ペルソナ的世界【16】
【16】アニメイテド・ペルソナ─ペルソナの諸相3
森岡正博のペルソナ論、承前。
⑤“Animated Persona:The Ontological Status of a Deceased Person Who Continues to Appear in This World.”(2021)
⑥ “The Sense of Someone Appearing There: A Philosophical Investigation into Other Minds, Deceased People, and Animated Persona.” (2023)
⑦「誰かがそこに現われているという感覚 ──他者の心、死者、アニメイテド・ペルソナの哲学的探究」
/『現代生命哲学研究』第13号 (2024年)
アニメイテド・ペルソナをめぐる二本の英文論文のうち、⑥を著者自身が暫定的に翻訳したのが⑦である。以下、この日本語論文から、関連する個所をペーストする。
<「私はここにいる」という音波のない声>
《私は近年の論文[⑤]で、「アニメイテド・ペルソナ animated persona」の概念を導入し、脳死の身体や役者の顔に付けられた木製の能面でさえ、いったん様々なファクターによって活性化されればそれは人格性の現われる場所となり得ると主張した。それらのファクターとは、たとえば、患者と家族のあいだの人間関係の堆積、役者の舞台上での身体運動、そして彼らが置かれたダイナミックな文脈などである。私はアニメイテド・ペルソナを以下のように定義した:「アニメイテド・ペルソナとは、何かあるいは誰かの表面上に現われて発せられた「私はここにいる」という音波のない声である a soundless voice saying, ‘I AM HERE’ that appears on the surface of something or someone」…。ここで、「音波のない声」という言葉は、アニメイテド・ペルソナは五感を通して認識される幻覚ではない(つまり音声幻覚ではない)のであり、身体全体を通してのみ認識可能なものであるということを意味している…。 》
森岡氏は⑥で、アニメイテド・ペルソナの概念を次のように「再解釈」している。
<誰かが現われていると私に強く信じさせる音波のない声>
《アニメイテド・ペルソナは何かあるいは誰かの表面上に現われる。アニメイテド・ペルソナとは、私の前の人間の身体や物体の上に誰かが現われていると私に強く信じさせるところの、音波のない声である。それが周りの環境のなかにおぼろげに現われることもある。アニメイテド・ペルソナは、物体のもつ人間のような姿かたち、堆積した人間関係の歴史、物体に対する愛着、愛する人間への愛情、物体がコミュニケーションを取ろうとするふるまい、などの様々なファクターによって活性化されて現われる。アニメイテド・ペルソナは、眠っている子ども、亡くなった人間の身体、人間ではない物体の上にも現われ得る。》
このような理解のもと、森岡氏は「人間に似た何ものかの現われのメカニズム」について──死者の現われを現象学的に説明する「幻肢モデル the phantom limb model」や、人間ではないものの表面への現われを説明する「期待モデル expectation model」を組み合わせて──、様々な「現われ」のケースにごとに分析を進める。
アニメイテド・ペルソナが現われるいくつかのケースのなかに、そこに現われた誰かとの会話が同時に生起している場合、すなわち会話のパートナーが現われているケースがあることに触れ、この二つの現われは明確に区別しなければならないと指摘している。
<二人のパートナー、アニメイテド・ペルソナと会話のカウンターパート>
《大事なポイントは、私が話しかけているカウンターパートと、友人の身体の上に現われているアニメイテド・ペルソナは、異なったレイヤーに存在する異なったものであるということだ。というのも、アニメイテド・ペルソナは私によって主観的にのみ認識され得るのに対し、私の会話のカウンターパートは多くの人々によって客観的に観察され得るからである。友人と会話しているあいだ、アニメイテド・ペルソナのレイヤーにおいて私はアニメイテド・ペルソナの現われを感じ続け、そこから発せられる「私はここにいる」という音波のない声を聴き続けているのであるが、同時に会話のカウンターパートのレイヤーでは、私は双方向的で対称的で客観的に観察可能な言語のやりとりを目の前のカウンターパートと行なっているのである。この二つのプロセスは我々の会話において同時に成立する。もちろん前者は主観的であり、後者は客観的である。
