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帰ってきたヒトラーを観て

梅雨のせいで、家にいる機会が多く
最近よく映画を観る。

映画って、観るときはまるで禁断症状でも起きたかのように連続的に観てしまうが、観ない時は徹底的に観なくなる。あれってなんだろう。

おそらく映画自体にパワーがあるから、調子が悪いときは気押されてしまうからもしれない。
あとはサブスクのせいもあるかも。あれだけ選択肢があるとかえって、選ぶのが大変。

誰か自分専用の映画コンシェルジュがいて、その日の気分や体調、欲しているものを検討して、三つぐらいの候補を挙げてくれるとうれしいんだけど、そのうちAIが発展したらそうなるのかな。

ということで、先日のゴジラ1.0に続いて、「帰ってきたヒットラー」を観た。選んだ理由には特に意味がない。U-NEXTでお勧め上位にあったのと、SNSで考えさせられるという記事を読んだ記憶もあったので。

結果としては、かなり面白かった。しかし、よくこのモチーフが映画化できたもんだと思う。時代が少し変わってきたのかな。さすがにあのマークは劇中に使われていなかったけれど。

映画の詳細や評価は、専用のサイトを観てもらうとして、同じモチーフを文学に持ち込んだらどうなるかと想像してみた。つまり現代に夏目漱石や芥川龍之介が現実に帰ってきたらどうなるのだろうと。

果たして彼らが書いた作品は、現在において売れるのだろうか。話題になるのだろうか。そして夏目漱石は多くの弟子が自宅に集うようになるのか。
・・・きっと、売れないだろう。

ヒットラーがなぜ、現代のドイツに帰ってきて、テレビ上の笑いものから次第に民衆に受け入れられていったか、
「私が選ばれたのは、国民の中その意識があるからだ」というような意味のことを言っていたが、つまり人の共通意識っていうのは、こと政治に関しては、数十年やそこらでは、そんなに変わらないのかもしれない。

だったらなぜ、夏目漱石や芥川龍之介、もっと遡れば近松門左衛門や滝沢馬琴の作品は、現代に出版されたとして売れるのか売れないのか。

それは、人の共通意識については、こと文学には当てはまらないということかもしれない。簡単に言ってしまえば、嗜好が多様化したせいだろうと思う。

それだけ文学を始め、音楽や、絵画のような芸術に対しては、全員が持つような共通意識、共通認識といったものが、持ちにくいものになったのかもしれない。
つまりは「熱狂が生まれにくくなった」のだ。

政治は、その点は違う。この前の東京都知事選もそうだったが、新しいリーダーが切実に望まれているし、ふいに脚光を浴びる機会も多くなった。

卓越したリーダー、世の中の閉塞感を打ち破るようなリーダーシップを持った、つまりは「熱狂」するような政治家。

「熱狂したい」この政治的な飢餓感は、年々強くなっている。特に若者において。

ただし、問題はその「熱狂」である。強すぎる飢餓感は変わらずに流れている共通意識とあいまって、帰ってきたヒットラーを蘇らせてしまうのか、はたまた新しいスタイルの政治家を誕生させるのか。

この映画を観て、映画の内容よりも、ふとこの国のことを省みてしまった。

“ 夕立に 追い立てられて 居酒屋に ”






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