【芝居】の【描写】、その【効能】(第15回・完結)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、ここのところ“広義の【芝居】”、つまり私が好んでよく用いる【描写】について、【我流】なりに【考察】を巡らせております。
私の【認識】するところ、“広義の【芝居】”の【役割】は、「全部【理解】して欲しい!」という【心理】から生じる【問題点】、この数々から【作品】を守る――というものです。
その【問題点】の少なくとも一つは、『【作者自身】が【作品】を“心に響かない【説教】”に仕立て、さらには【作者】の【姿勢】についても「口(【言葉】)だけ【達者】で、【奥深さ】を持たない」と見せてしまいかねない』というもの。
ではなぜ、“広義の【芝居】”でこの【問題点】から【作品】を守ることが【可能】になるのか。
実は「全部【理解】して欲しい!」と言わなければ、『“【優先順位】の低い【情報】”は、“伝わらない【観客】には伝わらなくてもいい【表現】”で示す』と考えることもできるというもの。であればこれは、【奥深さ】を表す上で『口(【言葉】)だけで終わらない』、つまり【間接表現】を扱えることになります。
そして私なりに申せば、“広義の【芝居】”とは、『【表現意図】を“【動き】という【間接表現】”に【翻訳】したもの』です。
こう割り切ってみると、今度は【表現】をある種の【基準】をもって大別することができるようになっていきます。
即ち、『【表現手法】として【静】と【動】、どちらを重んじるか』。
例えば「全部【理解】して欲しい!」ための【直接表現】となれば、それは【作者】の気が済むまで、その一瞬の【状態】を【記述】することになります。そこに【時間】の【流れ】が織り込まれるわけではなく、ゆえにこれを“【静】の【表現手法】”と、私は【認識】するわけです。
では、私が“【動】の【表現手法】”と位置付ける【芝居】はと申せば。
“【芝居】という【動き】”には“【登場人物】や【物体】の【主観】や【行動原理】(複数)”が【間接表現】として埋め込まれています。その【状態】を例えるなら“【不可逆圧縮】の【エンコード(暗号化)】”ということが観えてくるわけです。
もちろん【不可逆圧縮】ですから、【観客】全員が【デコード(復元)】できるわけではありません。ただ、『そこに込められた【意味付け】が(複数)【存在】する』という【間接表現】としては伝わりやすくなります。これは【現実】に【存在】する【奥深さ】にも通ずるものですね。
もちろん、【容易】な【表現】とは申しません。
“広義の【芝居】”は【登場人物】の【人格】、ひいてはその【背景】にある【作品世界】全体の【原理原則】を踏まえて、それを【エンコード(暗号化)】した上に成り立っているわけですから。
ただし、だからこそ『“【表現】に際する【容易さ】を求める【作者】”の【作品】からは【差別化】しやすい』ことになりますね。
この【位置付け】とその【難度】を踏まえた上で。
“【動】の【表現手法】”として“広義の【芝居】”を捉えるに、【我流】の【定義】は、“【シーン(状況)】の【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”です。これは【シーン】の【存在意義】を踏まえれば、自ずと【優先順位】は定まります。
そして“【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”であるからには、“【時間経過】の【表現】”は【不可欠】ということになりますね。
ここで『“【動】の【表現手法】”としては、“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】する【必要】に迫られる』ということになりますが。
これを“【静】の【表現手法】”、つまりは“【表層】の【直接表現】”としようとすると、『【動き全体】を一つの【塊】として括れない』ことになります。
となると、【動き】の全体と細部一つ一つ、それぞれに込められた【意図】をはじめ、そこにある【情報量】は【膨大】になります。しかも全てを【表層】で【表現】することになるわけです。つまり【表現】として【現実的】ではなくなります。話が全くと言っていいほど進まなくなりますから。
ここに“【行間】の【表現】”を用いる【必要性】は【確定】、よって【間接表現】としての“広義の【芝居】”は【存在意義】を【確定】するわけです。
また、“広義の【芝居】”という“【動】の【表現手法】”においては。
『“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】、【再現】する』からには、【作者】は“【作品世界】の【現象】”に入り込んだかのごとく、つまりは【演者】と同じように【役作り】と【演技】を(【物理的】な【動き】を【再現】する【寸前】まで)【展開】することになるわけです。私が“広義の【芝居】”という【表現】を用いる由縁ですね。
