幼児教育との関わりをふりかえる①
はじめに
本稿は、私が“アーティストとして”幼児教育に関わったこの12年(2012~2024年)をふりかえり、記録するためのものである。幼稚園や保育園での活動がどのようなものだったのか、私自身のアーティスト活動にどのような影響や成果があったのかを記したい。
合わせて、後述する「芸術家の社会的役割」とはなんだったのか、考察していきたい。
初めて清心幼稚園(群馬県前橋市大手町)を訪れたのは冬だったと思う。まだ会ったこともない現在の副園長先生から突然30分を超える長い電話をいただいたのが初めてのコンタクトだった。「とりあえずお会いしてから…。」とようやく電話を切り、約束の日に訪問すると彼はインフルエンザでお休みだった。かなりルーズな印象だが、よく言えば、おおらかと言えるのだろうか。そのルーズさ、またはおおらかな雰囲気は園全体に、子どもたちの遊びにもよく現れていて、私が持っていた幼稚園というステレオタイプは大きく書き換えられていくことになる。
正直当時は、なぜ私に幼稚園から声がかかったのか理解できなかった。大学在学中にワークショップという手法を知り、実践を続けていたにも関わらず、子どもが好きではない、と公言していたくらいだったこともそう感じた要因だったように思う。子どもが好きではないことは幼稚園にも伝えたし、展覧会やアーティストインレジデンスで長期間いないこともある。だから定期的な教室のような活動はしたくないとも伝えた。それでも構わない、むしろどうぞ行ってきて下さい!という返答だったことは、今日までこの活動を続けられた最大の条件だったと思う。それに対して「アーティスト・イン・レジデンスみたいな感じで関われたらいいと思う。」と話し、清心幼稚園との関わりがスタートした。
はじめは2~3年続けばいい方かな、というくらいの気持ちだった。気がつけば清心幼稚園には11年(2012年4月~2023年3月)、今でも他に複数の保育園や認定こども園(以下、特定の施設を指さない場合、幼稚園・保育園・認定こども園を区別せず「保育施設」と表記する)に関わっている。これら一連の活動は、造形教室の外部講師のように幼児教育に関わり、生活費を稼ぐためのものではなく、アーティストとしてそこにいることができ、私がアーティストであることが活動の重要な要素になっている。
加えてユニークな点として、当時のブログ「出来事のホームセンター ジョイフル中島!! by NAKAJIMA Yuta (https://houseof.exblog.jp)」に、
と書いている。それからいつの間にか12年が経ち、多くの保育施設で活動するようになった。そのことは、芸術家の社会的役割が十分に広がったと言えるのだろうか?(以下では芸術家とアーティストはアーティストに統一して表記する。)
清心幼稚園広報誌クローズアップ清心(2024)に、同園主任保育士を務める秋山恵子先生の20年に渡る勤務を振り返ったものがある。
展示室を訪れた子どもたちが、作品を特別にスケッチし始め、定刻を過ぎても帰路につけずに困ったのだという。作品を前に広がっていく子どもたちの創造性を前に、どうしたらいいか分からなくなり、専門家を探した末、私に行き着いたらしい。
その専門性が果たして私にあるかはかなり怪しい(!)が、ともあれそのようにしてこの関わりは始まることになる。どうなるかは本当に未知だった。だからこそおもしろかった。まずはその1年目を振り返っていこう。
2012
天井にしまう、発泡スチロール事件
1年目の2012年の活動において、印象に残る出来事はやはり秋山先生が書き留めたエピソードと同じく、《天井にしまう》と《発泡スチロール事件》だ。
幼稚園の園舎を周回するようにA4コピー用紙で線路を子どもたちとつくり、何日か経った。やがてその紙が剥がれて散らばっていく。その遊びにどのように関わっていいか分からなかったという先生たちに、そろそろ散らばった紙の片付けをしてほしいと相談された。まだ子どもたちの顔と名前がいまいち一致していなかった頃で、誰とやっていたかもやや曖昧だった。
