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文字的世界【12】

【12】フィギュールをめぐって

 にわか勉強のため、参考書として一瞥した『ジル・ドゥルーズの哲学と芸術──ノヴァ・フィグラ』の著者・黒木秀房氏は、ドゥルーズ哲学におけるフィギュールの概念をめぐって、次のように書いています。
「イメージと言葉の連関を規定する特殊なイメージこそ、ドゥルーズが「フィギュール」と呼んでいたものだった」(118頁)。
「フィギュールはきわめて多義的であり、さまざまなコンテクストにおいて用いられるが、それはフィギュールがマジックワード化しているのではなく、フィギュールを中心に旋回することで、さまざまな問題が展開されているからである。つまり、フィギュールは、内にありながらにして外の存在であり、この内なる外をめぐって取り結ばれる関係性が問題となる」(223頁)。
 イメージと言葉(エクリチュール)、「見ること」と「話すこと」の中間(インターフェイス)にあって、両者の連関を規定する「内なる外」の存在としての“フィギュール”は、事象や学問の領域、論脈や関心に応じて、様々に訳し分けられています。
 いま黒木前掲書他の関連本から例を引くと、形、外形、形態、形象、表徴、像、図像、図形、図式、挿絵、肖像、容姿、顔付き、人物(像)、姿、詞姿、文彩、喩、比喩形象、音型、等々と多岐にわたり、キリスト教神学の文脈では「前兆」の意で用いられることがあります[*1]。(ちなみにフランス語のフィギュールはドイツ語のゲシュタルト、ギリシャ語のリュトモス(リズム、かたち)の訳語。)
 
 杉本秀太郎著『見る悦び』に「形の生態誌」という文章が収められています。これは、フォション『形の生命 Vie des Formes』(平凡社ライブラリー改訳版)の訳者あとがきを「書き改めた」ものです。
 著者はそこで、形はいのちをもつ限り「自在なメタモルフォーズをくり返し、絶え間なくみずからの必然からみずからの自由へ向かっている」というフォションの言葉を引き(379頁)、1943年パリで刊行された際の副題「フォルムとスティル」をめぐって、「わたしたちが普通スティルを文体、フォルムを形あるいは形態と訳しているときには、何か生き生きとしたもの、その動きが愉快をおぼえさせるようなものを想定している」(382頁)と、かつての自身の小文を再録しています。
 そして、水に映じる影から「絵すがた」、人形(ひとがた、この場合の「かた」は輪郭だけを描き、なお着色していない絵のこと)までの許容がある「イマージュ」の語義にふれたあとで、「フィギュールという語になると、さらに事態は紛糾し、フォルム、スティル、イマージュがこの語のなかに流入し、意味の渦を惹き起こしている」と書き、スタンダード仏和辞典(第二十版)が収載する16種の訳語(「トランプの絵札」や「剣術の構え」を含む)を一覧しているのです。
「これを見ていると、フィギュールという語には、一目瞭然という含蓄のあることが理解される。縁辺の定かでないもの、不安定な、ゆれ動いてやまぬものの形態は、イマージュの領分である。(略)それにしても、フィギュールに対応する日本語の語彙は、フォルム、イマージュの訳語と重複するところが多く、トランプのキング、クィーン、ジャックの絵札には、様式となり型となった紛れもない形状があり、剣術のじょうずな構えには風格があるのだから、フィギュールはスティルを飾り、スティルはフィギュールの集合核になる。」(385頁)

 ──以上の抜き書きから、“フィギュール”とは、自由に変身・変態をくりかえす生命的なもの(型、力)であり、その(ゆれ動いてやまぬ「イマージュ」の)くっきりとしたあらわれ(姿)であることがわかります。小林秀雄の口吻を真似れば、「純粋な表現性」としての形に対する「瞭然たる表現性」としての姿、といったところでしょうか[*2]。

