カッシーニの間隙

 「ねぇねぇ、知ってる?」

 「何が?」

 「土星ってさ、真ん中に丸い星があってその周りに環があるでしょ?」

 「…うん、そうだね。」

 「で、実はこの環も内側と外側に分かれててね、その間の隙間のことを「カッシーニの間隙(かんげき)」って言うんだって!」

 「…うん、いきなりだね、それがどうしたの?」

 「…はぁ…なんで男の人ってすぐに結論を求めたがるのかなぁ?」

 「いやだって…別に天文学を勉強してるわけじゃないし、未沙希も僕も別に星になんか興味無い…」

 「昨日クイズ番組で言ってたの!…なんか知ってたら頭良さげだなーと思って、そしたらカズくんが「えー!?すごーい!?未沙季は物知りだね!」って褒めてくれると思ったのにぃ。」

 「「知ってたら」って…いつも僕が「〜したら」「〜すれば」って言うだけで未沙希怒るじゃん。」

 「カズくんの言う「たられば」は優柔不断な感じがして嫌なんだもん!
いつも「お金持ちだったらな〜」とか、「今日はカレーにすれば良かったな〜」とか!なんかナヨナヨしてる感じがして……ってもうこんな時間じゃん!カズくんのせいで授業遅れちゃうから、走っていくよ!早く行こうっ…」 

 「う、うん…(今のはなんだったんだ…)」

 季節は冬、都心で生きてきた人間としては街行く人が吐く白い息と、やり過ぎなまでのクリスマスツリーなんかで心が躍らされることなどは無かった。

 いつも買う缶コーヒーは甘めのカフェオレで、タバコの火を燻らせながら遠い空を見るのが俺は好きだったのである。

 その時ちょうど午後6時、冬の空は星が綺麗でこんな排気ガス塗れのところでもちょっとは空気が澄んでいるのが伺えた。

「…見えるかもな…」

 ポロっと一人で呟いた言葉を、自分の中であわよくばな願いに変換させながら帰路に着くことにした。

 毎年この時期になると家の物置から型落ちした望遠鏡を取り出して、天体観測をするのが習慣になっている。

 最初はピントを合わせるのにも手こずり、おまけに方角もろくに分からずにどこにどの星が、自分の家からどんな星が見えるのかさえも把握できていなかった。

「…よいしょー…準備OK…」

 望遠鏡がセットできたら、次は飲み物とお菓子の準備に取り掛かる。
 飲み物は前述の通り俺は甘めのカフェオレで、彼女はレモンティーというのが二人の間では定番だった。
 お菓子は適当にスーパーで買ってきたどこにでもあるクッキー。チープな味がお互い謎の安心感があって好きだった。

 一通りの用意が出来たら僕は対象物と望遠鏡のピントを合わせレンズの倍率を徐々に上げていく。するとだんだん、だんだんハッキリと見えるようになってくる。

 「…見えるよ…これまた綺麗な環だなぁ…」

 毎年見ているこの土星。

 何回見ても美しいのだが、その美しさの中に感じる冷たさのようなものにいつも、背筋をなぞられているような気がして、どうも落ち着かなくなるのが少し気持ち悪かった。
 
この瞬間だけは、毎年心が慣れていく事はなかった。

 俺は思わず土星に見惚れてしまい

 「綺麗だね」

 と、ポロっと口にしてしまった。

 その言葉を咀嚼してから

 「そうだね」

 と、優しく語りかけてくれる彼女の、張りがあって、妙に耳馴染みのあるあの声が、返ってくるわけでもなかったのに。

 簡潔に言うと、相手の車の前方不注意だった。

 俺があの時未沙希を褒めていたら。

 何気なく、理由も無しに抱きしめていれば。

 そういう風に考えれば考える度に、「たられば」で叱られてた日々を思い出す。その度に胸がキュッと締め付けられる。そして僕は毎年この切なさを冬の寒さのせいにしている。

「おうおう…めちゃめちゃ見えるぞ…カッシーニのなんちゃら…」

 遺体に会いに行くと彼女の家族が泣き崩れて立ち上がることが出来ないようだった。
 僕はスッと彼女に近づいて顔を覗くと、まるで寝ているかのような、美しく凛々しい顔をしていた。
 今にも体を起こして「騙されてバカだね〜」と、満面の笑みで、そう投げかけてくれそうだった。

 でも体は冬の空気と同化しているかのように冷たく、見つめ合い寄り添っているだけでいつも速くなっていた心臓の鼓動も、生命のコンセントが抜かれたかのように止まっていた。
 
 その当時、状況を受け止められずに喜怒哀楽の機能が一時停止していた僕は、「カナシミ」の為の涙を流すことすらできなかったのである。

 そして彼女の在るべき姿とお別れをする直前に、ふとあることに気がついた。

 それは彼女の左足首にはめられていたアンクレットだった。

 金色のシンプルなデザインで、そこにはちょこんと丸い何かがあしらわれていた。

 「…土星だ…」

すると何回か会ったことのある彼女のお母さんが、鼻をすすりながら僕にこう伝えてくれた。

 「…未沙希ったらね、カズくんと付き合う前から私に

「この前のサークルの新歓でね、めっちゃかっこいい人がいて、「そのアンクレット、かわいいね」って褒めてくれたんだ」 

「もしもその人と両想いになれたら右じゃなくて左の足首に着けれるのになぁ」

って、嬉しそうに話してくれたの。

 それで初めてカズくんがウチに来てくれた時あったじゃない?その時にこっそり 

「アンクレットはもう付け替えたの?」

って聞いたら

「もちろん!」

って答えてくれてね…あの時の未沙希の顔がもう…一番輝いててね…」

 それはサークルの新歓の時に、当時はアンクレットというものがオシャレなのかどうかも分かっていなかった俺が、かわいくて気になっていた彼女に投げかけた一つの「きっかけ」でしかなかったのに。

 いきなりだった土星の問いかけも、彼女が僕に対して抱いてた想いを、恥ずかしさと照れ臭さというオブラートで何重にも包んで伝えてくれたモノだったのに。

 こんなに君の事を想っていても、君はもう帰ってこないのに。

これも毎年の事なのだが、望遠鏡をのぞいているといきなりレンズがグニャッと変形したかのように、眺めていた土星が原型を留めなくなることがある。そのトラブルは自分の瞳から溢れる涙を拭う事で解決されるという事は、彼女は知る由もないだろう。

 そんな感傷に浸っていると、夜が明け、また新しい日が差し込んできた。
このまま彼女との思い出を胸に抱いたまま、来年も再来年も、この先ずっと、眺めてる途中に歪んでしまう土星を見つめ続けるだろう。

そして僕が人生の最期を迎え、君の元にたどり着いた時に、君と僕という環の間にあるカッシーニの間隙(かんげき)は、これ以上のない愛で埋めつくされていくのかもしれない。

        終

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?