もちろんここまで【動き】にこだわるのは、私なりに考える【意義】あってのことです。
ヒトを含む動物の“【本能的】な【特性】”まで【考慮】に入れるなら、【動き】というものは【意識】を惹き付ける上で極めて【有用】です。ならば【描写】の上でも【利用価値】は大きいことになりますね。
さらにここまでの内容を踏まえるに、ここで取り上げる【動き】は『【心理】や【背景事情】などをも【間接表現】として込めた“広義の【芝居】”』となります。
“生きている【人間】としての【動き】”をその【心理】や癖と絡めて引き出したならば、【観客】の【意識】には『単なる【記号】ではなく、生きた【人間】の姿とその【動き】』として映りやすくなるのでは――という、これは私の【考え方】です。
ただし、注意点があります。
【科白】も含め、『【動き】でさえあれば何でも“【動】の【表現手法】”として【上質】たり得る』などということはありません。
『【手っ取り早く】でっち上げた【表現】から、込めてもいない【間接表現】が匂い立つ』などということは【期待】しようがないのです。
ここで私として【予想】するのは、『じゃあ【間接表現】の【利点】だけ手に入れよう』という【発想】ですが。もちろん私はお勧めしません。
【間接表現】の【利点】だけ手に入れて、【主力】は【手っ取り早く】扱える【直接表現】にしよう――としてしまうと、今度はそもそも【間接表現】の【利点】そのものを損ねかねないからです。
例えば【実例】として、【広告】に着眼してみれば。
【実際】のところ、『【上質さ】を【表現】しようとする【広告】ほど、【直接表現】を【排除】して【間接表現】で【奥深さ】を【表現】しようとする』もので。
これは『【自画自賛】や【手前味噌】というものが、いかに【薄っぺらく】映るか』を考えてみれば腑に落ちるというもの。
ここで【間接表現】、中でも“広義の【芝居】”は、【底知れなさ】や【奥深さ】を【表現】する上で【好相性】で、かつ【面白く】魅せる【演出】に対しても【好相性】――と私は捉えているわけですが。
この【演出】と【芝居】、両者の【相性】については。
私の【認識】するところ、【媒体】を問わず、【演出】として強いのは『“【膨大】な【背景情報】”の中にある、【焦点】というべきものを絞り込んで浮かび上がらせていく』という【流れ】です。これを“【現実】と同じ観え方”、即ち【現象】として描けば、【現実】に準ずる【存在感】や【説得力】を得られることになります。
ここで【流れ】とは“大中小の【物語】”の向くところであり、また“【動】の【表現手法】”即ち“広義の【芝居】”の向くところでもあります。また【現象】という形も、“広義の【芝居】”に向くものですね。
さらに『【焦点】を絞り込んでいく』には、当初は【焦点】より広い【背景情報】を【提示】する【必要】に迫られるわけで。ここにも【間接表現】として“広義の【芝居】”が【有用】ということになります。
では、ここからどう絞り込んでいくのか。
前回はこの点についてお話ししました。
【観客】の【心理】に生じる“【不正確】な【理解】”を、【作者】として【一時的】に受け入れたなら。この時、“【解釈】の幅を許す【弱い表現】”が【実現】できることになります。
この場合、【観客】には【表現意図】を『ぼやけて【認識】されている』わけですが。しかし『“【焦点】へ向かって【収束】させていく”【流れ】』を【演出】する上では、“【収束】の【前準備】”としてむしろ【好都合】です。さらに【弱い表現】では【観客】の“【不正確】な【理解】”もまた弱いままです。つまり修正のハードルも低いわけで、こうした【弱い表現】を【重ね合わせ】ていくことで、今度は『【焦点】が絞り込まれていく【過程】』までもが【観客】に【認識】されやすくなるというもの。
となれば【作者】が【客観】に徹するのは、【弱い表現】としても【現象】としても【有利】、その【重ね合わせ】で“【焦点】を絞り込んでいく”という【物語】としても【有利】、ということになりますね。
今回はここまでの【考察】から、【芝居】の【本質】をまとめてみましょう。
◇
○【芝居】の【本質】と【n題噺】
ここで“広義の【芝居】”の【本質】をまとめるなら、『その場その場の【言いたいこと】を【具体的事象】に【エンコード(暗号化)】すること』ということになります。
【言いたいこと】を言い換えると“【要約】あるいは【小テーマ】”、【具体的事象】を言い換えると“【具体的】な【言動】や【現象】”というところですね。
ここで【言いたいこと】即ち【要約】や【小テーマ】とは、“【作者】にとっては生の【情報】”です。ですので、【作品世界】の“【現象】”へと【エンコード(暗号化)】するには【コード表(暗号表)】が【不可欠】ということになります。
この時、【コード表(暗号表)】に【相当】するのは、『主として【現実】に【存在】する【事実関係】』です。
