推論的世界【6】
【6】定義─“論理”をめぐって(5)
当初の予定では、今回から、感情の論理(トマス・アクィナス)や感覚の論理・神話の論理(レヴィ=ストロース)をはじめ、深層のロゴスや無意識の論理・対称論理(マテ‐ブランコ)、擬論理、古論理、レンマ、等々の、「創造的」な論理の諸相をめぐる話題に転じ、それぞれ一瞥しておくつもりでした。
しかし、私が構想している「伝導」なる第五の推論の、いま一つの“実例について、どうしても書き残しておきたくなったので、今回もまた、先達の仕事に全面的に寄りかかることにします。
その5.上野修『スピノザ考──人間ならざる思考へ』
第三章「『エチカ』は定義で始まる」の議論を、以下、箇条書きのかたちで‘縮約’する。
1.スピノザの『エチカ』は定義で始まる。
たとえば第一部の冒頭には、「自己原因」や「実体」「属性」「様態」「神」など八つの定義が掲げられているが、これらは「名目的定義」なのか「実在的定義」なのか、すなわち単なる恣意的なものか、それとも事物の内的本質を正しく表現した根拠のあるものなのかという議論がなされたきた。
多くの研究者が実在的定義と解釈しているが、上野氏はそうではない(いずれでもない)と考え、その理由として二つの事実をあげている。
2.第一の事実。
スピノザは『知性改善論』で、「真なる定義」の例として円の定義「一端が固定し他端が運動する任意の線によって描かれる図形」をあげている。これは「発生的定義」と呼ばれる実在的定義の一種であるが、『エチカ』の定義群がみなこのタイプのものとは言いがたい。
それもそのはず、『知性改善論』はこの定義論の段階で失敗していたのである。というのも、スピノザが求めた認識の出発点となる(円や神の)真なる定義は、その到達点である事物の真なる認識(円や神の概念)と区別がつかないからである。
3.第二の事実。
スピノザは、『知性改善論』の頓挫の一年後、友人に送った書簡の中で、名目的・実在的という定義の区別は間違っている、といった趣旨のことを書いている。
上野氏の解釈によると、スピノザの真意は、定義は真であるかどうかによってではなく、その使用によって区別されるべきだというもの。
その区別の一つは「既知の対象を他者に説明し伝えるための記述」としての定義であり、もう一つは「それ自身が試され吟味されるためにのみ立てられる定義」すなわち「われわれの思考を導き、未知の結論へ至る定義」である。
4.スピノザは前者(既知の対象の説明)を「真なる定義」と、後者(未知の結論導出の出発点)を「よい定義」と呼んでいる。『エチカ』の定義、幾何学的証明の出発点となる定義は後者であって、その真偽を問うことにはナンセンスである。ただよく理解できる「よい定義」であればよい、とスピノザは言っているのである。
5.実在する一定の対象を持たず「吟味されるためにのみ立てられる」ものとして、『エチカ』冒頭の定義を捉え、首尾よく定理が導出できるかどうか「吟味」してみた。そのアウトラインは次のとおり。
・他の性質なしにそれ自身で考えられるような認知的性質のことを「属性」と呼び、そういう属性のもとでまさに他のものなしにそれ自身で考えられるようになっている事物のことを「実体」と呼ぶ。これが属性と実体の定義である。
・すると当然、どんな実体も他のものなしに考えられる以上、他の実体と共通点を持たずに、したがって、ある実体を他の実体から説明することはできない。また同じ属性なら実体の区別ができないので、同一属性の実体が複数あることは不可能である。
・すると、どの属性の実体もその属性では唯一で、他なるものを持たず、したがって、他の実体から限定されることも産出されることもできない、ということになる。そこから実体はそれがどの属性の実体であれ、自己原因的で無限で永遠であることが出てくる。
・いま極大の事象性(realitas)を考えるために、無限に多くある属性からなる実体を考え、これを定義により「神」と呼ぶ。つまり、同じものがどの属性でもその属性の実体として見いだされる、すなわちこれまで述べてきた実体はみな同じものの異なる属性での表現だと考えるのである。
・すると、この実体はおよそその外というものが不可能な、唯一絶対の事物であることになる。それはどの属性でも他というものを持たず、それゆえ他から生み出されることはありえない自己原因である。また属性を同じくする複数実体は不可能なのだから、無限に多くの属性からなるこの実体以外にはいかなる実体も存在しえない。ゆえに定義された神は絶対的に無限なもの、極大の事象性そのものである。
6.以上の考察から言えること(神の観念に関連して)。
・スピノザの哲学は神からはじまると言われるが、不正確である。『エチカ』冒頭の神の定義は神の本質を説明的に与えていない。定義は「神」というタームの意味を定めるがそれ自身は真偽と無関係であって、対象の真なる観念ではない。
・スピノザにとって事柄(経験であれ概念であれ)は分析されるのではなく証明的に構成されるべきものである。スピノザは早い時期から、神を成り立たせている諸属性は「そのおのおのがそれ自身で無限に完全でなければならないもろもろの無限な実体にほかならない」と考えていた。しかし無限に多くの実体をおのが属性とするそうした逆説的な対象を提示するためには、あのような定義と証明による、いわば一定対象ゼロからの構成がどうしても必要だった。証明はやってみなければわからないからである。
──“ロジカル・ハイ”を覚えずして、上野氏の文章を読み終えることはできなかった。
ここに躍動している「生きた」論理のはたらき(それはもちろんスピノザ哲学の実質ではあるのだが、同時に上野氏の思考の捌きそのものの感触でもある)、すなわち推論は、かの「伝導」の“典型例”にほかならないではないかと、手前勝手な「理論」のもとで興奮した。
定義から出発し、公理の助けを借りて定理へといたる「構成」、それは「伝導」なる推論様式の──前々回取りあげた「実存論的飛躍」に匹敵する重要な──側面にほかならず、また、そこに介在する「論理的“時間”」とでも呼ぶべきものは、「伝導体」の概念を構築していくうえで見落とすことのできない大切な要素である。
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