見出し画像

【創作論】の呪縛、【ワクワク】の救済(第2回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、このところ【創作論】とされるものが溢れる一方で、息苦しそうな【作者】さんの姿もまた多く見られることについて【考察】を巡らせております。

 ここでは【創作論】とされるもののうち、不特定多数へ向けて【一般論】的に叫ばれがちな内容を“【攻略法】的【創作論】”と呼んでおりますが。
 これはよく【一般論】のように扱われるだけあって、その【本質】を私なりに言語化するならFAQ、『よくある困りごとと、その対処法』と、私としてはそういう【認識】です。

 実はこれ、【一般論】的であるだけに、『【作品】の【中核】』、こと『【作者】独自の「【発想】の【ワクワク】」』と【相性】が悪かったとして、何の不思議もありません。『【作者】独自の【発想】』であるからには【面白い】潜在能力を秘めているほどに【希少】であり、【希少】であるほど【一般論】は通じにくくなる――というのが道理であるからです。

(前回の記事)

 今回はこの【相性】から、【考察】を発展させてみましょう。

 ◇

 よくよく考えてみれば、こういうことです。
 【作者】独自の【ワクワク】は、【個性的】なものであればあるほど、『既存のありきたりの方法では実現が難しいもの』です。

 なぜなら『【他人】が思い付かない【魅力】ゆえに、扱い方を【考察】した【他人】が存在しないから』。であれば、『【作者】自ら【方法論】を開発するしかない』のが道理というものです。

 逆に“【攻略法】的【創作論】”が『【作品】の【中核】』にそのまま通用したとしましょう。喜ばしいことかと思いきや、実はとんでもない悲劇であったりもするものです。なぜなら“【攻略法】的【創作論】”はFAQ、『よくある困りごととその対処法』なわけで、つまり『同じ道を通った者は、既に数え切れないほど存在する』ということなのですから。言い換えれば、『それはもう【手垢】にまみれた【発想】でしかない』ことになるのです。

 つまり“【攻略法】的【創作論】”というものは『【作品】の【補強】』にこそ有用ではあれ、『【作品】の【中核】』に【適用】するには『とっくの昔に【陳腐化】している』ということです。

 以上の【事実】を踏まえて【観測】してみるに、こういう【事実】が見えてきます――『【ワクワク】して【創作】を楽しんでいる【作者】ほど、実は【挑戦】していることが多い』。
 もっと申せば、『【ワクワク】して【創作】を楽しんでいる【作者】は【挑戦】を(そうと【認識】しているか否かは別として)積み重ね、自分の【作品】に合う【方法論】を【開発】していく【過程】をこそ楽しんでいる場合が多い』ということです。

 「『楽しんでいる』だって? わざわざ【挑戦】とか【開発】とか、苦労するのに?」という疑問をお持ちになる向きもありましょう。ですが私の見るところ、『【ワクワク】して【創作】を楽しんでいる【作者】』、その大部分が重きを置いているのは、実はそこではありません。

 彼らが楽しんでいる理由というのは、『そうやって形にしていくのが【自分】独自の【作品】であり、そのための【方法論】だから』です。
 もちろん“【攻略法】的【創作論】”を参考にはするわけですが、問題は『【応用】や【発展】を楽しむこと』、あるいは『【応用】や【発展】の【結果】として、【自分】独自の【方法論】を【開発】できていく、そのさまを楽しむこと』なのです。

 『【自分】独自の【作品】や【方法論】を【開発】していくこと』そのものは、つまり『【他人】には真似できないもの』を【開発】していくことです。これが【面白い】となれば、【作者】自身は【他人】と差別化が、しかも望む(【ワクワク】という)方向で実現できることになるわけです。

 何が嬉しいかといって、実はこれは他でもない『【自分】を【承認】(【自己承認】)していく【過程】』を辿っているのです。『【自分】が贔屓目も妥協もなく(ここ重要)喜べるものを【自分】自身で作れる』からには、【自分】の【存在意義】が、【自分】の中で明確に形となるわけですから。

 もちろん【お手盛り】で自作を褒める【手前味噌】のようなごまかしは【自分】自身に筒抜けです。なので、この【存在意義】や【自己承認】は、ズルで手に入る偽物とはわけが違います。
 ここで手に入るのは、贔屓目も妥協もないことを、他ならぬ【自分】自身が嘘偽りなく証明してくれる、『正真正銘の【自己承認】』なのです。【承認欲求】に懊悩することを知るこの身としては、この【価値】の重さに【納得】するしかありません。

 ◇

 さて、今回はひとまずここまで。

 私の【観測】するところ、というただし書きを付けてではありますが、『【自分】独自の【作品】や【方法論】を【開発】していくこと』というのは、『【自己承認】を伴って【創作】を楽しむこと』でもあるわけです。そしてここには、少なくとも【作品】の【中核】部分においては、“【攻略法】的【創作論】”の出る幕はありません。
 となると逆に、“【攻略法】的【創作論】”は、【作品】の【中核】として受け入れれば受け入れるほど、【不都合】が生じてきそうでもありますね。
 次回はこの点を掘り下げて参りましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(次の記事)

(マガジン)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?