前向きなエッセーを書きたい
本当は、もっと軽やかな、人生前向きなエッセーが書ければいいなと思っています。
例えば、「つまらない常識から開放され、自分らしさを手に入れたり、お金に左右されない自由な生き方を手に入れる。そして、最後には癒されて幸福になる」。といった、思わず読んだ人が勇気づけられて、生きる元気が出てくるような・・・。
それがうまくいけば、スキの数もフォロワー数もアップするに違いない。と思っていざ書き始めるのですが、どうしてもキーボードを打つ手が途中で止まってしまいます。
それというのは恐らく、自分の中で「癒し」、とか「自由な生き方」とか、「幸福」とか、「自分らしさ」、「生きる勇気を与える」などという耳障りのいい言葉が、小説書きの自分としてはどうにも好きになれないからかもしれません。
特に、何かで感動して「癒された」というのは、方便として使うのはいいのですが、「癒しを与える」とか、「自由な生き方を教える」とか、他人に向かって上から言う人のことは、全員胡散臭いと思っているので、極力使わないよう気を付けています。
「癒し」なんてものは、温泉に浸かって使うレベルでいいと思います。なぜなら、そう簡単に他人を癒すことなんてことはできないと思っているからです。それこそ一大事業だと。
ましてや、かつて尊敬する評論家が、「その場から動けなくて辛い人(家庭、仕事に縛られている人)」に向かって、「自由な生き方」や「儲け話」、「救い」、ちょっと前なら「ノマド」などの話をする者を、「世間師(ある昔の言い方)」だと言っていましたが、私もまさしくそう思います。
そういった相手に、気持ちを楽にする言葉をうまく駆使して、いい気分(夢を見させて)にさせて、お金を巻き上げる。少し前なら、情報商材を売る者もその仲間の一員かもしれません。
もちろん、中には心から善意で、そういった身につけた知識や、生き方を、伝えたい、誰かと分かち合いたいと思う人もいるので、一概に「世間師」=「悪者」とは言い切れないし、思っていません。
ただし、その誰かと分かち合いたい(教えたい)という気持ちというものは、とてもあいまいで危険なもので、最初はそうであっても、多くの者が信奉するにつれて、その気持ちが先生化、教祖化、サロン開設者側に振れてしまいがちです。
もちろん、それも全員が「悪者」だとは思っていません。サロンに入って救われる人もいると思います。その中で気になるのは、彼らは、「気づき」という言葉をよく使うことです。
「まずは気づく、それによって人生が劇的に変わる」と。
そのほとんどは「気づく」のではなく、「わかった気がする」というレベルだと思います。ああいった、幸せ教(勝手に名付けました)の信者たちは、セミナーやサロンに行って、前向きや、幸せになる話を聞いて、何か重要なことに気づかされたと思って感動します。
しかし、家に帰ってお風呂に入り、ご飯を食べ、ほっと息をついて、さあ今日の気づきを活かして、明日の学校や仕事のことにつなげようとすると、さっきまでの気持ちはどこへやら、あっという間に憂鬱な元の自分に戻ってしまいます。つまりは一瞬のこと、気のせいだったのです。
もし、それで人格まで変わったのなら、それこそ本当の気づきかもしれません。しかし、それがある種の洗脳だった場合、とても悲惨な結果となります。
それだけ「自分」というものは確固たるも存在であり、洗脳から守ってくれる存在なのです。そもそも自分探しなどしなくても、すでにある立派な「自分」です。
そういう人たちに文章で「気づき」を与えるのも意義あることかもしれませんが、行き過ぎて自分の考えで洗脳もしたくありません。
せめて自分のエッセイ-で実現したいのは、こいつ何言ってんだと苦笑してもらうか、本当に共感してくれるか、可哀そうだと憐れんでくれるかぐらいのものです。
そして、本当の「癒し」というものを求めるとしたら、「聖書」、「歎異抄」、「コーラン」といった世界中で聖典と言われるものか、それに近い壮大な物語だと思います。といいつつ、ふとそういった記事をnoteで見つけると読んでしまう仲村でした。
ではまた