この【コード表(暗号表)】に基づいて行う【エンコード(暗号化)】というものは、『【役者】が【脚本】から汲み取った【言いたいこと】を、【作品世界】内での【具体的言動】として【エンコード(暗号化)】する【行為】と【同等】のもの』です。
つまりはここで言う【エンコード(暗号化)】というものは、『【作者】が【役作り】や【演技】を(【脳内】でとは言え)実行して、それを【表現】へ写し取る』ことを【意味】します。
ここで【役作り】は『【登場人物】(ここでは【現象】も加えて)の【膨大】な【背景情報】とその【行動原理】や【法則】を(【感覚的】にせよ)【理解】して、【作品世界】における【具体的言動】(や【具体的現象】)の【原理原則】とすること』、【演技】は『【シーン】を含む【物語全体】の【背景情報】に則って、【言いたいこと】を【具体的】な【言動】や【事象】へ【エンコード(暗号化)】すること』を【意味】します。
実際は『【役者】が【物理空間】で実際に【動き】を【再現】する、その【寸前】までを【作者】が実行する』ことになりますね。これを【登場人物】だけでなく、【現象】全般でも行うわけです。
早い話が、【作者】としては『【脳内】にある【作品世界】の【現象】全般を【シミュレート】する』わけです。なので『【作品】において【描写】するのは、【芝居】そのもの』、ということになりますね。
この“広義の【芝居】”のための【具体的】な【鍛錬】としては。
考えられるのは、『【シーン(状況)】における【具体的事象】のみを【全て再現して書き出してみること】』というところです。
ただし【前提条件】があります。『【内心】を【表現】するなら、“【内心】の【説明】”に頼ることなく、全てを【具体的事象】(【内心】を隠す、という【選択肢】も含む【言動】)に置き変えること』というもの。これは『【仕草】全般を含む【間接表現】の【解像度】を上げつつ、同時に【間接表現】の【選択肢】を増やす』という【目論見】に基づくものです。
もちろん【実際】に“【作品】としての【描写】”を構築する【過程】は、これそのままではありません。
こうやって洗い出した【具体的事象】から、まず【象徴的】なものを選び出します。そこに【演出】を加えて【事象】を【再構成】した上で、それを【エンコード(暗号化)】し、【描写】として写し取る――ということになります。
ここに【直接表現】と映るものがあるとして、それは【再構成】した【事象】を【表層的】にまとめるためのものでありましょう。ただしそれは『“相応に【背景情報】を背負った【間接表現】”を、【必要】に応じて括ったもの』ということになります。なので、この【表現】は(見かけはともかく)【実質】は“【間接表現】の一環”ということになりますね。
もちろん『【具体的】な【実例】から学ぶ』のは、ここでも【鍛錬】の一部として【有効】な【やり方】です。
ここで私が挙げるのは、『(良質と感じたら)一本の映画を十回観ること』(淀川長治氏の名言より)。
【登場人物】の【心理】を含む【背景情報】を【読み取り】つつ、その【解像度】を上げ、【背景情報】に【対応】する【言動】を(それこそ【微細】な【仕草】や【間】まで含めて)取り込む――というわけです。
そうやって【読み取った背景情報】を踏まえながら【観直す】ことで、さらに新たな【背景情報】を読み取る――という【鍛錬】で、これを繰り返すというわけですね。
ただし、これで【充実】を図れるものは、あくまでも【芝居】のための【コード表(暗号表)】です。実際に【作者】として【自分】なりの【芝居】を構築するには、【実践】で【鍛錬】するしかありません。
【芝居】を【実践】する上で、私が役立つと考えているものは【n題噺】です。n個(nは整数)の【背景情報】を【お題】として、“【シーン】という【小物語】”を実際に構築するわけです。
この【n題噺】では【言いたいこと】も【お題】の一つですし、【背景情報】もまた【お題】のうちです。そして私の【認識】し得る限り、【n題噺】には“鉄板の【攻略法】”など【存在】しません。その時点までで観てきた【良質なシーン】を【手本】とするのがせいぜいで、最終的には【作者自身】が【感覚】で【腕】を磨くしかない――と、私は捉えております。
こういった【鍛錬】の【効能】をまとめるなら、『“【言いたいこと】から、描くべき【具体的事象】を【逆算】、それら【事象】を【お題】として【n題噺】へ【エンコード(暗号化)】する【能力】”を【発展】させる』ということになりますね。これが【我流】で【芝居】を構築するためにお勧めする【鍛練】です。
○まとめ
ここまで、私の考える“広義の【芝居】”について、【効能】と【実践】を【考察】して参りました。
もちろん一朝一夕で【可能】になるとは申しません。向き不向きもありましょう。が、【鍛練】の【結果】として得られるであろうものも小さくはありません。
【価値】を感じていただけましたなら、【挑戦】してみる【意義】もあろうかと存じます。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。