一緒に遊んだ子に片付けをしようと声をかけると当然のように嫌そうな顔をされる。私もどうしたらいいのか戸惑ったことをよく覚えている。
片付けがしたくなくて天井を仰ぐ子どもからの応答を待っていると、「天井にしまう。」と言う。子どもってもこういう冗談を言うんだ!とおもしろく思いながら、そのいたずらなアイデアに乗ってみた。翌日、天井にしまわれた紙の束を、他の子どもに自慢げに話す子どもの姿を目撃した。
《発泡スチロール事件》は、事件だった。もしくはもう一歩で事故に繋がっていたのかもしれないのだが、当時幼児を対象にしたワークショップの経験が少なかったため、素材選びが誤飲などの事故につながるという認識は全く持っていなかった。
子ども向けに企画される工作教室やワークショップなどでは、廃材をよく使う。清心幼稚園でも、使用済みの段ボール箱などが常備され、子どもたちが日々使用していた。素材選びにも当時から関心があり、段ボール箱、お菓子の空き箱、牛乳パックなど、一般的によく使用される廃材以外に、使えるものがあるんじゃないかと考え、探す習慣がついた。
事件当日、家にあった発泡スチロールを持って園を訪れた。最初に出会った子どもに(そこは階段だった)「はいどうぞ」と渡し、その場を後にした。
そこに戻ってみると、そこに広がっていたのは雪景色だった。発泡スチロールの小さな塊を両手に持ち、階段の柵の間から小さな手を伸ばし、発泡スチロール同士を擦り合わせ、削られて出た白いつぶつぶが階段下に向かってゆっくりと落ちていく。
「雪だー!」と大喜びの子どもたちの横で、若手保育士が「やっちゃいました…。」と呟きながら途方に暮れていた。雪は静電気によって子どもたちの体や壁に張り付いていく。こともあろうにその階段下には積み木コーナーがあり、積み木の1つ1つに大量の粒が張り付いてしまった。
さらに事態を悪化させたのは、体に雪が張り付いた子どもたちがその場から移動したことだ。その先の廊下や保育室にまでその粒々が広がってしまったのだ。昼食時に、口に入る恐れがあるということを先生たちから聞き、アート系ワークショップで素材を選ぶ際には気にも留めなかったことに気付かされた。
2024年現在では、SDG’sや環境配慮の観点から、発泡スチロールを見ることも少なくなってきたような気もするが、素材が地球の環境にどのような影響があるのかという視点だけではなく、子どもたちの健康や怪我、事故などに配慮し、選択する視点も得た。あえてそういう素材を選ぶということも含めて。
ちなみにこの頃、私は前髪をむすんでいた。そのため子どもたちから「ちょんまげ先生」というニックネームがつけられてしまった。
アーティスト・イン・レジデンスのように関わりたいと言いつつも、まだ幼稚園という未知の現場の中で、自分の立ち位置が定まっていない様子が見てとれる。現在、保育施設で活動する際、私は子どもたちや先生方から「なかじ」というニックネームで呼ばれている。アーティストであって、先生ではないと、最初にしつこく説明をしている。
竹久侑さん講演会『近づいてくるアート』
11月3日に清心幼稚園の主催で竹久侑さん(水戸芸術館現代美術センター学芸員・水と土芸術祭2012ディレクター)による講演会を企画した。竹久さんが関わる『3・11とアーティスト:進行形の記録(水戸芸術館)』『水と土芸術祭2012』という2つの展覧会を紹介しながら、幼稚園の保護者や地域住民に向けて、「アートをより身近に感じてもらえる(チラシより)」よう企画したものだ。
『3・11とアーティスト:進行形の記録』展には、私も「中島佑太×ビルドフルーガス」として参加し、宮城県塩竈市周辺で行ってきた被災地支援活動と地域交流によるプロジェクトを展示していた。
