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空想旅行案内人 ジャン=ミッシェル・フォロン展を見て
自分には絵心がない。絵心ない芸人としてアメトークに出られるほどに。
小学生の頃、絵画教室に通っていた(無理矢理通わされていた)ことがある。
その教室では、クロッキー、水彩画から始まって、高学年になると油絵コースに移っていくというコースになっていた。
しかし、幼き頃は自分の絵心がないことに気づかないほど、絵に関しては音痴だったために、自分も中学生になったら自然に油絵コースに移るのだと単純に思っていた。
しかし、先生(名前は覚えていない、日展の常連者)から、ある日面談があって、本当に油絵をやりたいなら止めないが、水彩画を続けていった方がいいと、やんわりとだがこう諭された。
さらには絵道具はお金がかかるし、時間もかかるとも言われたが、今思えば、君はやるだけ無駄ということだった。絵画教室は、結構流行っていたので、わたしはつまり、教室リストラ対象者になったのだと思う。
こうして自分の絵心は、ぼきっとへし折られ、周囲は年下の子ばかりになっていく水彩画コースで、上手くもならずモチベーションも上がらないので、いつしか教室に行かなくなってしまった。ほどなくして、自分の人生での絵描き人生はピリオドを迎えた。
だから、わたしにまったくまったく絵心がないことを知っている者は、だったら絵を観るのも好きじゃないかと思いがちだが、実際、絵を見るのは好きである。
それどころか、妙に絵心がないせいで、技術的な視点や、絵画史などの知識から、まったく取っ払いの自由に、目の前に並べられた絵そのものを、何の忖度せずに見ることができる(ような気がする)。
前置きはともかく、今回のジャン=ミシェル・フォロー展だが、見て良かったかと聞かれれば、「良かった」。ただ、もう一度見たいかと言われれば、「一回でいいかな」という答えとなる。
ただ、いち物書きとしては、展覧会の枕言葉として、「空想旅行案内人」というネーミングが秀逸だと思った。とにかく響きがいい。うまく彼の作品の雰囲気を現している気がした。このネーミングで勝負あったという感じがする。
事実、空想案内人に誘われて、美術館は結構な来館者で賑わっていた。
ちなみに、過去において、もう一度見たくなった展覧会というのを思い出してみると、ぱっと思い出せる範囲では、今同時に名古屋市内で開催している、パウル=クレー。梅原龍三郎。カンディンスキー、そして池田満寿夫ぐらいである。
このレパートリーだけでも、馬鹿みたいに絵の好みがまったく一貫していないことがわかる。
そこには、印象派とか、何々派が好きだとか、何の学派も好みも反映していない。ただ、もう一回見たいという「思い」だけの差である。それは、ある意味、映画やドラマと同じかもしれない。
ただ、絵といういは、もう一度見たいという理由をもっとも言語化しづらい。シンプルに見たいか、見たくないかしかない。
それは、果たして言葉で語れるほどに絵画を学ばなかった欠点かもしれないし、もっと深く勉強していたら、絵についてもっと楽しく鑑賞できたかもしれない。それはわからない。
それでもあえて言語化してみると、ジャン=ミシェル・フォローの作品でも、特に初期作品、どこか好きだった星新一の空気感を思わせて、とても良かった。
ただし、途中から政治的な思想や、環境問題に触発されて、絵に社会的なメッセージが入り出してから、空想旅行案内人は、空想の世界から、「現実の案内人」に、変わってしまったような気がしたのは自分だけだろうか。
もし、最晩年まで、現実の政治や社会などのしがらみを超えて、はるかなる空想旅行を続けていたならば、もっと遙かに遠く誰も見たことがない、新たな空想世界を見せてくれたかもれない。
“ 冬の午後 美術展にて 未知の旅 ”
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