ゴジラ-1.0を観て
ゴジラというと、どうしてももう少し上の世代のもののような気がして、小さい頃に色々観たけれど、内容のほとんどを忘れている。
ただし、メカゴジラとの闘いは例外で、音楽だけはよく覚えているけれど。
つまり、ゴジラに対しては、すべてがぼんやりした記憶でしかない。
そして、時が流れて令和に入り、庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」を映画館で観た。
それなりに面白かったが、そのぼんやりとした記憶がそのものがネックとなった。ちゃんと記憶が残っていないのにも関わらず、いつのまにか、古きゴジラの映画と無意識に比べてしまい、違和感を抱いたのだ。
「何か違う・・・と」。無意識がそう告げていた。
別に映画に限らずとも、人は、そのぼんやりした記憶というものを、案外しっかり残っていて、価値判断の際に突然発動したりする。思い出補正も似た動きの一つだろう。
その違和感というのは、意外にやっかいな存在で、こうした映画を観たときに作品の出来不出来よりも大きく作用する。
そして、今回はアカデミー賞にもノミネートされた、「ゴジラ1.0」。
言うまでもなく、とても評価が高く、絶賛されているのは知っていたが、あのぼんやりした記憶と、庵野秀明監督のゴジラに感じた、新しい解釈のゴジラ(庵野秀明監督はそう思っていないかもしれない)のせいで、映画館に足が向かなかった。
そして、ついにアマゾンプライムで無料で見られることがわかって、有料になる前に見ようと思って、急いで観た(せこい)。
結果、それは、多くのヤフコメや、評価サイトの通り・・・面白かった。さすがアカデミー賞候補作。
ただし、自分としては、ゴジラ対日本というよりも、戦争映画だなあという印象の方が強かった。よく、アメリカのアカデミー賞がノミネートさせたとすら。
もちろん、放射能事故から生まれたゴジラの襲来がメインテーマだが、日本の凄さをそれとなくアピール、いや思い出させるようとしている気もした。すべてが何かの暗喩として。
しかし、そういう穿った視線から観ても、十分面白かった。
そして、シンゴジラを悩ませた、あのぼんやりした記憶。
今回は不思議と、あまり意識されなかった。
あの何となくの記憶は、ゴジラ1.0には作用しなかったのだ。
そう、きっと違和感を持たなかったのは、昔のゴジラに、どこか雰囲気やテイストが似ていたのかもしれない、自分が意識しない中で。
それは、私の同年代や少し上のゴジラ世代、そして、ゴジラを知らない世界の人の、広きに渡って受け入れられた要因かもしれない。
幼き頃に観た映画やドラマやアニメ。そのほとんどの内容を忘れてしまっていても、キャシャーンや、ヤッターマンや、過去のリメイク版やドラゴンボールなどのアニメの実写化のほとんどの作品が失敗するのは、作品の不出来よりも、この違和感が、どうして、無意識に発動してしまうからのような気がする。
ゴジラ1.0の成功の秘密。
それは、懐かしい既視感を覚えさせながらも、かつて観ていた人たちの違和感を吹き飛ばすような、圧倒的な作品力を提示できたからだと思う。
そう思うと、過去の作品のリバイバルや実写化は簡単そうに見えて、実はハードルが高い。そしてそのハードルを乗り越えたとき、再ブームの風が吹くのかもしれない。
プライム会員の人、無料の内にどうぞ・・・(決してアマゾンの回し者ではありません)。
“ ゴジラよ 梅雨のじめじめ 吹き飛ばせ ”