神を斃す日
僕は神を生み出しやすい。
正確には生み出しやすかった。
幼少時、親や先生を万能の神のように感じる人がいるという。
まだ小さい世界の中で、その世界を統率し、自分より圧倒的に力を持つ者を神格化してしまうということらしく、なるほど、それはまさしく人の考えた神の在り様であって頷ける話だ。
だが、僕の場合は違った。
記憶に無いほどの幼いころは分からないが、親や先生を神と感じたことは無かった。彼らが神の如き権能を持たないことを理解していたのだと思う。嫌な子供。
だが代わりに、身近な友人などを神格化してしまうことがままあった。
幼い頃の僕は、尊敬する人物に対して行き過ぎた畏敬の念を抱く傾向があった。親などを尊敬していないわけではなかったと思うが、どういうわけか、自分と近しい存在ほど崇め奉ってしまっていたと感じる。
自分と変わらない年齢でありながら、何らかの能力の高い、尊敬できる人物であることに過剰に反応していたのかもしれないし、神格化してしまうことどで自分とある意味で切り離してしまいたかったのかもしれない。
尊敬と、敬愛と、親愛と、そうした感情が未分化だった可能性もある。
ともあれ、僕は今までで5、6柱の神を生み出していたと思う。
日本には八百万の神がいるが、人間の人口は一億を超えているので、僕はかなり多くの神を生み出した方だと思う。
神は皆、信者である僕に親しく接してくれた。僕もそれをありがたく享受して過ごしていた。神はどうか知らないが、僕は信心深く神を崇めていた。
だが、人と神は分かりあうことはできない。
神の方は勝手に神にされているだけだから分からないが、僕のなかでは自分と、神との間には絶対な距離があった。
例えば、自分が神になんらかの影響を及ぼしてしまうことを恐れた。
自分の信仰する神を自分で汚したり、神の座から引きずり下ろす人間がほとんどいないように、僕もまた、神を遠巻きに眺めるようになっていた。
かくして、神と僕の間には絶対的な断絶が(一方的に)生じることとなる。
「憧れは理解から最も遠い感情」という言葉があるが、それが崇拝であればなおのこと理解からは遠い。崇拝する対象を理解し、分析するなどおこがましい。
そうして生じてしまった神との距離を、友人としての自分は不満に感じていたが、信者としての自分の厚い信仰心の中にそうした感情は埋もれていった。
神は皆、神らしく寛大であり、その距離に気づく神もいたが、それを咎めることなく赦しを齎してくれた。くだすった。
今考えると、我ながらひどい話である。
神は、友人たちは、僕とただ親しくしたかっただけなのだ。
それを僕が、神として柱に閉じ込めることで断絶をもたらしてしまった。
本来では神ではない、人間の、すべてを受け入れることを拒んだのだ。
自分が神を汚すことを恐れ、神との接触を控えたのだ。
悪意ならばまだいい、善意を越えた信仰として距離を取られてしまっては、本当は神ではない神にとってどうすることもできない。
出来る人もいるかもしれないが、僕の生み出した神のなかにはいなかった。
もし僕が逆の立場であれば、そう考えると、その哀しみは筆舌に尽くしがたい。
そうして、僕はある時から神を生み出すのをやめた。
生み出しそうなときは神の神ではない部分を探すという最悪だが効果的な方法を用いていた。
だが、まだ神はいるのだ。
長い年月をかけて莫大な信仰を得た強力な神はいまだに存在している。
僕はこれから神を殺していかなければならない。
神を人へと戻さなくてはならない。
まだ機会はある。調子のいいことを言うが、どうか寛大な心で赦しを、もとい許しを得られることに期待していきたい。生きたい。
そして、神よ。
無いとは思うけれど、もしこれを読まれていたのならば待っていていただけないだろうか。
求めていることではないかもしれないが、必ず神の座からあなたを引きずり下ろす。
それまで、どうかこの愚かな信者を見捨てないでいただければ、何よりの幸いです。