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飛騨高山ジャズフェスティバル(2022/5/21)に行ってきた.落合陽一を目の前で見た.

この記事は5月21日,飛騨の里にて開催されたHidajazzの感想である.開催から一か月,大変な遅滞となり非常に申し訳ないが,ジャズファンで,傍らメディア論を学ぶ一学生の視座は,その横断性から落合陽一先生(以後敬称略)と,ジャズ双方に責任があり,当時の肌感を正確に記述する必要があると考え,可能な限り思考の記録として純粋な表現を求め,推敲を続けた.記憶を反芻するついでにご拝読頂ければ幸いである.


まえがき

ぼくには前から気になっている研究者がいた.落合陽一である.これはなぜかと言えば,大学の尊敬する先輩がたびたび落合陽一に言及して話をすることがあって,彼をよく知らないぼくは首を傾げながらぼんやりと首を縦に振るのであった.とりあえずその日は帰ってTwitterのフォローだけした.そして後日,本を一冊読んだ.素直な感想は,難しさに気を取られて内容が頭に入ってこなかった.語彙セットがあまりにレベルが高い.とてつもなく難しい.これが読めるのが大人だとしたら,大人という存在はどれだけ偉いんだろうと気が遠くなった.

そんなこんなでTwitterのフォロー状態だけが残った.

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5月某日,Twitterタイムラインをおもむろに眺めていれば,彼がジャズフェスに参加するという,DJとして.

落合陽一 meets ジャズ!?

これは面白い,ジャズファンのぼくにとって,なんたる朗報かと体が震えた.一生交わるでないだろうあり得ないコラボだ.落合陽一はジャズミュージシャンではないから,どのような形でジャズフェスという箱に収まるか,今にも知りたくなって土曜日朝の列車で東京を飛び出した.


いざ高山

東京を飛び出して,名古屋までN700Sこだまのグリーン車.JR東海ツアーズの出している安売りの切符を使っているため,正規料金の普通車よりも安い.酒はフェス内の楽しみにとっておいて,お茶と軽食をさげて乗車.

特急「ひだ」への乗り換えのため名古屋駅で下車.駅前のきしめんがおいしい.今度は冷のきしめんも試してみたい.想像を超して熱かった.

おろし大根がいい味出してた

特急ひだに乗車する.名古屋駅で仕切りのある長椅子を発見,敵対的アーキテクチャの好例だと思われる.

排除アート

令和の最新鋭の新幹線から一転,昭和の匂いかぐわしい気動車に乗り込んで数分,ドアが閉まって発車.それも逆向きに.誰が進行方向に進んでやるかという気概をもって特急ひだは逆向きにぐんぐん進んでいく.映画『セッション』で主人公ニーマンがCaravanを叩き出したときのプレイヤーの動揺に似る,全く意図されていなかった刺客.認知的暗闇から刃が伸びてきた.

そのあと,車内アナウンスによる説明があった.なるほどどうやら名古屋→岐阜→美濃太田(高山方面)で,岐阜でいったんスイッチバックをするようだ.それで名古屋→岐阜が20分くらいだから,そのままでいてくれ,と.バックドロップ(USJのアトラクション)に似た揚げ足を取られる,土台が崩れる感覚を久々に,思わぬ機会にて体験した.

風光明媚な景観を脇に捉えたらば,児童のように高揚するテンションを理性でなんとか抑えつつ,車窓から飛水峡の写真を撮る.

そうこう言ううちに,下呂・上呂を通り越し,高山駅に着いた.ぼくと編成の半分を切り離し,「ひだ」はさらに北へ向かっていった.

高山駅

高山駅からのシャトルバスに揺られ10分ほど.まったく分からない里のような場所に着く.よもや一週間前に,今日は飛騨の施設に来ているよ,と言っても笑い話になるだろう.改めて自分が置かれている条件を整理して勝手に笑ってしまう.これから起きること全てに期待している.

外からはやけに陽気なOn the sunny side of streetが聴こえてくる.サックスとトランペットのハーモニー香る,祝祭の気分上がる音楽.これが入り口越しに響いて,音楽が自分をお祭りに誘われているという気分が濃厚になってくる.


Hidajazz:演奏

バンバンバザールさんの演奏は素晴らしかった.ジャズはアメリカを端に発するため,英語と親和性が高いが,日本語の歌詞とうまくまとめ上げ,翻訳しているさまを目の当たりにすることができたというのは僥倖.演奏のレベルもさながら,チューニングの合った歌詞はわれわれ日本人にも強烈に届くかもしれない.「届く」ジャズというのは日本では貴重である.