私は、学生時代に『大地の芸術祭(新潟)』に関わり、『取手アートプロジェクト2008』でアーティストデビューした。ゼロ年代の日本のアートシーンでは、地域アートプロジェクトや地域芸術祭が流行し、私はそれらのプロジェクトに数多く参加してきた。
2011年3月11日に起きた東日本大震災は私にとっても大きな転機となる。旧知のビルドフルーガスの高田彩さんたちを訪ねる形で被災地支援ボランティアに出向き、泥かきや解体作業などを行った。その後、高田さんたちと避難所を周り、前橋や東京のアーティストたちによってペイントされた段ボール箱に支援物資を整理していく《はこび》という活動に発展した。
その後、仮設住宅の集会室で、ミニFMラジオ放送を行い、住民たちと合唱曲《みなと、みなと》(作曲:首藤健太郎)を制作。前橋の傘職人と使用されなくなった塩竈の大漁旗で仕立てる《フラッグパラソル〜海の日傘〜》へと展開していった。
2012年から始まった清心幼稚園との関わりは私にとって、卒業後に多く参加していた地域アートプロジェクト、そして震災という流れの中にあった。幼稚園という子どもと女性が中心の未知の領域をフィールドワークし、”先生”と呼ばれてしまうことで身体化し、アーティスト・イン・レジデンスのようなアーティストの活動の場に捉え直していった。
幼稚園に発泡スチロールの雪を降らせたことで、「これもアートですか?!」と星野尚美先生からお叱りを受け、返す言葉も出なかった。しかし、やはり私の中ではアートとして残っている。そしてそれは、子どもたちや先生たちにとっては少なくとも、アーティスティックな営みだったことだろう。
2013
関係の多様化と活動の拡張
清心幼稚園との関わりは次第に、保護者や同園を卒園した小学生との関係にも広がっていった。同園には「フレンズ」と呼ばれる卒園生向けのコミュニティーがある。毎週金曜日の放課後にフレンズを対象としたアートのクラブ活動があった。担当はコンピーこと金野睦美先生だった。
フレンズにも私は時々参加し、小学生たちとの親睦も深めていった。それがきっかけとなり、フレンズを対象としたワークショップを行うことになった。その2回目となるワークショップは《見えない絵をかいてみよう》と題され、2013年1月17日に開催された。
《はんにんをさがせ!!〜あやしさをあぶりだそう〜》(2013年2月23日/松戸アートラインプロジェクト2012)に向け、実験をかねて行った炙り出し(レモン汁などで絵や字を描き、火で炙って描いたものを浮き上がらせる手法)を使ったワークショップだった。フレンズを対象にした小学生向けワークショップの初期は、園外で行うワークショップの実験やシミュレーションを行うようになっていった。
同年5月12日には、ストップモーションムービーを作成し、そこに子どもたちが独自で効果音などをアテレコするワークショップを行った。この方法は、6月17日~7月5日に守谷市立松ケ丘小学校(茨城)で行われた『アーティスト・イン・スクール2013』(アーカスプロジェクト)の成果発表のための実験でもあった。
ワークショップは一般的に、少人数のグループで行われることが多い。そこでの体験や臨場感は、そこに参加した人しか感じることができない。そのため、記録(スチールや動画、ドキュメントなど)が重要とされている。この頃は記録のための記録にするのではなく、記録物自体の作品化をしきりに試行錯誤していた。
松ケ丘小学校での滞在制作では、児童たちと教室を公園につくりかえるプロセスのインターバル撮影を行った。フレンズでのワークショップ同様に、無音のストップモーションムービーを作成し、全校生徒向けの成果発表会で上映。児童たちが弁士のように効果音をアテレコすることで、成果発表とした。
ひみつのさんぽかいぎ
《ひみつのさんぽかいぎ》は、毎年行われるようになったプログラムの1つである。
