骨と畑と芸術家 -それと時々死生観-
※野生動物の死体と、骨の写真を含みます。
今年は、芸術家として畑との新しい関わり合いを始めました。
長野県佐久市の内山にある、うちやまコミュニティ農園の区画を借りて、土の中に野生動物の死体を埋めています。
目的は、「死」をテーマとした、骨をマテリアルとする作品を制作する為です。
先日ようやく骨を綺麗に採取することができたので、
なぜ芸術家は畑に死体を埋めるのか。
少しばかり書きまとめることにします。
「産土」
写真は、今年の夏に埋めた雌鹿の遺体を掘り起こしているところです。
狩猟され、友人の手によって食用に解体された後、残りの体を私が引継ぎました。
この過程で大切にしているのは、この土地で生きていたものが、その土地で消費され、また土に戻るという構図です。
アートの地産地消というと聞こえがいいですが、深くは「産土」の概念です。
産土とは本来、それぞれが生まれた土地を指す言葉ですが、
その土地で祀られる神を”産土神”と称する理由は、
「土地は自らを産み育て、やがて帰る場所である。」と、
昔の人が強く認識していたからだと、私は考えています。
「土は生きるものに多くを与えるが、やがて生きるものは全てを土に返す。」とも言い換えられます。
皮肉なことに、この概念は生きる者にとっての基本であるにも関わらず、文明によって漂白されていきました。
土に帰ることは、肉体が腐っていくことです。
腐ることは汚いことで、不変であると感じていた肉体が変化していくことは、生命にとっての恐怖です。
臭いことや汚いこと、ことさら死にまつわる姿を、私たちは社会の中で薄ーく薄ーく、漂白化していきました。
結果私たちは、遺体はきれいなものだと理解しています。
きれいに生きて、きれいに死んで、きれいな灰になって、終わりです。
本当にそうでしょうか。
生きることは汚く、死は不浄で、肉体は腐り、土に帰ることの方が、
無残であれ命の基本のように感じます。
私たちは、死を漂白したが故に、「産土」の概念が語る、やがて皆が帰るところを忘れてしまったのだと思います。
だからこの作品を制作する過程において、「この肉体は土へと帰った。」という確かな事実が重要なのです。
では、残った骨は何を私たちに伝えるのでしょうか。
その答えを芸術作品として表現することが、この作品の帰結点となります。
「アナグマの記録」
これはアナグマの遺体を埋めた際の記録写真です。
畑近く、交通事故で亡くなった遺体を回収して、土に埋めました。
まだ体は暖かいままでしたが、お腹が圧迫されると、ブゥとガスが漏れ出るので、少しずつ体内で腐敗が進んでいるのを感じました。
遺体には必ず、その時周囲に生えている花や植物を添えています。
これがそのアナグマの骨です。
写真の骨は全体のほんの一部で、致命傷となった部分以外、とても綺麗にアナグマは骨になりました。
「完成は来年」
腐敗が進まなかった為、雌鹿はまだ土中にあります。
冬越しをして、春になったらまた掘り起こします。
そしたらいよいよです。私は答えを出さねばなりません。
その時には、同時に畑に種を播いて、新しい苗を植え始めます。
作品はまだ制作の途中です。完成と展示は来年中を目指しています。
どんな形で帰結するのか、暖かく見守っていただければ幸いです。
文中で登場する畑について
「うちやまコミュニティ農園」
https://uchiyamacf.com
この文章は、iitoco!!アドベントカレンダー2020への投稿記事です。