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清潔感のある日本の小説10選③

③梶井基次郎「路上」

梶井基次郎の完璧さ、ということをいう人がいる。

たとえば丸谷才一「ぼくは梶井の藝術の完璧さに驚嘆する」

たとえば山本健吉「彼の作品の類い稀な完璧さ」

たとえば吉田健一「ということは、こうして書きあげられた作品は完璧であることであって、梶井の作品にはそれがある」

これらの言葉が過褒であるとはいわない。でもこれらの言葉が梶井の書くもの、書いたものの本質を正しく射抜いているかといえば、それはどうか。

完璧という印象が彼の最初の作品であり代表作ともいわれる「檸檬」に多くを負っていることは疑いえない。しかし作家本人は完成当初この作品を「あまり魂が入つてゐないもの」と考えていた。謙遜でないと思う。事実この作品は、三好達治もいうように、以降の諸作とはどこか「異風」なのである。

どこが「異風」なのか。

小説っぽい、のである。

小説的結構が整っている。よくまとまっている。見事だ。

しかし、である。

素人っぽさ。

梶井が生前発表した二十篇の小説のほとんどから受ける第一の印象がこれである。

完成した作品ではなく、どこか習作のようなたたずまい。

梶井基次郎のノヴィシテ。

ここに、夭折したこの作家の本質をなす清潔感の根本原因があると自分は考える。

散文詩ともいわれる。

しかし積極的に散文詩なのではないだろう。小説を小説たらしめている重要な何かが足りず、そのことが散文詩という無難な言葉を招き寄せているにすぎないのではないか。

梶井基次郎は小説の書き方をよく分かっていなかったのではないか。

依頼を受けて書かれ、商業誌に発表された唯一の作品「のんきな患者」もまた小説らしく見える。これもまた「檸檬」とは別の意味で梶井作品として「異風」である。

――つまらないのだ。目を覆いたくなるほどの弛緩ぶりだ。

結局、梶井は小説らしい小説を二つ書いたのである。ひとつは「檸檬」、もうひとつは「のんきな患者」。前者「檸檬」を完成するにあたり、彼はひとつの断念を強いられている。恐らく小説が小説として形をなすには、この種の断念が不可欠なのであろう。そしてこの種の断念の対象たる根本原因がすっかり見失われたとき、弛緩が始まるのであろう。そしてこの弛緩において始まるもの、それもまた小説なのであろう。

二つの小説があるといえそうだ。素人の小説と玄人の小説。清潔な小説と不潔な小説といいかえてもいい。

梶井基次郎の本質的作品群は、「檸檬」と「のんきな患者」、この両極に挟まれた場所で、緊張感と素人性に突き動かされ、書かれた。人のいう「完璧さ」とは、この二つの性質の際どい配合に由来する清潔感の別称だったのかもしれない。

しかし「檸檬」においていったい何が断念されているというのか。

「変な気持」である。

ここで取り上げる「路上」という小説は、梶井基次郎が狙い続けた「変な気持」が恐らくは偶然のうち小説の形に結実した奇蹟の作品であり、素人性が小説らしさとは別の次元に突貫した奇蹟の作品である。

感動でもない、無感動でもない、どちらともつかない「変な気持」を産出する艶消しの機械である。

 ――吾々(われわれ)は「扇を倒(さかさま)にした形」だとか「摺鉢(すりばち)を伏せたような形」だとかあまり富士の形ばかりを見過ぎている。あの広い裾野を持ち、あの高さを持った富士の容積、高まりが想像出来、その実感が持てるようになったら、どうだろう――そんなことを念じながら日に何度も富士を見たがった、冬の頃の自分の、自然に対して持った情熱の激しさを、今は振返るような気持であった。

(春先からの徴候が非道(ひど)くなり、自分はこの頃病的に不活溌な気持を持てあましていたのだった。)

 ――自分は変なところを歩いているようだ。どこか他国を歩いている感じだ。――街を歩いていてふとそんな気持に捕えられることがある。これからいつもの市中へ出てゆく自分だとは、ちょっと思えないような気持を、自分はかなりその道に馴れたあとまでも、またしても味わうのであった。

 誰かがどこかで見ていやしなかったかと、自分は眼の下の人家の方を見た。それらの人家から見れば、自分は高みの舞台で一人滑稽な芸当を一生懸命やっているように見えるにちがいなかった。――誰も見ていなかった。変な気持であった。

 自分、自分の意識というもの、そして世界というものが、焦点を外れて泳ぎ出して行くような気持に自分は捕らえられた。笑っていてもかまわない。誰か見てはいなかったかしらと二度目にあたりを見廻したときの廓寥とした淋しさを自分は思い出した。

 帰途、書かないではいられないと、自分は何故か深く思った。それが、滑ったことを書かねばいられないという気持か、小説を書くことによってこの自己を語らないではいられないという気持か、自分には判然(はっきり)しなかった。恐らくはその両方を思っていたのだった。

梶井基次郎は志賀直哉に傾倒していた。「直哉の様に書くこと」をめざしていた。しかし「変な気持」を志向する梶井の小説は、これみよがしに清潔な志賀直哉ふうの心境小説とはまったく違った言葉の編成をもっている。「いい気持」、「嫌な気持」ではなく、「変な気持」と書く。――「変な気持」を書く。

心境小説が日本語で書かれる小説の根本原理なのであってみれば、一定量の言葉が日本語の環境において小説であるためにおかしてはならない禁忌がある。その禁忌、あるいは小説の限界に触れる言葉のひとつが「変な気持」だ。この言葉が出現するや、小説はそれを構成する四つの文字の存在を完全に消却すべく速やかに動き始める。ここにおいて作動するのは自律的な言葉の安全機構であり、そこに小説家の意志の介入する余地はまったくない。

しかし「路上」で梶井は「変な気持」と書いたのだ。

「変な気持」を書いたのである。

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