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【自己満足】と【シラケ性】(第7回)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、ここのところ以下のような【心の声】について考えております。
『それって単なる【自己満足】じゃない?』
この【心の声】、私は【シラケ性】と称しております。要は『何事に対してもノレない、醒めた【心理】』というところ。【自己満足】とともに、【ニュアンス】としては必ずしもいい【印象】と結び付いてはおりません。
ですが、【絶対悪】というわけでもありません。さらには【作者】としての【自分】の【心理】に湧き上がってくるものでもあります。
ならば、ものは使いよう。
実は【シラケ性】は、【自分自身】を【俯瞰】、【検証】する役に立てることが【可能】です。また【自己満足】は【他者満足】と【両立】させて【Win-Win】に持ち込めばいい話。
つまり接し方次第、やり方次第というわけですね。
【自分】の【シラケ性】と向き合うには、【反論】を用意するのが大変【有効】です。ただし、【反論】自体は【論理】でかつ【厳選】するのが望ましいところです。
実は【安易】や【短絡】で【ゴリ押し】に走る、“【好評価】を【観客】から【強奪】する【姿勢】”は、【逆】に【自分】と【観客】の【シラケ性】を【誘発】する【結果】を招きますので。
ここで【他者満足】も含め、“【シラケ性】に対する【反論】”として【必要】なのは“【観客】を【人格】として【尊重】する【姿勢】”です。【人格】を【尊重】されずして【満足】は生まれませんから。
その上で。
【現実】に【他人】の【心理】をどう感じ取るか――と考えてみれば、実は『【他人】の【情動】は、【論理的事実群】やその【流れ】から、その【背景】として読み取るしかない』と判ります。
つまり【現実】を模する形であれば、『【論理】を用いた【間接表現】として【情動】を表すことは【可能】』なわけです。
前回は、こういった【論理的表現】と【心理】の間にある【関係性】を掘り下げてみました。
【文章表現】は“【文章】という【論理】の【並び】に【情動】を【エンコード(暗号化)】したもの”です。ここから【観客】が【情動】を読み取るのは、言うなれば“【文章】という【論理的事実群】から【情動】を【デコード(復号)】する【工程】”ということになりますね。
実は【現実】でも、“【筋書き】のない【ドラマ】”が見出される【傾向】というものが【存在】します。
ここでは“【現実】という【論理的事実群】から【ドラマ】という【情動】の源を読み取る【現象】”が起きているわけですが、つまりこれは『【観客】の多くが“【情動】を【デコード(復号)】する【能力】”を持っている』ということを【意味】するわけです。ならば【作者】としてもこの【能力】は、大いに磨いて【研究】もする【価値】のあるもの、ということになりますね。
というところで、今回はここから【シラケ性】へと踏み込んでお話ししてみましょう。
◇
○【シラケ性】が【表面化】する【過程】
まず、【作者】がつい【主張】したくなるものがあります。【言語化】するなら“「こう思って!」という【作者】の【主観】”がこれに当たりますね。
こういった【主観】やそれによる【意図】は、“【現実】の中にある【現象】”には【存在】しません。ということは、次のようなことが言えるはずです。
・【物語】の【表層】に【作者】があからさまな【主観】を持ち込むほど、【観客】からは【現実離れ】して(つまり【わざとらしく】)映る
ここで「【作者】という【他人】に、そんな【都合】よく操られてたまるか」という、【観客】の【心の声】を【想起】した方もおいででしょう。
この【心の声】こそ【シラケ性】の【正体】――と私は心得ます。ここでは“【自分】の【心理】を【自衛】するための【警戒心】”というところですね。
つまりこうした【シラケ性】は、先述した【現実離れ】、特に『【物語】に【必須】である“【設定】という【大嘘】”からかけ離れた【小さな嘘】』にこそ、誘われる【可能性】は高い――と私は考えております。
その【理由】は実に単純、『【作品】やその【表現】が【作者】に【都合】よく、【現実】からかけ離れているから』です。【観客】が思うであろうのは、「この【作者】、手を抜いて日和ったな」ということですね。「手を抜いて日和ったしわ寄せを、【観客】に押し付けて【情動】や【評価】を【搾取】するつもりかよ。引っかかってたまるか」と。
となれば、です。【作者】としては“【観客】に【不都合】(【作者自身】の【手抜き】を含む)を押し付けない【姿勢】”というものが、ここでも【必須】というわけです。
この場合、もちろん『【作品】に込められた“【設定】という【大嘘】”にしてからが、そもそも“【観客】に(【作者】と一緒に)楽しんでもらうための(【必要最小限】ではあれ)【嘘】“という【性質】を帯びる』わけですが。
同時にこの時、“【設定】という【大嘘】を含む【嘘】全般”というものは、『“大小複数の【嘘】がある【作品世界】”へ、“【観客】が自ら【現実感】を持って【没入】してくれるために負う【労】”の源』でもあるわけです。
言い方を変えてみましょう。
“【作品】に込められた【嘘】”が大きいほど、また多いほど、【観客】が負う“【没入】のための【労】”は大きくなる、つまり【没入】に対する【ハードル】は高くなる――というわけです。
よって【当然】のことに、【観客】がこの【労】や【ハードル】に耐え切れなかった場合であるとか、あるいは【観客】が『この【労】や【ハードル】は“【作品】に【期待】する【Joy】”に見合わない』と【判断】した場合であるとか、そんな時の【観客】が抱く【心理】は、こういうことになり得るわけです――『こんな【嘘】の【作品】に【没入】してしまったなんて【馬鹿馬鹿しい】、【恥】だ』と。そして『【馬鹿馬鹿しい】、【恥】だ』というこの【心理】が、【シラケ性】として【表面化】することになります。
これが【我流】なりに【理解】する、“【シラケ性】が【表面化】する【過程】”です。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
【シラケ性】を【観客】の【立場】から【観察】してみれば、そこに見えてくるものがあるわけです。『【作者】に【都合】よく操られる』、特に『【没入】やそのための【労】を【作者】に【搾取】される』という【負】の【経験】や【警戒】がそれですね。
であれば、【作者】としても【シラケ性】を【回避】するためにやるべきことが見えてきそうですね。
次回はこの辺りについてお話ししましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。
(次の記事)