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【自己満足】と【シラケ性】(第2回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、ここのところ以下のような【心の声】について考えております。

『それって単なる【自己満足】じゃない?』

 【我流】なりにこの【心の声】に向き合うに。

 まずはこの【心の声】、私は【シラケ性】と称しております。要は『何事に対してもノレない、醒めた【心理】』というところ。
 【自己満足】も【シラケ性】も、【ニュアンス】としては必ずしもいい【印象】と結び付いてはおりませんが。

 ただし【絶対悪】というわけでもありません。さらには【作者】としての【自分】の【心理】に湧き上がってくるものでもあります。

 ならば、ものは使いよう――というわけで、これから向き合い方を【考察】して参りましょう。

 ◇

○【考察】:【シラケ性】

 ではここで、【シラケ性】について掘り下げてみましょう。

 先述しましたが、“【面白く】感じないもの”に【ノリノリ】である【必要】は、もちろんありません。よって【シラケる】ことがある――ということ自体は、むしろ【自然】とさえ申せましょう。

 ですが一方で、【趣味嗜好】に【個性】や【相性】が【反映】されるのも【事実】です。つまり『【合う/合わない】の【相性】は【確実】に【存在】する』という【事実】は、【大前提】として踏まえておく【必要】があります。
 何かと申せば、『【自分】が【シラケる】からといって、【他人】も同じとは限らない』ということです。同時に、『【自分】が【盛り上がる】からといって、【他人】も同じとは限らない』ということでもあります。

 つまり、『【自分】の【感性】やそれに基づく【価値観】は、【万人】に通じるとは限らない』という【大前提】が厳然と【存在】することになります。
 なので“【自分】を疑う【姿勢】”は極めて【重要】ですし【価値】もある――ということになりますね。『【自分】の【感性】も【価値観】も、【他人】の【心理】を【支配】する【絶対的基準】などではあり得ない』というわけです。

 であるからには、『【シラケた】からといって【他人】を【馬鹿】にする【姿勢】』には、【価値】を感じる【必要】などない――ということになりますね。それどころか『“【他人】を【馬鹿】にする【姿勢】”は、“【自分】を【馬鹿】にする【心理】”を【誘発】する【ブーメラン】』ですらあります。

 『“【感性】や【価値観】の違い”を【馬鹿】にするからには、同じ【根拠】で【馬鹿】にされる』というのは【当然】というもの。
 であれば、『常に誰か【他人】から【シラケられ】、同時に【馬鹿】にされている【状態】』というものを受け入れざるを得なくなります。さもなくば、『普段から【自分】が取っている【言動】を、【他人】には禁じる』という、【身勝手】で【不誠実】な【自分】を突き付けられるわけですから。
 いずれにせよ『【卑小】な【自分】の姿』に向き合わされるわけで、これを私は“【自己卑下】の【地獄】”、その【一形態】と捉えております。

 つまり私は“【他人】を【馬鹿】にする【姿勢】”を、“【自己卑下】の【地獄】へ堕ちていく【自滅】の【姿勢】”と【認識】しているわけです。『【シラケ性】を【根拠】に【自分】を疑いはすれど、【他人】を【馬鹿】にすると痛い目をみる』というわけですね。

 何のことはない、『【シラケる】ということは、それ単体では何ら【自慢】になり得ない』というわけです。

 と、【シラケ性】が抱える【恐ろしさ】は踏まえた上で。
 多少【厄介】ではありますが、この【シラケ性】は全くの【疫病神】というわけでもありません。“【自分】を疑う【姿勢】”へ導いて、『【創作】を初めとした【アイディア】を【俯瞰】、【検証】する【姿勢】の【原動力】』としてみれば、さてどうでしょう。【自分】の【感覚】に【修正蛇】を当てていくための【羅針盤】としていく、という【活用】も【可能】になるわけですから。

○【考察】:【自己満足】

 さて。
 【シラケ性】を掘り下げたからには、【自己満足】についても掘り下げてみましょう。

 先述の通り、【シラケ性】は、それ単体で【自慢】になることはありません。ありませんが、ならば【自己満足】さえあればそれでいい――などということにもなりません。

 もちろん【自分】一人で【完結】することなら、【自己満足】に【文句】をつける筋合いはありません。ですが【他人】が関わることなら、例えば『【作品】を【観客】に【観賞】してもらいたい』、さらには『【作品】を【観客】に【評価】してもらいたい』というなら、その時点で【自己満足】“だけ”では済まなくなるものです。

 なぜなら、“【他人】を巻き込んでいながら、【自己満足】だけを【追求】する【姿勢】”にあるのは、実は“【自己満足】を重んじる一方で、【他者満足】を軽んじる【姿勢】”だからです。これは即ち“【搾取】の【姿勢】”であって、つまるところ“【不誠実】な【姿勢】”そのものなのですから。

 と、こうして観てみれば。
 【搾取】の【逆】、つまり『【Win-Win】が【肝要】』ということができそうです。“【他人】から【搾取】する【姿勢】”はもちろんろくなものではありませんが、同時に“【自分】が【搾取】される一方の【状態】”では【自分】の【モチヴェーション】が保ちませんから。
 であるからには、この【Win-Win】に【自己満足】を当てはめる際には、そこには同時に【他者満足】もなければならない――というわけです。

 実はこれ、一種の【救い】でもあります。何かと申せば、『【自己満足】を追求したいなら、同時に【他者満足】もまた追求して【共存】させればいい』ということでもありますから。もちろん【共存】が【容易】とは限りませんが、少なくとも『“【自己満足】を押し殺すこと”だけが【正義】ではない』とは言えるわけです。

 要は、『【シラケ性】も【自己満足】も、接し方次第、やり方次第』ということになりますね。

 ここまでで、【シラケ性】は【俯瞰】や【検証】に役立てて、その上で【自己満足】と【他者満足】を【共存】させる――という【方向性】を【認識】した上で。今度は【具体的】な【方策】へ【考察】を巡らせて参りましょう。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 実は【シラケ性】は、【自分自身】を【俯瞰】、【検証】する役に立てることが【可能】です。また【自己満足】は【他者満足】と【両立】させて【Win-Win】に持ち込めばいい話。
 つまり接し方次第、やり方次第というわけですね。

 次回はここから【発展】させて、【具体】へと【考察】を巡らせて参ります。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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