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文字的世界【18】
【18】非感性的類似性─読まれない文字を読むこと・続々
ベンヤミンの後期言語論は、前節でその名が挙がった二つの論考、すなわち、ナチス政権成立の前後(ベンヤミンの軌跡に即して言えば、フランス亡命の前後)に執筆された「類似性の理論」と、その同じ年の夏にスペイン・イビザ島で書かれた「模倣の能力について」に極まります。
例によって、その道の先達、具体的には森田團氏の『ベンヤミン──媒質の哲学』の議論を援用します(以下は、「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第69章および第70章に書いた、なかば備忘録的な“摘要”をもとにしたもの)。
1.根源的産出
・ベンヤミン哲学の核心に「媒質 Medium」をめぐる思考がある。ベンヤミンにとって媒質とは関係する二項(自然と人間、等々)をはじめて根源的に産出する母胎であった[*]。「媒質を絶対的に、かつ根源的に思考することによってあらわになるのは、媒介者であるものが、逆に媒介するはずの二項を構造的に含み込んでいることにほかならない」(16頁)。
2.原ミメーシス
・ベンヤミンは初期言語論において「言語=名(Name)」としての媒質を論じ、後期言語論では「イメージ(Bild)」としての媒質から「言語(文字)」への変転過程──読むことがイメージを言語へと変転させるプロセス──の解明に取り組んだ。(334頁)
・無意識的なミメーシス、たとえば息子が父に似ていると言われる場合、それは息子が父を模倣することの帰結ではなく、生物学的要因による類似性を除いても、なおミメーシスの働きを想定することができる。「似ること」の生起のうちで秘かに働いているこのような潜在的なミメーシスを、森田氏は「原ミメーシス」と呼ぶ。(358-360頁)
・ベンヤミンによれば、線の受容は身体の模倣可能性と深い関連を持つ。このような発想を発展させれば、たとえば自然の音が音‘として’聞き分けられるためには、声による模倣が潜在的に前提となっていることになる。おそらく模倣は、根源的には、この〈として als〉を可能にするような行為、あるいは行為以前の行為なのである。(359頁)
・セザンヌによって描かれたサント・ヴィクトワール山の原像[Urbild]は、セザンヌが‘直観’し、描こうとした対象であるが、実際に存在するサント・ヴィクトワール山の‘知覚’に存するものではない。また原像はセザンヌの作品において単純に知覚されるわけでもない。知覚の対象としての作品には、基本的に原像は見出されることはないからである。(352頁)
この自然を自然として現象させるミメーシス的な出来事、原像を産み出すようなミメーシス的な出来事を、通常のミメーシスから区別するために〈原ミメーシス Urmimesis〉と呼ぶ。(360頁)
3.非感性的類似性
・ミメーシスと言語(文字)との関係を規定するため、ベンヤミンは「非感性的類似性」の概念を導入する。この「非」はたんなる否定ではなく、感性に先立ち感性そのものを可能にする「原感性」を指している。そうみなすことで、原ミメーシスを可能にしつつその彼岸に位置する起源の出来事に関係するものとして「非感性的類似性」を解釈することできる。ベンヤミンのミメーシス概念は、イメージ経験の根柢にある類似性の経験、それも「非感性的類似性」の経験との連関のうちで究明されねばならない。(372-373頁)
・ベンヤミンは、オノマトペが感性的な類似性によって理解されていることを批判する。語と意味の関係は非感性的類似性の概念によって説明しうるのであり、しかも音声言語と意味されるものだけでなく、文字のイメージ(文字像[Schriftbild])と意味されるもの、書かれたものと話されたもののあいだにも非感性的な類似性が支配している。(380-381頁)
・ベンヤミンが、「書かれた言葉が…その文字像[書体]と「意味されるもの」との関係を通じて、非感性的類似性の本質を照らし出す」(「模倣の能力について」)と言うのは、太古(古代・神話に先立つ過去)のイメージ体験を支配する非感性的類似性が、言語能力の行使のたびに何らかのかたちで働いているからにほかならない。(381-382頁)。
「非感性的類似性は、表意文字的なイメージが文字として固定されることによって、つまり物質的、記号的な基盤を持つことによって、衰弱していくのではなく、現象を文字として読むことのうちに、より確固として受け継がれる。」(399頁)
