【創作論】の【呪縛】、【ワクワク】の救済(第5回)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、このところ【創作論】とされるものが溢れる一方で、息苦しそうな【作者】さんの姿もまた多く見られることについて【考察】を巡らせております。
ここでは【創作論】とされるもののうち、不特定多数へ向けて【一般論】的に叫ばれがちな内容を“【攻略法】的【創作論】”と呼んでおりますが。
これはよく【一般論】のように扱われるだけあって、その【本質】を私なりに言語化するならFAQ、『よくある困りごとと、その対処法』と、私としてはそういう【認識】です。
前回は『“【攻略法】的【創作論】”を上から眼線のドヤ顔で語る』という【姿勢】、その【背景】が往々にして正当とは申せないものである【可能性】を指摘しましたが。
言い方を変えれば、つまりこういうことです。
【創作論】周りに余裕があることは、『【作者】としての器や【可能性】』についても余裕がある、という【可能性】に気付くわけです。
今回は、この辺りを掘り下げてみましょう。
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さて、以上のような観点から『初心者の【作品】』を観てみましょう。
“【攻略法】的【創作論】”に照らして見れば、『【創作論】もくそもない』、例えるなら『【作者】が【ワクワク】に任せて【地雷原】を嬉々として突っ走っているようなもの』ではないでしょうか。
この【姿勢】、つまりは『【作者】が【無難】などという【無粋な概念】に囚われていない』わけです。だからこそ【地雷原】にも自ら突っ込むわけですし、【地雷】を平気で踏み抜きもするわけです。
ですが、逆に。
この場合では【作者】は心の底から【ワクワク】していますし、『【無難】でないからこその【可能性】そのものを持ってもいる』ことにもなります。
【無難】として『【マイナス】を回避すること』を理由に、多くの【作者】が【創作】そのもので行き詰まっている(と私には映る)――この【事実】を比較として思い起こしてみて下さい。ここで私が思い至るのは、『【無難】のために封じるべき【マイナス】』とされるものです。こうして封じられてしまうものの中にこそ、実は【ワクワク】が詰まっているのではないか――こう私は【考察】するわけです。
この場合、“【攻略法】的【創作論】”が悪玉というわけではありません。先述したように、FAQ、『よくある困りごととその対処法』に留め、『【無難】と【補強】のためのもの』と割り切って利用するなら、さてどうでしょう。
言い換えるなら“【攻略法】的【創作論】”を『【作品】を押し込める【無難】の【枠】』として使わず、『【ワクワク】を実現させるための【補助】や【踏み台】』として使うわけです。
もちろん【ワクワク】を担う『【作品】の【中核】』は往々にして“【攻略法】的【創作論】”と競合します。ここで【ワクワク】を優先し、『【作者】自ら【方法論】を模索する』となれば、さてどうでしょうか。【作者】は『【ワクワク】を活かすための方策を自ら【模索】する』ことになるわけで、だからこそ、『【ワクワク】は磨かれ輝く【素材】たり得る』のではありますまいか。
ここで、です。
『“【攻略法】的【創作論】”というレンガ』だけに囚われてすまうと、さてどうなるでしょうか。これを言い換えると『“【攻略法】的【創作論】”というレンガで表面を覆って体裁と防御を整えること』、つまりは『【盾】にすること』を考えるわけですが。
確かに【無粋な輩】が、先述のように剣や矢のように【汎用的な創作論】、つまりは“【攻略法】的【創作論】”を武器として振りかざして攻めてきても、これなら防ぐには防ぎやすい話ではあります。【盾】があるわけですから。ただし、それだけです。
何が『ただし』なのかと申せば、『【無粋な輩】と同じ地べたの上にいることは変わらない』のです。これでは『【無粋な輩】が攻めてくる危険』は消えるわけでもない上に、実はもっと深刻な問題を内包しています。
実は『“【攻略法】的【創作論】”を【盾】としている』その姿、『【ワクワク】を実現させる』ことを【目的】として観てみた場合は、さてどうでしょうか。これ、結局は『“【攻略法】的【創作論】”というレンガで、【ワクワク】を閉じ込める【檻】を作っている』ことにしかならないのです。
なぜなら“【攻略法】的【創作論】”は『自分独自の【ワクワク】には【ドンピシャでは使えない】のが当たり前』なのですから。【ワクワク】に必ずしも合うわけではないレンガで四方八方を覆ったなら、【無粋な輩】の攻撃を跳ね返すことはできても、【ワクワク】に最適な形を模索することはできないのです。そして『【型】(【檻】)に嵌まった、(【ワクワク】のない)【没個性】な【作品】しか形にできない』という【作者】の姿ができてしまいます。これが楽しいかというと、少なくとも私はそう思えませんね。
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さて、今回は一旦ここまで。
こう観てみると、『“【攻略法】的【創作論】”を絶対普遍の教条よろしく振りかざす』【姿勢】や、『“【攻略法】的【創作論】”を上から眼線のドヤ顔で語る』【姿勢】には、むしろ【作者】としての【可能性】を狭める【悪影響】が深刻に窺えることになります。例えるなら『【道具】に振り回されている姿』であり、言い換えるなら『【道具】の【可能性】を引き出せない【小者】の姿』であるわけですが、なるほどこれでは【創作】に【ワクワク】できなくなるのも無理はなさそうです。
では、救いはないのか――という【疑問】に対しては。
次回、この辺りに【考察】を巡らせることといたしましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。
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