をはじめ、そこにある【情報量】は【膨大】になります。しかも全てを【表層】で【表現】することになるというわけです。つまり【表現】として【現実的】ではなくなります。
ここに“【行間】の【表現】”を用いる【必要性】は【確定】、よって【間接表現】としての“広義の【芝居】”は【存在意義】を【確定】するわけです。
次回はこれを受けて、“広義の【芝居】”で【必要】になる【考察】について、お話ししてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。
(次の記事)