[*1]塩川徹也著『虹と秘蹟―─パスカル〈見えないもの〉の認識』の第Ⅱ章「虹と秘蹟──記号から表徴へ」に、「時の流れにあって来るべきものを予告すると見なされた事実」、たとえば、ノアの箱船はキリスト教会の象徴であり、過越祭の犠牲の子羊はイエス・キリストの表徴であるといったように、「旧約聖書によって伝えられる人物、事件、制度などが、やがてキリストの来臨において開示されるより高い「実在」を、あらかじめ象徴としておぼろげに表現していると考えられる場合」、それらは伝統的なキリスト教神学において「表徴」(figura,figure)と呼ばれたとある。
 いわく、カトリックの聖餐式 (ミサ) において、聖別されたパンとブドウ酒はキリストの体と血を表現するものであるとされる。しかし、そのような聖体を「象り(figure,type)、像(image)、複製(antitype)等」として、記号やしるしの観念との明確な区別なしに用いると、「像である聖体は原型としての神キリストではありえないのではないか」という疑問にさらされることになる。そこでパスカルは、「表徴」(フィギュール)という観念を自らのキリスト教擁護論の中心に据え、ミサにおいて繰り返され「反復される出来事」と、聖体の秘蹟の成立根拠であるキリストの受肉と受難という「一回限りの出来事」との一致、あるいは「記号=像=コピー」と「もの=原型=オリジナル」との一致を、永遠ではない時間のただ中で実現する「出来事」として聖体をとらえた。

《オリジナルは論理的観点からすればコピーに先行するが、表徴においては、コピーがオリジナルに時間的に先行する。しかもここでオリジナルとなるのは、時空を越えたイデアではなく、イエス=キリストの受肉によって時のただ中に出来する出来事、その限りにおいて個別的な事柄なのである。表徴の究極の根拠は、『ヨハネによる福音書』の冒頭に述べられる言[ことば]の受肉、初めに神と共にあった言、神であった言の受肉なのである。同じ個所で、洗礼者ヨハネのキリストに関する証言、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」(第一章一五節)という言葉が引かれているが、これこそまさに表徴と実在との関係に他ならない。》(『虹と秘蹟』103-104頁)

[*2]小林秀雄は『本居宣長』で「文(あや)ある声のカタチ」という表現を用いている。それは「あしわけ小舟」に「カナシミツヨケレバ、ヲノヅカラ、聲ニ文[アヤ]アルモノ也。」云々とあるのを引用した文章のなかにでてくるものだ。

《誰も、各自の心身を吹き荒れる実情の嵐の静まるのを待つ。叫びが歌声になり、震えが舞踏になるのを待つのである。例えば悲しみを湛え難いと思うのも、裏を返せば、これに堪えたい、その「カタチ」を見定めたいと願っている事だとも言えよう。捕えどころのない悲しみの嵐が、おのずから文[アヤ]ある声の「カタチ」となって捕えられる。宣長に言わせれば、この「カタチ」は、悲しみが己を導くその「シカタ」を語る。更に言えば、「シカタ」しか語らぬ純粋な表現性なのである。この模倣も利き、繰返しも出来る、悲しみのモデルとでも言っていいものに出会うという事が、各自の内部に起る。私達は、誰もその意味合を問う前に、先ずこの悲しみの型を信じ、これを演ずる俳優だったと言ってもよかろう。》(『本居宣長』)

 また、宣長が「石上私淑言」で「聲を長くし、詞に文[アヤ]をなす」のが「歌のかたち」だと述べたことにふれて、次のように書いている。「宣長に言はせれば、歌とは、先づ何を措いても、「かたち」なのだ。或は「文[アヤ]」とも「姿」とも呼ばれてゐる瞭然たる表現性なのだ。歌は、さういふ「物」として誕生したといふ宣長の考へは、まことにはつきりしてゐるのである。」

 小林秀雄が言う「純粋な表現性」としての「カタチ」は“イメージ(イマージュ)”に、「瞭然たる表現性」としての「文」(「アヤあるカタチ」)あるいは「姿」が“フィギュール”にそれぞれ対応する。やや図式的だが、私はそのように整理している。
 ちなみに、ベルクソンの「イマージュ」をめぐって小林秀雄は次のように語っている。「この「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりしないのだな。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとするのだな。/「古事記伝」になると、訳はもっと正確になります。性質情状と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。「物」に「性質情状[アルカタチ]」です。これが「イマージュ」の正訳です。」(江藤淳との対談「「本居宣長」をめぐつて」)

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