清心幼稚園は、前橋市内の中心部に位置し、中心商店街へも大人の足で徒歩10分ほどで行ける。子どもたちもよく商店街へ出かけては買い物をしたり、地域との交流などをしていた。同ワークショップは、そのような幼稚園のカリキュラムに影響を受ける形で制作された。ただし、《ひみつのさんぽかいぎ》ではその日の行き先やワークショップの内容は、参加者には”ひみつ”にされている。そこが幼稚園で行われている実践との大きな違いである。
第1回目の《ひみつのさんぽかいぎ》では、レシート用のロール紙を用いて、道中で見つけたものや感じたことなどをその場で書き記していき、巻物のような記録『歩記(あるき)』を制作した。行き先や内容はひみつと説明していたが、そもそも『歩記(あるき)』を制作することと、レストランの予約しかしていなかった。行き先などは決めておらず、その場その場で参加者と相談し、即興的に組み立てていった。
園外に出ることで、事故などの危険が想定される。それにも関わらず、フレキシブルな活動ができることも、この幼稚園での活動の特徴だった。これ以前のワークショップでは、行われる内容が初めから終わりまで想定されているプログラムが全てだったが、これ以降、オープンエンド/可変的なプログラムが増えていった他、『旅』をテーマにしたワークショップも制作されるようになった。
これは幼稚園がアーティスト・イン・レジデンスとして機能していたことの成果の1つと言えるだろう。
ルールと風景への視座
「自治会が町内の公園に『犬立入禁止』という看板を設置してしまい、景観が悪くなった。子どもたちと壁画を制作し、景観をよくしたい。」
前橋市山王町の子ども育成会からこのような相談を受けた。清心幼稚園の活動を通じて知り合った私立山王幼稚園(前橋市山王町)の園長先生夫妻からの相談だった。
他の保育施設関係者との交流が増えていき、2013年12月には、ちぐさこども園(群馬県沼田市)、いそべこども園(同県安中市)の園長や主任たちと、保育の中での遊びについて意見交換する研究会にも参加した。子どもとの遊びやワークショップ以外にもこの活動は拡がっていった。
「景観はもっと悪くなると思います。」
私はハートウォーミングなお土産物をつくるワークショップに対して批判的な立場だったし、子どもたちと描いたものが、景観をよくするという性善説を持ち合わせていなかった。
そこで、『なぜ犬(だけ)が立ち入り禁止なのか?』を考えること、ルールや公共性、風景、公園の使い方について考えるワークショップを提案した。
大学時代の私は、公共彫刻やランドスケープデザインなどを手がけるアーティストたほりつこ氏の研究室に所属していたこともあり、風景というテーマには継続的な関心があった。卒業後、ワークショップを通じて多くの子どもたちに出会い、保育施設との関わりが増えたことによって、子どもたちが様々なルールや思い込みに縛られていることに気がつき、ルールへの関心が高まっていった。
このワークショップは、その2つの関心が初めて意識的に交差したものとなったのである。
3回にわたって行われたワークショップでは、まず子どもたちとワークショップ会場を公園と見立て、そこで守るルールをつくることから始まった。『なかまはずれやいじめはぜったいやめよう!」という道徳的なものから、「公園にゴミを捨てた場合そく公園をついほうされ永遠に入ることができない(原文のまま)」という厳しめのものまでつくられた。その中に「ポートボール月〜金9:00~5:00までとする。土日は禁じる。ポートボールは子供にたいするけんげんの自由、権利をうばうことなのでここにきんじる。やった場合武力で解決する。(原文のまま)」と書かれた看板があった。(※ワークショップの文脈と描かれたイラストを見るとポートボールではなく、ゲートボールの間違いと思われる。)
そこで2回目のワークショップのテーマには『武力』を選んだ。参加者の思う武力のイメージを形にし、それらを装備または携行して公園で遊んだ。
3回目は 「犬立入禁止」という看板を見にいった際、参加者の1人が「なんで?」と疑問を口にしたことがきっかけになり、犬以外の動物をつくって公園で遊ぶことにした。