「文字は一定の形態に固定されることで、逆に非感性的類似性が出現する基盤となる。同時に文字は伝達内容の保存に資する道具として用いられ、表意文字的な次元は抑圧されることになる。にもかかわらず文字は読まれる限り表意文字的なイメージの次元を保持する。読むことにとって必要不可欠なイメージは、逆にアルファベットにおいて最小限に還元されたかたちではあれ保存されるわけである。つまり、類似性を見るというミメーシスに源を持つ能力は、言語能力に変転し、残余なく引き継がれるのだ。」(400頁)
・読むことは忘却されたもの(身体)を想起する試みでもある(401-402頁)
ベンヤミンはミメーシス論の第一稿「類似性の理論」で「魔術的な読み」と「世俗的な読み」の区別を呈示し、第二稿では省かれた「読むことの理論」を展開している。(406頁)
「たとえば占星術師は星の位置をまず読み取る。天空のイメージは表意文字的なイメージとして受け取られる必要があるのだ。そしてこの表意文字的なイメージから、ある意味が、すなわち「未来ないし運命」が読み取られる。魔術的な読みにおいては、そのつどイメージを文字と見立てなければならないうえ、このイメージを文字として見出す、〈時〉と〈意味〉とは密接に関連している。魔術的な読み方において、意味は文字に堅固につなぎとめられてはいない。むしろ意味はつねに過ぎ去るものなのだ。したがって、世俗的な読むこと[アルファベットを読むこと──引用者註]の安定性と引き換えに失われたのは、意味との一回的な出会いそのものを読むという[魔術的な]読み方である。」(407頁)
・ベンヤミンの後期言語論(ミメーシス論)において、魔術的な読みの可能性の条件として「名」が新たに構想されている。「イメージをそのまま言語へと反転させる可能性としての名」(413頁)。「イメージの翻訳可能性としての名」(414頁)。
「類似性の閃きが現在において一瞬のうちに過ぎ去るものならば、そして閃きの一瞬が同時に想起の瞬間であるならば、「類似性を見ること」(=イメージを見ること)を可能にするのはこの恩寵のような瞬間であるのであり、この瞬間はまたつねにすでに想起でもあるのだろう。そうであるとするならば、太古に位置づけられる原ミメーシスと同じ古さを持つものとして名が考えられているとは言えないだろうか。あるいは、「類似性を見ること」(=イメージを見ること)の可能性そのものを与える瞬間という時間が名であると言ってもいい。
ところで、魔術的な読みは、まさにこの瞬間を再び想起することだとも言えよう。魔術的読みという行為が照準を定めるのは、イメージと意味が出会う瞬間であるが、まさにこの瞬間──類似性の閃くとき──に、同時に名が、あるいはその可能性が想起される。」(415頁)
・読むことは「未来への想起」であり、そこでのみ名が「贈与」として与えられる。名が生きる時間、それはたんなる瞬間ではなく、「イメージと言語の出会いの可能性そのものを与え続けている最古の瞬間」なのであり、いわば「イメージの‘名’を保持している瞬間」なのである。
「…この瞬間の古さはイメージの太古、原ミメーシスの太古を指し示すのではなく、太古とともに潜在的に与えられていた未来の絶対的な古さを指していると読むべきだろう。(略)読むことが試みるのは、太古における未来、すなわち最古の未来を名において想起することなのである。」(416頁)
[*]媒質による二項の根源的産出をめぐる森田氏の議論を私なりに咀嚼し定式化すると、次のようなものになる。
M(a,b)⇒AmB
※M:根源的媒質(絶対的媒介)
m:媒介
A:自然、感覚、直観、対象、個別、…
B:人間・精神・歴史、思考、悟性、概念、普遍、…
⇒:根源的産出(根源的媒質が消去され、A・Bの二項が自立する出来事)
森田氏のミメーシス論の構図を、「韻律的世界」の第18節から第21節にかけて取りあげた「身分け・言分け」の概念に基づき階層化すると、次のようなものになる。
【第一層】
・「身分け」以前の「太古」の世界
・「原ミメーシス」(本文参照)を可能にしつつその彼岸に位置する起源の出来事
=イメージ経験の根底にある「非感性的類似性」の世界
【第二層】マテリアルな帯域
・「身分け」後かつ「言分け」前の「模倣する身体」の世界
・「原ミメーシス」のはたらきによるイメージ(やオノマトペ)の産出(根源的産出1)
=イメージを文字と見立て、意味との一回的な出会いを読む「魔術的な読み」の世界
【第三層】メカニカルな帯域
・「言分け」後の記号としての言語(アルファベット)の世界
・「模倣する身体」によるイメージから言語への変転(根源的産出2)
=意味が堅固につなぎとめられた文字を読む「世俗的な読み」の世界
【第四層】メタフィジカルな帯域
・「言分け」後かつ「身分け」前の「意味」の世界
・第一層から第二層への変転(根源的産出1)を鏡像反転的に反復して導出される世界
=「未来への想起」(本文参照)としての読むことのうちに「名」が贈与として与えらえれる瞬間