そのまま田口家という別のステージに足を運び畳を忍び足で進む.立ち席の富田家とは対照的に,田口家のステージは屋内である.ジルレコさんの演奏響く中,手つかずの整った伝統的な建築に,通された位置はドラマーのTowadaさんの目の前だった.ドラムの暴力的なダイナミクス・シンバルのシャワーを一身に浴びる.ジャズのライブというものはある種の被暴力行為であり,オーディエンスにとっては,当然それに反抗するには席を立ったり,怒鳴ったりするしかないから,黙って聞いている限りでは,演奏者からの一方性を感ずるところでもある.オーディエンスは身体を揺らすることによってグルーヴを共有し,一体感を創出する.それは双方向性の領域になるかもしれない.ただここで重要なのはそういうところではない.ぼくはさっぱりグルーヴを浴び続けるのに幸い解釈を行うことのできるくらいにはジャズに触れてきたつもりなので,この気骨あるサウンドに個別性を発揮して,聴き惚れ続けた.楽しいイベントだ.そして田口家ではより建築の視覚性の意味でも,Hidajazzの意義を享受している.

田口家:屋内


Hidajazz:感想

さて,ここでHidajazzそのものについて,ジャズフェスという観点から触れてみたい.このフェス,毎年行きたいくらいのレベルの高い音楽フェスであった.来年行くならば絶対に友達の一人でも誘っていこうと確信した.以下にその理由を述べる.

一つ.自然と伝統と現代の極めてレベルの高い交差.それぞれのレイヤーが独立して立つというのは頻繁に見られる事象であるが,それらが交差し,それぞれの世界を保ちつつ融和した形を体験できるという風になると,これはたいへん貴重な機会である.自然豊かな場所で演奏をするのは,田舎のミュージシャンがやっている例が見受けられるものの,そこに合掌造りの民家を移築した炭素の時代の産物を拝借して,現代的コンテクストを流入させるという温故知新的試みは,古い空間にいながらも,感覚世界としては非常に新しい.ジャズミュージシャンも全員がアルバムを出すプロフェッショナルであり,純粋なジャズフェスとしてのクオリティも高い.

二つ.地域性と全国性の交差.さらに,このジャズフェスは地域の細々とした取り組みと,飛騨の地を借りた全国的音楽フェスの双方の要素を持ち合わせる.例えば,飛騨の里の脇にはブランコやターザンロープのような遊具が設置されており,子供たちがジャズなど知ったことかと言わんばかりに爛漫にはしゃぎ回っている.これはライブハウスではあり得ない光景だ.子供はジャズフェスをブランコに遊びに来れる機会と目的を変更しているのやもしれない.必ずしもジャズフェスをジャズフェスと解釈されない,このアフォーダンスの広さは類を見ない.加えて,フードとドリンクの販売もあったが,販売者は概ね地元の業者さんであった.ぼくも寺田農園さんのカレーライスと「キャロりんご」を頂戴した.是非ここで紹介したいと思う.本当においしかったです.

自然に親しむ親子の皆さん


キャロりんご


トマトカレー



対照的に,地域の小さなフェスに終始しないのは,Hidajazzの要素の広さでもある.例えばその最たる例は落合陽一のゲスト出演である.かくいうぼくも彼のTwitterにて出演の情報が無かったらば知る由もなかったし,後述する彼のステージでも,ぼくの周りは彼のオンラインサロンのメンバーの方々でいっぱいだったことから,誤解を恐れず言えば彼の果たした集客効果も非常に大きかったと思われる.周りの人に何人か話を聞いてみたらば,東京からとか,ほかの県から来た,という人もちらほらいたりと,地域のフェスの参加者が偏在するという点においては,これを地域性のみで説明するにはあまりに大きすぎる.


この,アフォーダンスに溢れ,自然と伝統・現代の交差を高いレベルで実現した,素晴らしいフェスをぼくは愛してやまない.