参加者との対話によって、柔軟にテーマを変更し、遊びを通して社会や地域の問題について考えるワークショップのスタイルが、この頃から確立されていった。また、風景とルールを合わせてテーマにし、ワークショップを行ったことで、ルールを変えることが、風景だけでなくその場の状況や人々の行動を変容させていくことのおもしろさを感じた。
ここで得た課題はアーティスト・イン・スクールin松ケ丘小学校(アーカスプロジェクト)に引き継がれていく。
空き教室に「公園」という看板を設置し、『用途変更』を提案する。教室内の風景を、どのように書き換えたら公園になっていくか、児童たちとディスカッションしながらつくっていく計画だった。そこでは《今日のルール》という新しい試みも登場し、1日限定の公園内限定のルールを児童たちと考え、実行する(ルールを守る)ことで非日常的な状況を生み出し、通ってくれた子どもたちと新しい体験をつくっていった。
いろさがしの旅
2012年から始まったこれらの関わりでは、「えのぐをする」という表現をよく聴く。(他の保育施設の子どもたちも言うので、もしかしたら業界用語なのかもしれない。)一般的には、絵の具を筆で紙に塗る行為を指すのかもしれないが、清心幼稚園では、服を脱ぎ、ブルーシートの上で絵の具を出し、全身に塗りたくるという様子がよく見られた。
今になって多くの保育施設を回った経験をしてきて思うことだが、程度の差はあれ、大体どこの園の子どもたちも同じようになるので、絵の具を体に塗るという行為はもしかしたら人間の本能的なものなのかもしれない。
2013年6月29日[土]に、大学時代のもう1人の師であるアーティスト日比野克彦さんを招き、『人はなぜ絵を描くのか?』というテーマの講演会を開催した。日比野さんの個人史を紐解きながら、人はなぜ絵を描くのか?という根源的な問いに迫る示唆に富む内容だった。
人はなぜ絵を描くのか?
私個人はあまり絵を描くのが好きではなく、どちらかといえば絵を描くことで生み出される他者からの評価から逃げ出したいと思っている。しかし、そのような評価の亡霊を気にも留めない幼児期の子どもたちはやはり絵を描く。
印象的な『絵』に出会ったエピソードを紹介したい。日比野さんの講演会の数日後のこと。園庭に設置されているコンクリート製の土管の中をのぞいてみると、中で筆を持ち、水で土管の壁に子どもたちは絵を描いていた。まるでラスコーやアルタミラのような洞窟壁画を連想せずにはいられなかった。絵の具ではなく水で描くというのもいい。やがて水が泥に置き換わっていき、土着的という修飾がしっくりくるような壁画へと発展していった。
一方で、「えのぐをする」というのは、私たち大人がイメージをする絵とは少し異なるだろう。紙や壁という支持体は特になく、絵の具そのものの感触と、触れることによって変化する色、その色から喚起されるイメージを、その身体の内側で感じるような遊び方に見える。体に塗りたくることで、動物になりきったりすることもある。全ての色が混じり合っていくので、最後はグレイッシュなヘドロ色になり、外から見ていると、あまり美しいとは思えないだろう。最後は気が遠くなるほど掃除をしなければならないし、絵の具代もかさむ。(費用面は完全な大人の事情だが。)
そこで2012年に《いろのじっけんしつ》と名付けた空間を保育室に設定した。色の細かな違いや変化に焦点を当て、子どもたちと絵の具をつくる試みだ。2013年にはその第2弾として、街中をフィールドワークし、それぞれが見つけた色を再現するワークショップを、5歳児対象に行った。
厚紙を切り抜いた虫眼鏡のようなフレームを持って街を歩き、気になった色をフレームに入れて撮影する。後日、その色の絵の具を作成する流れだ。土管に水で絵を描く偶発的な遊び(遊びとはそういうものかもしれないが)に比べると、大人の願いや学習意図の高いプログラムではあるが、後になって《いろさがしの旅》とタイトルをつけたことから当時はこのようなプログラムを作品として捉えていたことも読み取れる。さらに、近年の活動の大きなテーマになっている『旅』も、これらの活動がヒントになっていることは強調したい。
