ブログで書くことがなくなったら
今まさに、そんな状態。
なので、ブロガーとか、エッセイシストとか、毎日のように書ける人って、素直に凄いなあと思ってしまう。もちろんそれなり大変さはあるだろうけれど。
村上春樹さんじゃないけれど、エッセイを書き過ぎに気をつけていて、
「日常的に身の回りにで起こったことや感じたことを、そのまま書いていると、だんだん自分の生活を切り売りしているような気持ちになってくるからです。そんなことをしていると、あとに何も残らないんじゃないかと思えてきます」出典 「ひとつ、村上さんでやってみるか」(出典 朝日新聞社)のとおりで、自分が空っぽになっていくような感じはある。
もちろん、心とか身体は、不満などや溜めておかず、常に外に放出するようにして、空っぽにしておく方が身体にはいいと言う人もいる(どこかで読んだ気功の先生の言葉)。
逆に小説家のように、言葉を扱う者は、心の中のモヤモヤや、嘆きや、怒りや喜びを心の中に大事にとっておいて、(村上春樹流に言えば、引き出しにしまっておいて)、それらが自然に形をとって、いつしか物語化するのを待つ方がいいのかもしれない。
改めて言うけれど、このNoteでも、毎日更新している人、それも何年ものあいだ毎日欠かさずにしっかり書いている人(代表例、やひろさん)とか、ただただ凄いなあと感心している。
一方、これもあるブロガーさんの記事で、
「ブログを毎日書いていると、ある日頭の中で、もう打ち止めです、辞めてくださいというランプが点滅する時があります、つまりガス欠」というくだりがあった。その意味も春樹さんと言っている意味は同じなのだろう。
もちろん、ブログのネタなどは、必死に探せば見つからないことはない。この世には、面白いことや、貴重な経験など、たくさんある。
しかし、ある時点より、文章を探すためのネタ探しが、すべてに優先するようになるとどこかまずい気がする。
遊んでいても、散歩していても、他人の葬式ですら、その悲喜こもごも自体を味わうより先に、良いネタになるのはないかと探している自分がいる。
そうなると、せっかくの楽しさも、没頭するのではばく、どこか一歩引いてみるようになり、台無しにしがちになる。それは、写真を取るために、いちいち立ち止まらなくてはならないことにも似ている。
ブログだけでhなく、文章を書くというのは、頭だけではなく、身体をすり減らすまさに全身運動でもある(体感として)。
たぶん、いくら文章を書くのが好きな人でも、三日三晩ぶっ続けで書き続けたら、死んでしまうだろう。
それほど書くというのは体力・気力を奪う。
もちろん、プロのエッセイシストやブロガーはそんなことは言っていられない、「まさに、そこからがプロの腕の見せ所であり、プロたるゆえん」なのだろう。
たとえば、書道家が書く、草書の作品は、はたから見ればすらすら、さらさらと筆が流れるがまま書いているように見えるが、そのレベルを書けるようになるには、それこそ長い鍛錬と努力と経験の蓄積が必要だ。そして、かなりの体力を奪っていることだろう。
大前提として、Noteが辛い、書くのが辛かったら、別に誰かに依頼されているわけでもないから、すぱっと辞めてしまえばいいのかもしれないけれど、一度自らの意志で作った場(NoteやX)というのは、一つでも責任をもって送り出したものがあったら、絶対に自らの手で消してしまってはいけないと思う。
その出来不出来は別として、発せられた言葉やその後のやりとりは、すでに自分の手を離れた社会のものであり、みんなの共有物となるだからだ。
とにかく辞めずに、ゆるい感じで続ける。
それが、ブログで書くことがなくなった先の境地なのかもしれない。
そして忘れてはいけない構えかもしれない。
とにかく辞めないこと。
と、自分に言い聞かす。
あの、吉田兼好の徒然草もそういう気持ちで書かれていたみたいだし。
“ 夜庭にて わびしき声出す 迷い猫 ”