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リヒター展

ゲルハルト・リヒター展に滑り込みで行ってきた。明日からまた四国に行き会期中に戻らないので今日がラストチャンス。平日の昼間だというのに来展者がもの凄い多く、16年ぶりとなる大型の個展ということで関心の高さが伺えた。作家本人が所蔵している作品も多数あり、こういう作品を直に見れるのは個展企画でないとない機会だ。アブストラクトペインティングを始め様々な手法で視覚表現の実験を行なっていることが展覧会を通じてわかる。巨匠の個展はそのキャリアを身体で感じることができるのでおもしろい。また本人の映像をチラッと見ることができたがものすごく元気そうだ。絵を描くということが老いを抑制するのだろうか、きっとそうだろう。大型の作品も多く、今からこの規模の絵を書けと言われても環境的に難しいな、などと考えた。広くて白くて背の高い、そんな空間に身を置きたいものである。

音源の制作がはじまった。納品日を決め、制作スケジュールを立て、仮音源を元に録音や編曲の方針を決めた。一曲、既存の曲にしようか新曲にしようか迷っている枠があり、そのための曲を作っている。なんとなくこんな感じ、とイメージはあるものの具体的な言葉やシーンが見つけられていない。30分も頭を搾るだけで脳は疲れてお昼寝モードになってしまう。リヒター展に行かなきゃなぁと思いながらウトウトして、行かなきゃ!!と重い腰をあげて地下鉄に乗った。
美術作品を観ていると脳が活性化するのかアイデアが浮かぶことが多い。その作品のことを考えるというよりは何か他のことが浮かんできてそれを考えている。今回は私はどんな人間が好きではないのだろうか、という主旨のことを考えてきた。私は品のない人間が苦手である。
昨今、写真撮影OKの展示が増えている。私の行った展示は概ねOKなので、SNSの一般化と共に宣伝も兼ねて業界的に解禁し始めたのだろうか。KAWSの展示の際はフォトジェニックな作品をバシャバシャみんな撮影して楽しそうであったが。リヒターの作品一つ一つを執拗に撮影しているおじさんがいて少々目に余った。何度出くわしてもカメラを向けている。そんなに写真ライブラリに美術館を再現したいだろうか。
まぁ、名建築を観に行ってスケール当ててた時分を思い出して恥ずかしくなるが、その時は鑑賞方法の一つとしてではあったのだろう。好きなように観れば良いが、カシャン、という音が展示空間に響き渡ることはほんの数年前まではなかったと思うので(日本では)、変わったなぁと思った。
鏡の作品があるのだが、これは一つの作品としてどうというより、個展の中で配置されると非常に効果的だという印象を受けた。空間に変化をもたらす、こういう存在はライブのセットリストやアルバムにも必要だ。ガラスであったり鏡であったり、周囲の環境によって表情を変えるような作品は個展において重宝するなと思った。今回リヒター自身も展示空間にメンションしているということで、余計に興味深かった。
さらば青春の光の森田さんは好きだ。品はないが、コンセプトがハッキリしてて発言が身の丈に合っていて説得力がありおもしろい。使う言葉に後付感というか後学感がなくて良い。品性というものは後から付いてくるものだろうか。そんな考えても仕方のないことを考えさせられたリヒター展であった。また、映像表現についても、リヒターの作品を見ながら連想するものがあった。ぼかした映像の作品。なんのこっちゃわからない映像でも、こちらがそれを望んでいるなら大きなヒントを与えてくれる。

また別の行こうと思っていた展示が10月1日までだった。あと15分でギャラリーが閉まる。
今気が付いたかのように書いたが1時間前には知っていた。これに早く気がついていればリヒターとセットでもの凄い充実した日になり得たのに。一度戻ってきた道を更に引き返す非合理性が気になり、ご飯を食べてお腹もいっぱいなのでお家でエッセイを書くことを選んだ。

美術についてトークをしろ議論をしろと言われると困る。そのために見ているわけではないし言葉にできないものを得に観ているのだ。
そういえば村上隆(さん)の最初期の立体作品やタミヤの作品が美術館所蔵作品展に展示されていてこれはこれで感動した。良くそこに着眼したなという発想、言われてみれば!という驚き。実物を見て初めてコンセプトを理解した。やはりテキストからの情報は私の中に入ってきてないことがよくわかる。この目で見て感じて初めて腑に落ちる。
あと2分後に閉まるギャラリーにも、足を運んでおくべきだったかもしれない。

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