2014
素材とテーマ
保育施設との関わりの中で、継続的に行っていることの1つに「素材探し」がある。素材の探求は、アーティストの専門性の1つだと考えられるし、一方で保育士たちの不得意分野だろう。
教材販売業者がつくるカタログや、もしくは保育士養成校で指導された造形遊びの知識からは、素材の探求へとはなかなか広がらない現状があると、様々な現場を見てきて感じた。
2012年当初から様々な素材を提案したり、実験的に使用してみて試行錯誤してきた。結果として新しく園に素材や遊び道具として定着したものもあれば、発泡スチロールのように不向きなものもあることも分かった。このような試行錯誤は主に、「アトリエ」と「アートであそぼ」の時間に行われた。
アトリエは私が関わり始める前に、新設された空間とのことだ。5歳児クラス用の玄関に、作業台や引き出しなどが設置され、工作用の道具が棚に準備されている。子どもたちは主に、工作をしたり、“えのぐをする”のに使用していた。私もよく子どもたちと一緒に遊んだ。印象深い出来事に、当時2歳児だったRくんとの出会いがある。清心幼稚園には当時、主に3~5歳の子どもたちが通っていた。その中にRくんはひょっこりと現れ、おむつ姿で飛び回っていた。子どもが好きではないと言い切っていた当時の私にとって、おむつ姿の2歳児はまさに未知の存在だった。
説明書にあるような道具の使い方や技法というのは、子どもたちにとってはあまり関係がないことだろう。文字の読めない低年齢の子どもになればなるほど、そんなものはお構いなしだ。Rくんはアトリエに用意されているありとあらゆる危険な道具に興味を持ち、片っ端から試すように遊んでいく。釘を色鉛筆で段ボールに打ち付けてみたり、カッターで布を切ろうとしてみたり、金ヤスリで作業テーブルを削ってみたりと自由奔放だ。「アトリエ」と聞くと、アーティストのように何かの作品をつくるところというイメージが必然的に湧いてくるが、子どもたちにとって(もしかしたらそれはアーティストにとっても)ただそれだけではなく、つくるという行為のもっと根源的な営みのためにあるのではないか。Rくんにとっても、制作のために適切な素材を探求して選ぶだとかそういうことではまるでなく、未知の存在である様々な道具に触発され、魂をふるわせながら遊んでいたのではないか。
「アートであそぼ」は、4,5歳児クラスを対象にそれぞれ月に数回行われている課外のアートクラスだ。子どもたちからは「アート」と呼ばれている。担当はフレンズ同様に金野睦美先生(コンピー)だ。園にいる日に「アート」があると、よく私も参加していたし、私が制作テーマを決めることも増えていった。事前に素材やテーマを準備することはあまりなく、ほとんど即興的なワークショップ形式で行った。
ある日の5歳児クラス向けのアートは、新聞紙粘土をつくるものだった。新聞紙粘土という響きに懐かしさを覚えながら参加した。経緯は忘れてしまったが、粘土でつくるもののテーマを提案することになり、『きらいなもの』にした。本当に嫌いなのかは果たして定かではないが、芽キャベツ、たこ、クラゲなどがつくられ、中には大好きなはずの飛行機を嫌いと言いながらつくった子もいた。
幼児教育における素材の探求は2024年現在でも続けているが、ここでは素材はそのままに、「テーマを変える」ことを試みた。性善説が前提となっている教育現場で、嫌いというネガティブな要素をテーマにすることはやや暴力性を持つかもしれないが、子どもたちは「嫌いなものはつくりたくない!」と愚痴をこぼしながらも普段とは違うテーマに、ほくそ笑みながら取り組んでいたように思う。
あっちがわとこっちがわをつくる
同じ週に行われた4歳児向けの「アート」では、私の代表作の1つとなる《あっちがわとこっちがわをつくる》の原型となるワークショップを行った。
