仮面的世界【18】
【18】予備的考察(余録ノ壱)─直立二足歩行がもたらしたもの
仮面の記号論へ向けて、草稿や古い書付を整理していると、今現在の議論にはうまく当てはまらないが、どうしても記録しておきたい断片が捨てられずに残る。そのなかから、「ネオテニー」に関するものを選んで余録として書いておく。
※
今西錦司は、直立二足歩行に関する「ネオテニー的起源論」を提唱している。
いわく、「人類を人類たらしめている、人類のもっとも顕著な特徴である」直立二足歩行への足どりを考えるとき、四足歩行でも二足歩行でもないというような移行状態を考えられるであろうか。翼とも前肢ともつかないものを与えられたトリがどうして生きてゆけるであろうか。もはや四足歩行の練達の士になってしまったものを、二足歩行の練達の士に変えることは至難の業であるだろう。成獣あるいはおとなになってしまったものでは、もはや手おくれである。
《変えるんだったら、子供のときに変えねばならない。ゴリラでも子供のときなら、わりあい楽に直立二足歩行ができるのを見た。だから人類の直立二足歩行も、おとながはじめたものでなくて、子供がさきにはじめたものにちがいない。ではどうして。ゴリラは直立二足歩行に定着できないのかといったら、それは生長とともにゴリラに、ゴリラの特徴とする形態が現われてきて、それが直立二足歩行を困難にするからである。それゆえ人類においても、もし子供に可能な直立二足歩行を、いつまでも持続さそうというのだったら、すくなくとも基本的には、子供の形態ないし体形を、失わないようにすることが、肝心であるだろう。ネオテニーということを取りちがえていないかぎり、以上が人類の直立二足歩行にたいする、私のネオテニー的起源論とでもいえようか。》(『主体性の進化論』(中公新書)188頁)
ここで、直立二足歩行が人類にもたらした出来事に関するアンドレ・ルロワ=グーランの議論を引く。
いわく、直立二足歩行によって自由になった手(道具と身ぶり)と顔(発声)が、それぞれ視覚と聴覚にかかわる言語活動の二つの極を受けもつことになった。これらのあいだにはハレーション効果があって、身ぶりは言葉を翻訳し、言葉は図示表現を注解するのである。
《書字を特徴づける線形図示表現の段階では、手と顔という二つの領域の関係が新たな進化をみせる。空間で音声化され線形化される書き言葉は、時間のなかで音声化され線形化される口頭言語に完全に従属し、口頭-図示という二元論は消滅する。こうして人間は、言語学的に単一のしくみ、つまりこれもますます一筋の推論の糸に論理的に統一されてくる思考を表現し保存する手段を保有するにいたったのである。》(『身ぶりと言語』(荒木亨訳、ちくま学芸文庫)335-336頁)
《象形行動は、言語活動と切り離すことができない。それは、現実を形象[フィギュール]によって口頭の表象や身ぶりの表象や物質化された表象[シンボル]のなかに反映するという、人間の同じ能力から出ている。もし言語活動が手を使う道具の出現と結びついているなら、象形化[フィギュラシヨン]は人間がそこからものをつくったり象形したりする共通の源と切り離せない。》(『身ぶりと言葉』563頁)
《…象形は技術や言語活動と同じ道を歩むのである。すなわち体と手、眼と耳の道である。それゆえわれわれがダンス、物まね、演劇、音楽、図示[グラフィック]芸術や造形芸術として区別するものは、他のもろもろの表出と同じ源をもつことになる。(略)語や構文において口頭言語形象は、道具や手の身ぶりと等価であって、物質やもろもろの関係の世界にたいする有効な手がかりをひとしく確保することを目指しているのにたいし、象形はそれとは別にリズムや価値の知覚という生物すべてに共通な生物学上の場に基づいているという違いはあるが、道具、言語活動、リズム的創造は同じ過程の連続した三つの側面である。
(略)音と身ぶりにおける象形のもつリズム性は、言語が技術の発達と時を同じくしていたように、おそらく地質時代が展開するにつれて出現した。》(『身ぶりと言葉』567頁)
文脈と論脈を考慮しない摘まみ食い的な抜き書きに終始した。ルロワ=グーランの世界に沈潜し始めるとしばらく戻ってこれなくなるので、このあたりで切り上げることにする。
ここで注目したいのは「手と顔」あるいは「体と手、眼と耳の道」という語彙である。私はこれを、つまり直立二足歩行が人類にもたらしたものを次の四項に分節して考えたいと思う。それはおそらくかの仮面の四態もしくは四相と関連してくるはずだ。
1.「体(足)」:戦闘・舞踏する身体、移動する足
2.「手」 :舞う手、描画・造型する手
3.「口(耳)」:歌い・詠い・語る口とこれを聞き・聴き・訊く耳)
4.「眼」[*]
(ルロワ=グーランの議論からは、洞窟=仮面や文字=仮面をめぐる考察のためのヒントをいくつか引き出すことができるが、ここでは先を急ぐ。)
[*]直立二足歩行がもたらしたものに関する三浦雅士氏の論考から。
《ベジャールの『春の祭典』は、四足歩行を捨てて直立二足歩行を始めた人類が、眼を通常に倍する高さに持ち上げて世界を眺める、その「視点がまるで空中に浮かび上がりでもしたようなたよりない不安」──つまり飛翔──のさなかで、「地平線」というものを発明した、という事実、その経緯を、はっきりと主題化しているのだ、と、私はいまは思っている。
見渡す限りの平原のさらに向こうに天と地が合する密度の濃い一線がある。その一線が誘う未知への憧れと不安が、人間を人間にしたのだ。いや、それを地平線として発明し、それにかかわる存在としての人間を発明したのだ。ベジャールは、『春の祭典』において、地平線こそ生と死の出会う一線──男女の出会う一線──であり、人間とはすなわち地平線的存在なのだということを、まるで人間という「考える身体」そのものを可視化するように、告知しているのである。》(『考える身体』(河出文庫)311頁)