少しばかりの方向転換
とにかく、自作の小説を読んでもらいたい、そのためにはまずは自分を知ってもらおう、仲村比呂に興味をもってもらおうと、半年限定ぐらいの気持ちでNoteを始めたのですが、やっていくうちにいろいろ楽しい、続けようかなと思うのと同時に、しだいに、書くのが難しい、大変だなあとも思うようになりました。
単純に、ネタが尽きたということもありますが、村上春樹さんも著作の中で、エッセーを書き過ぎると、小説が書けなくなると、どこかで書かれていたとおり、自分の中の気持ちの中の「溜め」のようなものが次第になくなっていくような気がするのも確かです。
反面、エッセイを書き出してから、自覚していなかった気持ちや、もやもやする気持ちが整理される気がするので、一切辞めてしまうのもかなり迷うところです。
そういう意味で、世に言うエッセイストというのは、単純にすごいなあと思ってしまいます。私のような素人は、ネタ切れになると、どうしても外に話題を探しがちになります。
ところで、エッセイの語源となった「エセー」を記したモンテーニュは、若くして公職を辞すると、田舎にある自分の城の塔にこもって、読書と思索にふけり、執筆するだけの生活を送ったといいます。
世界を放浪したり、戦争を体験したりするように、外にネタを探しに行くのではなく、内なる思索を重ねるだけで、現代の人間を捉え、生き方を考察していったのです。
最近、有名ユーチューバーの廃業が多いと聞きます。競争が激しくなったのもありますが、ネタ切れになったということもあるでしょう。競争の激化とネタ切れが相まって、中には過激なことを試みて社会的に炎上し、退場を余儀なくされたユーチューバーもいます。
もちろん、エッセイとYouTubeの世界は分野が違いますが、一つの作品を作ると言うのは同じであり、大変さは変わらないと思います。そして、どこかやはり自分を切り売りしていく行為でもあると思います。それをやり続けると、確かにかなりの消耗と疲れをもたらします。体験型作家のヘミングウェイの晩年がいい例かもしれません。
エッセイと随筆は同じ言われるかもしれませんが、私としては随筆はもっと、個人的な心情の吐露をする、どこか日記に近いものだと思っています。
エッセイは、あくまで他人に読まれるものを前提としていますが、日記はあくまで本当にインパーソナルな世界のものです。その代表例に挙げられる永井荷風の「断腸亭日乗」ですが、実は生前から、いつか出版されて人に読まれることを想定して、実は本音だけを記した裏日記が存在していたという噂もあります。
たぶん、人に読まれると思った瞬間から、文章にある気持ちの制御が働き、あくまで自分だけの日記としながらも、どこか随筆に近いものになっていった気がします。だからこそ、個人的な日記ながらも、世の中に受け入れられた気がします。
せっかく始めたNoteなので、今後は、エッセイ的なものの比重は少なくして、永井荷風「断腸亭日乗」に、種田山頭火の「其中日記」、そして西村賢太さんの「一私小説作家の日乗」を合わせたような内容にしていければと思っています(決して自分は無頼派ではないので、話が面白くなかったらまた考えます)。
もちろん、これら偉大なる先人には、その内容の面白さも、深さも遠く足元にも及びませんが。
ではまた
夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com