ごく当たり前の日常を送ることの難しさ
最近、ツィッターで新しい肩書を目にする機会が増えた。○○ライターや○○ブロガー、アフィリエィト等、かつては職業として成立しなかったものが、職業として成立する時代になった。現代を生きる我々はネット中心に生活が回っており、今ではネットの存在は我々の生活に必要不可欠なものとなった。こうしてみると、私たちは激変する社会の中を生きているのだと痛感する。
ツィッターを見ていて特に目に付くのが、意識の高い、成長意欲に溢れる人たちだ。彼らは成長志向がとても高く、一日に何十ツィートするとか毎日1記事ブログを書くとかいった目標を掲げ、それを達成するよう努める。とかく、様々な目標を設定し、それに向かって邁進する。んー意識が高い。高すぎる。彼らの行動ぶりを傍から見ていると、生きることに何故それほど必死になっているのかと思わざるを得ない。ツィートの投稿やブログの執筆をしなかったら死ぬのであろうか。SNSをしなくとも別に死にはしない。それに彼らは自分の意思によって文章を書き綴っているのだろうか。周囲の情報に感化されて、焦燥感や強迫観念からそれらの行動を取っているのではなかろうか。仮にそうだとすると、ツィッターやブログをやりたい人なんて母数的に見れば、ほんの少数だということになる。
僕が気になるのは、そういった意識高い系の人間ではない。僕がここで取り上げるのは、さしたる目的も持たず、只々生きているだけの人たちだ。昨今のネット事情を見ると、彼らのような平穏な生活を送っている人たちは、今のSNSの世界に馴染めないのではないか。彼らがこの世界に参入するのに許しの空気は少しも流れていない。インフルエンサーをはじめとする大多数の人たちの価値観が是とされていて、成長意欲も持たず、恙無く生きるという価値観が真っ向から否定されているように思うのだ。インフルエンサーと称される人やそれに取り巻く人たちと正反対にある彼らは、非常に肩身の狭い思いをして社会の隅の方へ追いやられているのが現実である。僕は、目標がなければそれはそれで良いと考えているので、目的のない人乃至目標を持とうとしても持てない人は無理に目標を持つ必要はない。目標のないままのんびり生きていけば良いのではないかと個人的に考えている。そんな人は、インフルエンサー等が唱える「自由時間は自分の成長の為に使え」とか「アウトプットが大事、有益な情報を発信しまくれ」といった考えを盲信して、それを実行しなくてよい。何かやりたい事があるわけでもない癖に無理してツィッターをやったり、ブログを書いたりするのは偽りの生き方で、自分で自分を苦しめることになる。そんなことに自分の時間を割くのは絶対に止めた方が良い。
非常災害によって日常の恵みを実感する
災害や緊急事態が発生すると、命の重みや有難みに気づかされる。一日三食の食事を取って風呂に入って眠れることがどれだけ恵まれたことなのか、否が応でも実感できる。災害に見舞われた人はもちろんのこと、被害に遭っていない人も生きていることの喜びや幸せをこの瞬間に噛みしめる。普段の日常生活は、平行線の道を走ってばかりいて、起伏の激しい道を歩むことはあまりない。人生は、平凡な日常の連続で成り立っている。そこには特別なイベントが起こるわけでもなく、華やかな日常で彩られるわけでもない。けれども、最低限の日常生活を送ることは保障されている。実は普通に生活できる事は物凄く幸せなことなのだ。でも、現代人はそれだけでは満足できないらしい。承認欲求とか目に見える評価の数値を気にして、自分の考えている事とは対極の事をなして、自分の精神をすり減らしていく。有名、無名問わず、誰しもがありふれた日常を過ごす権利を有している。しかし、その有難みに気づくことはない。それは毎日の生活を送る上で既に当たり前のこととなっていて、その日常が失われることがないからだ。日常が危機に瀕するようなことがあったら、平凡な生活は実はとても恵まれたことだったんだと後で気づくことになるだろうか。こんなことを考えていると、普通に生きるのは簡単なようでとても難しいのだと思えた。