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ペルソナ的世界【14】

【14】人間のペルソナ、もう一人の「わたし」─ペルソナの諸相2

 “高層”から“地上”(人間の世界)に降りてきた「神のペルソナ」をめぐる話題を蒐集します。

 その3.八木雄二『「ただ一人」生きる思想──ヨーロッパ思想の源流から』

《聖者フランシスコの出現が、当時の人々が人間イエスを考えるきっかけとなったことは、大いにありうる。そしてヨーロッパにルネサンスが始まった。(略)
 …キリストの再来を思わせる聖者フランシスコという特異な人間が同時代に出現したことによって、人々は生身の人間イエスが、ごく自然に生き生きと想像できたことになった。フランシスコの行為は、キリストさながらの無私の行為だったからである。ところで生身の人間イエスを生き生きと思い浮かべることは、生身の人間一般の評価を高めた。なぜなら、イエスがキリストであったということは、生身の人間が神と一体化する価値をもつと見られることだからである[*]。ルネサンス芸術はまさしくその表現である。そしてスコトゥスのペルソナ理解も、キリスト論を通してこのルネサンス的人間理解の線上にある。
 それゆえ[フランシスコ会の]修道士スコトゥスは、ペルソナを考えるとき、人間界のなかの大物を考えるのではなく、フランシスコのような聖人を思いつつ、キリストのペルソナ自身から、人間が取り戻さなければならないペルソナ性を把握しようとしている。つまりペルソナ、は、堕落した人間からではなく、むしろ典型としては神のペルソナ(キリスト)を考察の出発点にしなければならない、とかれは考えているのである。》(八木雄二『「ただ一人」生きる思想』150-151頁)

 その4.八木雄二『キリスト教を哲学する』

《したがって聖霊は信者が感謝して神の外側から祈る相手ではありえても、「父」と「子」のペルソナと比べると、神の内で一個の別の「ペルソナ」と呼ぶのには物足りない側面がある。「ペルソナ」は神の内で独特の主体性ないし実体性をもつものとして理解されているからである。つまり、わたしたちの経験によれば、わたしたちの間で二人の人間が顔を突き合わせたとき、目の前の相手から受け取る独特の個性の印象(「わたし」とは全く異なるもう一人の「わたし」という主体存在の印象)が、ペルソナの主体性ないし実体性と呼ばれる。それが聖書の記述のうちで「父」と「子」のペルソナの間に、たしかにある。イエスも、父なる神に「なぜわたしを見捨てるのか」と、十字架による死の直前に訴えていたと伝えられている(マタイ福音書27-46)。このような訴えは、相手が別の主体であるという認識がイエスの側になければ成り立たない。
 しかし聖霊については、このような場面が聖書には出てこない。せいぜいイエスが「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(ルカ福音書12-12)と言った中で、聖霊が主語、主体となるものとして言及されているだけである。しかしこれだけでは、一個の独立した「ペルソナ」として一般人がイメージすることはむずかしい。それゆえ、信者にとっての聖霊のペルソナ性は、むしろ事実上、聖母マリア信仰の場面で生じている。聖母自身は、たしかに一個の人間である。神ではないから神のペルソナのうちの一つではない。しかし、神の子を宿し、愛した母ではあると見なされるから、信者が聖霊のはたらきの具体的姿として聖母を思い描くことは否定できない。》(『キリスト教を哲学する』187-188頁)

 その5.ジョルジュ・アガンベン「ペルソナなきアイデンティティ」
     (岡田温司・栗原俊秀訳『裸性 イタリア現代思想1』)