落合陽一

さて,落合陽一である.正確に言えばその1時間とちょっと前.前のステージも気になっていたぼくは,晩御飯を済ませ早々にステージに潜りこんだ.そして,終わった瞬間に,人流に逆行し,穴の開いた最前列のど真ん中の席を塞ぐようにして早々に陣取った.こうして特A席は確保された.さて,一息,トイレでも行ってビール買ってこよう.と立ち上がろうとした矢先に八方がふさがった.オンラインサロンのメンバーの方々である.(正確には前方はステージだから,方眼紙にすれば五方塞がりである)

ここで少し政治学的な知見を借りて与えられた状況を語ることとする.ナチス・ドイツの作り出した造語のうちの,生存圏という言葉を引く.これは国が,自らが単位のうちに自立して運営の為され得る国土の範囲を示す.ナチスはこれを侵略戦争の口実とし,結果負の歴史を刻むに至ったが,しかし実行するアプローチの意味を除けば国家運営のための国土という意味の国家の三要素にも領域があるように,領域・国土そのものの適切な保持は国を運営する上では欠かせない.そしてコンテクストをこちらに投影した場合,その領域を保持する自衛力は我が身一つである.荷物一つ置く程度では役不足,黙って脇へ脇へ流されていくだろう.一度失われたポジションを回復するのには多大なコストを投げ打つ必要がある,それが周り一面需要のあるものであればなおさらである.従って,生存圏を動的に主張し続けられるものは自分ひとりなのだから,席をおいそれと立つ訳にはいかなくなった.従って特A席を取り続ける不断の努力によってのみそれは確保される.

外交の基本は交渉である.まずは周りの「落合陽一」の先輩に話しかけることとした.すると適当な返事が返ってきた.ぼくは早々に彼らとのコミュニケーションを手放して,彼らを純然たる他人として扱うことを決めた.この人だらけの空間を,自分か落合先生かの二元的関係に落とし込むこととした.言い換えれば捨象,もしくはローランド.

そこからは床に腰かけ,小さき頃の,体育館での集会のような臀部の痛みを懐かしみながら,周りの会話をじっくり拝聴させて頂いた.要約すればパフォーマンスはどういうものなのだろうか,という至極当然の,自分と同じ疑問であったり,カメラの話だったり,なるほど連れ同士する会話でありそうなものであったが,その中にジャズのコンテクストに触れて言及する声がなかったのは非常に残念である.彼らは純然たる「落合陽一のファン」であって,音楽祭という文脈を切り離していた.風土の無視,文脈のレイプ.なんだかすごく悲しくなった.ラーメン屋をやっているところにパスタを持ち込まれた如き気持ちがどす黒い影を落としてくる.昔のウィンドウズの,シャットアウトのように視界が彩度をみるみる落とし,いよいよ彼らと話をする縁が無くなっていく.ぼくは落合陽一自体,遠巻きにも尊敬している著名人の一人であったため,その身近な他者がこのような態度を決め込むとなると,期待と現実のギャップに暴露されることとなった.

しいて言うなら,ぼくは失念していたが,DJの予習として,曲リストを落合陽一はアップしていた.そこから話を広げてみるのはどうだろうか.きっと経路依存に依拠しない,今日の一次情報からの議論が展開できるものと思われる.

そうこう煩悶しているうちに落合陽一本人が現れて,パソコンやら音響・映像機材やらを取り出し,機敏にセットアップを済ませていく.この辺の機微についてはファンの方々がぼくよりも遥かに素敵に書いてくださるだろうため割愛する.自分の語彙不足を痛感する次第である.

セットアップ



やがて,ゆらりとDJパフォーマンスが始まる.ここ,Hidajazzにはるばる東京から電車で5時間以上かけて来た,最後の答え合わせ.

答えは最悪だった.爆音を矢次早に浴びせられ続ける.うるさい.ひたすらうるさい.無音の趣を知れと.こんなのジャズじゃないという拒否反応が脳内を駆け巡る.掻きむしりたくなるような形而上的痛みが五臓六腑を迸る.あまつさえ岸田首相をドラムマシーンにして遊びだした.何をやっているんだ,目の前にいるこいつは何をしに来たんだ.意外性への歓声ではなくジャズへの無理解への怒号が身体中に響き渡る.

お世話になっているジャズ喫茶のマスターは「ジャズっていうのは、引き算だ」と,かつてのぼくを諭した.ドラムという楽器をぼくは触っているが,それは若さの暴走に呼応して,爆音のあまり調和を乱してしまう.これはぼくにとって,ドラムを扱う以上は常に自省し続けるべき命題で,パッションと調和の帰結を,いまだにずっと探し続けている.換言すれば,ジャズは清閑を生地にして,余計な音(ノイズと言っても良い)を捨象し続けて生まれた極上の爆音のみがジャズとして語られる,ということである.これが統一的定義ではないことくらいはお分かりだろうが,少なくとも押し引きの存在しないジャズはない.ある種の最小性条項である.