もちろんアニメイテド・ペルソナとカウンターパートは存在論的に異なった存在者であるのだが、この二つが現われる物理的な場所は、通常ほとんど同一である。アニメイテド・ペルソナは友人の身体の表面上に現われ、私のカウンターパートもまた友人の身体の上あるいは内部に漠然と存在するように認識される。したがって、私が友人に話しかけるときには、私は自分の目の前にたったひとりのパートナーだけがいるかのように感じるのだが、それは正確ではない。私には二人のパートナーがいるのである:ひとりは友人の身体の上に私が感じるアニメイテド・ペルソナであり、もうひとりは私が双方向的な会話をしているところの、私の会話のカウンターパートである。 》
森岡氏の議論は、アニメイテド・ペルソナの現われの三つの重要な側面、すなわち「表面性」「投影」「道徳性」をめぐる考察──人間に似た何ものかが住みついたのは目の前の身体や物体の表面であって、その背後の領域ではないという「表面性の背後性よりの優越 the supremacy of surface-ness over buhind-ness」の概念の提唱など──へと進む。
最後に、「アニメイテド・ペルソナの概念は、ロボット倫理学における有益な概念的道具として働くことができる」といったアニメイテド・ペルソナ理論の“応用”もしくは“拡張”の可能性に言及しつつ論考が閉じられる。
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以上、摘まみ食い的な摘要になりました。森岡正博氏のペルソナ論、とりわけその現時点での到達点であるアニメイテド・ペルソナの理論をめぐって、ここで、気になった点や気がついた事柄について、いくつか覚書を残しておきたいと思います。
まず、私が気になったのは、アニメイテド・ペルソナの現われを表現するのが、なぜ「音波のない声」であって「顔」ではないのか、ということでした。
「汝殺すなかれ」とメッセージを発するレヴィナスの「顔」など、いかにもアニメイテド・ペルソナの概念に似付かわしいと思われるのに、そして何より、「私はこのラテン-日本語である「ペルソナ」という言葉を、和辻哲郎のエッセイ「面とペルソナ」から借りた」とわざわざ註を付けているにもかかわらず、なぜ顔(面)には一切触れず、特権的に「声」を取りあげたのか。
このことは、アニメイテド・ペルソナと「会話のカウンターパートナー」との存在論的区別の強調とも関連しています。声にならない(沈黙の)声、会話にならない(一方通行の)会話。唐突ですが、私がここで想起しているのは“固有名”です。
本稿「ペルソナ的世界」の第4節で、「「シューベルト」という名前はシューベルトの作品と彼の顔にぴったり合っているかのように、私には感じられる。」というウィトゲンシュタインの言葉(『哲学探究』第2部270節)を引きました。また、ベンヤミンが「言語一般および人間の言語について」で「固有名は人間の音声という姿における神の語」であると述べたことにも触れました。
おそらく、森岡氏のアニメイテド・ペルソナの概念をつきつめていくと、その有力なゴールの一つは(「彼の顔にぴったり合っているかのように…感じられる」)“固有名”になるのではないか。私はそのように考えます。
そのほか、森岡氏の議論は、「内なる心・意識」(シニフィエ)対「表に現れたアニメイテド・ペルソナ」(シニフィアン)といった記号論的構図への徹底的な拒否の姿勢に貫かれているわけですが、一方で、アニメイテド・ペルソナにはどこかしら「浮遊するシニフィアン」を思わせるところがあります。この点が少し気にはなりましたが、これはただそれはそれだけの話で、後がつづきません。
それより大切だと思うのは、森岡氏のペルソナ論と永井均氏の独在性の〈私〉をめぐる議論との関係です。これも結論めいたことを先に言ってしまうと、アニメイテド・ペルソナは、いわば「もう一つの〈私〉」という本来あり得ない存在について語るための概念装置として考案されたものだったのではないか、たとえば「アニメイテド・ペルソナ=〈汝〉」といった等式を念頭において。
このことについては、次回以降、永井哲学──ペルソナ論との関係において、私はそれを“永井神学”と呼んでみたい──を一瞥するなかで、再考したいと思います。