《今日、人間が剥き出しの生へと縮小している…。剥き出しの生はいまや、国家が市民にたいして認めるアイデンティティから成り立っている。アウシュビッツに収容された人びと…と同様に現代の市民は、匿名的なマスのなかで、潜在的な犯罪者と同一視されることで孤立を深め、生体測定的なデータによってのみ規定される。そして最終的には、いまだ不透明で理解しがたい、過去からの宿命の一種、すなわちDNAによって規定されるのである。(略)生体測定による本人確認はあらゆる権力装置と共通の性質を持っている。というのも、それは多かれ少なかれ巧妙に隠蔽された幸福への欲望を取りこみ、内面化しているからである。この場合に焦点となるのは、ペルソナの重圧から解放されたい、自身が身につけている道徳的かつ司法的責任から解放されたいという欲求である。ペルソナは(悲劇的な面相であろうと道徳的な面相であろうと)罪をもたらすものであり、ペルソナが含み持っている倫理は、分裂(個人と仮面の分裂、倫理的ペルソナと司法的ペルソナの分裂)にもとづくがゆえに必然的に厳格なものになる。まさにこの分裂に逆らうべく、ペルソナなき新たなアイデンティティは、仮面の唯一性ではなく、果てしない多極性という幻想を主張しているのである。ペルソナなきアイデンティティは、純粋に生物学的かつ非社会的なアイデンティティに個人を拘束しておくことで、個人にあらゆる仮面を、ありうべきあらゆる第二・第三の生を、インターネット空間のなかで好きなだけ身につけられるように仕向けるのだが、個人はそのなかのどれひとつとして、本当に自己の所有物とすることはできないであろう。》(『裸性』90-92頁)

《わたしたちは慨嘆するでもなく期待するでもなく、ペルソナ的アイデンティティともペルソナなきアイデンティティとも違う、人間の(あるいはたんに、生命体の、といったほうがよいかもしれない)新たな像[フィグーラ]を模索する準備をしておかなければならない。新たな像の容貌は、仮面を超えたところ、生体測定的な‘外観’を超えたところにあり、いまだわたしたちはそれを見ることができない。しかし、夢を見るかのように気絶しているとき、正気に返るかのように意識を失っているとき、新たな像の予感は時として唐突にやってきて、わたしたちを身震いさせるのである。》(『裸性』93頁)

     ※
 抜き書きした以上の文章には、①受肉した神のペルソナとしての人間のペルソナが、②聖霊のペルソナ性(霊性)もしくは「目の前の相手から受け取る独特の個性の印象(「わたし」とは全く異なるもう一人の「わたし」という主体存在の印象)」へと推移し、やがて、③「いまだ不透明で理解しがたい、過去からの宿命の一種、すなわちDNA」へと矮小化されていく“頽落”のプロセスが示されていました。
 ペルソナの諸相の次なる展開は、まず、②のテーマに深くかかわる森岡正博氏の仕事を一瞥したうえで、最後に、①と③のテーマにも関連する永井均氏の議論──すなわち、受肉(①)ともう一つの「過去からの宿命」である“記憶”に基づくペルソナ論(③)──を取りあげる、といった流れで進んでいきます。

[*]番外として、R・A・ニコルソン『イスラーム神秘主義におけるペルソナの理念』の邦訳書に寄せられた井筒俊彦の「序詞」の一節を引く。

《キリスト教の中核をなす三位一体の教義をまぎれもない多神教、偶像崇拝の一形態として糾弾し、キリストもムハンマドも含めて全ての預言者の神性を徹底的に否定することが、初期イスラーム思想の根本的立場だった。だが時の経過とともに、預言者ムハンマドにたいする信徒の尊敬と熱烈な愛とは、ムハンマドを、彼自身の意図に反して、次第に神格化していく。そしてここに至って、キリスト教のキリスト論とイスラームのムハンマド論とは、いわば平行線をなして展開しはじめるのである。》(『読むと書く──井筒俊彦エッセイ集』217頁)

 ──井筒の文章は続く。ニコルソンの著書がキリスト教とイスラームの「極めて微妙な」類似と相違を見事に描きだしていること、そしてスーフィズムにおける宗教的実存の主体性の本質的構造が「人格性」の観念をめぐって浮き彫りにされていること。「そこに展開されるスーフィー的主体の形象は、スーフィズムを越えて、より普遍的に、神秘主義的主体性の本質を衝く。」
 魅力的な世界だがこれ以上は深入りせず、ここでは、キリスト教、イスラーム思想のいずれにあっても、(キリストやムハンマドの神性をめぐる)ペルソナ論が神と人との間をつなぐ“媒介”として機能したこと(そのように私は捉えたこと)を確認しておきたい。

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