しかし,今この瞬間こそ,これを身に染みて理解した.絶え間なく押し寄せる轟音に,ぼくは間違いなく食傷になっていた.反対の富田家では傍らジャムセッションを楽しんでいるという.ぼくは一人のジャズのファンとして,目の前で席を立ってやろうか悩んだ.落合陽一という存在を「意志ある主体」として敵にして,ジャズ好きとしてのポジションを取るかという瀬戸際にいたが,信念がぼくを止めた.信念とは,こちらの記事に書いてあるが,ぼくはそれを遵守して,席に留まり続けた.

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次第に,対内にある変化が起きてきた.捻って考えてみれば,これは2+2を5と言うような暴挙にも至る思い替えだが,ポジションを投げ捨ててノれば楽しいんじゃないか,という空気が体内に充満してくる.そして目の前のDJもそう言っている.パフォーマンスも半分を過ぎたころ,ぼくは爆音のビッグ・ブラザーに適応した.ようやくだ.この時を待っていた.ありがとう,落合陽一!

そこからは周りの大人の誰よりもバカになってノってみた.空気の読めないフリをして,ビートに合わせて全身を揺らす.汗が噴き出てくる.これだ,フェスというものは.

身体を動かせ.ビートに乗れ.熱狂しろ.叫べ.そう念じながらぼくは一人,ノり続けた.規格化されたビートには,自身をも規格化させればよい

そうして1時間と少しに渡るパフォーマンスが終わった.終始うるさかったのは間違いないが,その聴こえ方は,始まる前と終わりで全く別人の音楽に聴こえたものだ.


評価

先に言えば,一ジャズファンの視座を取れば,落合陽一はジャズ・ミュージシャンでは無かったし,ジャズフェスの箱に収まったかというと全くそんなことはない.

その点はいの一番に文句を言いに行った.同時に,面白かったことも伝えた.そのとき,「ぼくはDJをやるって言ったんだけど…」と返されたから,あの人なりにポジションを取ったものと思われる.従って,こちらも,彼はジャズのコンテクストを拾ってはいないという評を記しておくことにする.これはぼくなりのポジションを取るということだ.そして,「収まり切れない」という風な美談で手打ちにしようという気配も,生憎ながらない.確かにマッシュアップの中にFly me to the moon(シナトラ版)が混ざったりしていたが,個人的にジャズ的な要素を拾っていたかと言えば,首肯しかねる.ジャズ「という枠に収まりきらない」ではなく,ジャズ「ではない」.換言すれば,文脈に対して強権的アプローチを取ったという問題ではなく,ジャズそのものに対する否定か.

ただし,この評価はパフォーマンス全体を否定するものではない.ぼく個人としては落合陽一本人をジャズフェスという枠のうちにお目にする機会があったということだけ光栄であったし,大いに学びある演目であった.従って満足かどうかで言えば,最終的には満足している.さらにポジティブに解釈すれば,ジャズフェスに,ルールのうちにジャズ以外を持ち込むというのはアンタイ・フィルターバブル的刺激として,外の世界へ改めて視線を向ける良い機会でもあった.


あとがき

Hidajazzを後にして,翌日,日下部民藝館へ.落合陽一の視覚芸術を堪能.この時初めて彼のポジションを理解した.なるほど,彼のポジションなりのアプローチの到達点があのDJだったのかと,今更ながら理解した.


ぼくは所謂「ほならね理論」に,概ねの場合賛同している.批判される対象が十分に「(ハンナ・アーレントの整理による)仕事」をしている場合,反論する資格を持つのは相応の「仕事」を持つ者だけ,という風に解釈している.「仕事」が批判する主体のポジションを形成するからである.ゆえに,彼のDJに,ぼくはジャズファンの視座において批判をした.換言すれば,落合陽一はあのDJの背景に民藝性をテーマとして,即席ディスプレイに様々な示唆的芸術を投影していたが,その点については評価を避けた(すごいテクノロジーの産物だ).また,畢竟,「周りの方々」も,そのような信念でポジションを取っていたのかもしれない.そのような方々が来るということ自体も許容されないべきとは露にも思わず,これもHidajazzの取るアフォーダンスの大きさの証左である.

ぼくもそれに倣って,ポジションを取って,「仕事」にいそしんでみることとする.総括すれば非常に学びある経験でした,お読みいただきありがとうございました.


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