この頃、ロシアによるクリミア侵攻が行われていて、そのニュースに強い関心を寄せていた。TwitterやYouTubeなどのソーシャルメディアが一般的になり、現地の様子を即時的に見ることができるようになっていた。私が視聴した動画の中に、クリミア自治区側の市民とロシア軍の間に瓦礫や潰れた車で建てられたバリケードの様子を写したものがあった。バリケードの上にはピアノが置かれ、市民がビートルズのレット・イット・ビーを演奏し、そこへロシア軍が巨大スピーカーでロシアンポップを流し、演奏をかき消すというもので、強い衝撃を受けた。
「アート」が始まる直前の職員室で、秋山先生と雑談をしていて、その動画のことを話した。そこでバリケードつくってみるか!ということになった。
保育室の真ん中にテープで線を引き、今からこの線を超えてはいけません。でもただの線だと簡単に超えられちゃうから、線の向こうの人が入ってこないように、バリケードをつくってみようね!と子どもたちにお題を出した。すると子どもたちは指示されたわけでもなく、1つのチームが「かなたくん」がいるからという理由で「カナダ」と名乗り始めた。それに応答するように、もう一方のチームはテープで胸に日本の国旗をつくって貼り、「日本」チームをつくった。技術的な理由で、高い壁はできなかったが、チームの属性が生み出されたことによって敵対が生み出された。
この時間がきっかけとなってつくり出されたワークショップが《あっちがわとこっちがわをつくる》というワークショップシリーズだ。千葉県松戸市で初めて行った2014年以降、様々な展覧会やアートプロジェクトで行うものに発展した。
拡張する参加対象
『美術館で夏休み いつものミチのひみつキチ』(刈谷市美術館/2014年7月19日~8月31日)に参加し、展示を行った際、会期中のワークショップとして《あっちがわとこっちがわをつくる》を行った。展覧会フライヤーにはイベントの説明が次のように書かれている。
バリケードとは、(barricade、阻塞)は、戦争などにおいて相手の侵入を防ぐために築かれる障害物(weblio辞書より)のことを指す。新聞紙でつくっているので、突破しようと思えばいくらでもできてしまう。それが不思議かどうかはさておき、そんな機能性の低いバリケードを、その両側から文字通り“みんなで協力し合って”つくることがこのワークショップの最大の特徴と言える。公金で運営されている展覧会やアートプロジェクトでは特に、性善説に基づいた協働作業が求められている。一見、その役割を引き受けながらも、このワークショップでは協働によって形づくられていくものは「分断」である。
これまでは主に小学生(または小学生以上)を対象にしたものが多かったが、刈谷市美術館での展覧会に際して行われたワークショップでは、「対象・定員=5,6歳児(未就学児)・20名」とした。幼稚園という場での経験が増えたことによって、ワークショップの参加対象が拡張されていった。
多様な子どもたちとの出会い
幼稚園での活動は、SNSなどを通じて知人や友人に周知され、保育施設でのワークショップの依頼も増えていった。
大学の同級生でアーティストの村田宗一郎さんが関わる滋賀県H園は、病院内にある保育園だ。(子どもたちは病気ではない。)
ここでは5歳児を対象にしたワークショップを行った。この保育園の子どもたちは、多様な経験が少なく、造形や制作の時間もあまりないと保育士から聞いた。
経験値のない子どもたちでも簡単にできるものの方がよいと考え、新聞紙とテープを用いたワークショップを行った。その内容は清心幼稚園4歳児の「アートであそぼ」の時間に行ったものを参考に、5歳児たちと新聞紙とテープを使い、背の高い彫刻作品をつくるテーマを提案した。
経験が少ないと言われていた子どもたちはまず、テープを切ることができなかった。最終的には大人の介入があり、なんとか新聞紙を高く積み上げたり、立ち上げたりできたものの、造形としてのおもしろみに欠けるものしかできなかった。その反応は、日常的にアトリエやアート的な遊びを体験している清心幼稚園の子どもたちとは、大きく異なるものだった。
秋になると、芸術祭やアートプロジェクトが多く始まる。芸術の秋だ。2014年は『鳥取藝住祭』に参加し、倉吉市関金温泉に滞在した。コーディネーターを務める得田優さんは現在、関金温泉からさらに山あいに進んだ山間地で森の保育園を主宰している。当時は得田さん自身も小さな子どもを育てながら、子育て世代のコミュニティーと繋がりをつくり、森の保育園設立の準備をしていた。得田さんの提案で、子育てサークル「木のねっこ」に向けたワークショップを行うことになった。居住地も年齢もバラバラな親子が定期的に集まり、自然の中で遊んだり、ワークショップを開いたりしているそうだ。子育て経験のない私にとって、子育てサークルという集まりがあることも初めて知ったことだったし、自然をコンセプトにした教育も新鮮なものだった。集まった子どもたちの年齢が1~2歳だったため、公園で様々な素材に触れ、それぞれで遊ぶ内容のワークショップを行った。
同じくレジデンス中に、近隣にある関金保育園でもワークショップを行うことになった。
私が使用していたスタジオの隣には、生活保護を受給する男性が住んでいた。彼は毎日のようにスタジオにやって来て、何かできることはないかと尋ねてくるようになった。前日の夜のBBQのゴミしかなく、それで花でもつくって庭に植えたらどうかと提案したところ、喜んでくれた。ちょうど同じ時期にワークショップの依頼が来たため、同じ内容を行うことにした。新たに購入した素材で。
子どもたちには無限の可能性がある。そんな言葉をよく耳にする。私もそう信じたいところだが、可能性は環境や周りにいる大人の考え方によって大きく変わる。(それは滋賀で学んだことだ。)様々な保育園や子育てサークルといった子どもたちのコミュニティーとの出会いは、多様な子どもたちとの出会いだった。美術館で行われる“ワークショップによく連れてこられる子どもたち”とは大きく異なる。様々な教育格差を実感する出会いの多い2014年だった。
ここまでのまとめ
プロフィールを比較する
最後に、2012~2014年にかけてのプロフィールを比較して、ここまでのまとめを閉じていきたい。
2012年当時のプロフィール。
2013年当時のプロフィール。主なワークショップを紹介している他、本稿のテーマの1つとしているアーティストの社会的役割の拡張について触れている。
2014年当時のプロフィール。ワークショップを主な手法として挙げ、遊びというキーワードを使用し始める。
媒体によって字数や文体などの差があることに注意する必要があるが、この3年間の間に、ワークショップや遊びという言葉を使い、プロフィールを表現するようになったことに大きな特徴が見られるだろう。これは紛れもなく幼稚園というフィールドでの経験によるものである。先生になりすますのではなく、アーティストとしてそこにいるためには、アーティスト中島佑太個人がそこで何がしたいのか深く考える必要があった。そこで選んだものがワークショップだったのだろう。
また以前から他者を交えた活動であることに変化はないが、コミュニケーションというテーマから、社会的課題へと興味が移り変わっている点も大きな変化だ。主な活動の舞台が、地域アートプロジェクトから保育施設や美術館へと移る中で、多様な子どもたちやその周りにいる大人に出会うことで社会を別の視点から見るようになったこと、震災後の社会を展覧会などを通じて、時間をかけて見つめていったことなどが要因として考えられる。
そうして、工作やお絵かきのようなアートの入り口を子どもたちに体験させるようなワークショップではなく、それらも含む様々な遊びを通して、地域や社会の課題について考えるワークショップを行うようになった3年間と言えるだろう。
次回は2015~2017年の活動を見ていく。
(つづく。)