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推論的世界【7】

【7】ロゴス─“論理”をめぐって(6)


 無計画に進めてしまい、肝心の“論理”の諸相をめぐる話題を切りだす機会を失してしまいました[*]。

 論理には、実在性を欠いた単なる可能性にかかわる形式的なものと、世界の成り立ちに深くかかわる潜在的・創造的なものとがある、そしてこの第二の相における論理のはたらき(動き)が、推論にほかならない。このように、書いてしまえばごくあたり前のことを確認したうえで、先へと進むことにします。

 ただ第一の相における論理も、一皮むけば、あるいはそのもともとの淵源にまで遡っていけば、けっして単純簡明で御しやすいものではなく、どこかしら獣めいた、太古的呪術性に根ざしているに違いないと、私は直観しています。

 しかし、このことを詳しく立ち入って論じることができないので、最後に、(ここでもまた)先達の仕事を援用しながら、論理(深いロゴス)の凄みをあらためて味わっておきたいと思います。


 その6.中沢新一『精神の考古学』


 書名の由来となった二冊の書物のうちヘーゲルの『精神現象学』(あと一冊はフーコーの『知の考古学』)の原題は“Phänomenologie des Geistes”で、「精神」と訳された語は、「ガイスト」(ドイツ語)=「スピリット」(英語)=「スピリトゥス」(ラテン語)=「プネウマ」(ギリシャ語:大気や気息)=「霊」=「純粋な運動性(純動)をはらむもの」へと繋がっている。


《ヘーゲルは古代のプネウマ学を詳細に研究することによって、ガイストというものの実像に近づこうとした。彼はソクラテス以前のギリシャ哲学を研究して、ドイツ語の Geist の古層に、「動き」や「正気をはらむもの」、「(発酵が起こるときふつふつと湧いてくる)泡」や「酵母」などの古代的概念や、ラテン語からくる「アニマ」「スピリトゥス」などの概念が、深く埋め込まれている様子を観察している。そしてそれが「こころ(プシケー)」につながり、そこからさらに深い「ロゴス」の考えへとつながっていく。ヘーゲルはこうした概念の複雑な地下茎網の中から、彼自身の「ガイスト」概念を練り上げていった。

 ヘーゲル哲学は、「ガイスト(霊)の考古学」として誕生したのである。ヘーゲルは彼の学生時代にプロテスタント神学が推し進めようとしていた、ガイストを「父-子-霊」の三一構造から自由な霊に解き放つ運動に、大きな霊感を受けながら、独自の「プネウマ学」を創造しようとした。それを実行するために、三一構造の堅い岩盤を掘り抜いて解体していくことによって、その下から自由な状態にあるガイスト(霊)」のほんらいの姿を露わにしたのである。(略)

 こうしてヘーゲルのガイスト学としての哲学が構築されていった。『論理学』では、純動体であるガイストが概念をつうじて自己展開していく過程が、詳細に描き出された。純動体は弁証法によって運動し、自己展開をとげていく。それは「プシケー(こころ)」を生み出していく。》(『精神の考古学』386-387頁)


《ヘーゲルの「絶対ガイスト」は思考そのものと同一である概念であるから、それをめぐるさまざまな思弁はすべて観念の内部で起こることになる。ところがゾクチェンの言う原初的知性[イェシェ]は、物質的な四大元素の聲や他の生物種の聲への通路を保ちながら、法界(存在)をみたす知性である。物質現象も生物現象も、すべてが法界の中に生起していて、そこを原初的知性がたえまなく活動している。

 ヘーゲルの「絶対ガイスト」が純粋な運動性であるように、原初的知性も法界の純粋運動と一体になって活動している。しかし双方で働いている「論理」は違っている。「絶対ガイスト」はロゴスによって運動する。それにたいして原初的知性は縁起的なレンマの原理によって運動する。縁起の論理は法界を満たしているあらゆる事物が相依相関しながら全体運動をおこなっているので、物質も生命も観念もおたがいを巻き込みながら変化を続けていく。それゆえ原初的知性はそのもっともプリミティブな形態において、アフリカ的段階の思考であるアニミズムを生みだす。しかし「絶対ガイスト」からは、アニミズムの霊[ガイスト]が出てくることはない。》(『精神の考古学』396頁)


 ──宗教的思考の古層に根ざす「深いロゴス」。ここには、「ヒュポスタシス=ペルソナ」に匹敵する西欧哲学におけるもう一つの「概念のポリフォニー」がある。

 中沢氏の文章を読んで、西東欧キリスト教「神学」(テオロギア)における「弁明」(アポロギア)──弁明されるべきは神の存在であり、神にして人であることの背理であり、一にして三のペルソナをもつことの背理であった──は、世界を成り立たせる「推論」のこのうえない実例だったのだと、あらためて気づきました。「純動体(ガイスト)」が「伝導体」の別称に他ならないことも。


[*]予定していた話題を一つだけ取りあげる。以下は、京都学派の系譜に属する山内得立晩年の主著『ロゴスとレンマ』からの抜萃で、「哥とクオリア/ペルソナと哥」第49章に掲載したものの“再利用”。


1.三つの論理─同一律・矛盾律・排中律

〇論理の第一原則である同一律はパルメニデスによって、第二の矛盾律はその弟子ゼノンによって発見され、第三の排中律はアリストテレスの時代にはよく知られた法則となっていた。(9頁)

 形式論理学はアリストテレスの三法則によって大成し、長き中世期を経てカントに到るまで一歩も進歩しなかった。

〇カントの先験的論理学は同一律を「批判」し、ヘーゲルの弁証法的論理は矛盾律を「逆転」した。

 カントとヘーゲルによってヨーロッパの論理学は大成され、現代に到るまでそれ以上の新しい立場が創設されたためしはない。(13頁)

〇論理の第三法則、すなわち排中律の「逆転」を土台とする新しい立場は、インドの大乗仏教、なかんずく龍樹(ナーガールジュナ)の教学において見出しうるものではないかと思う。(15頁)


2.ロゴスの展開─差異・対立・矛盾

〇ロゴスは先ず言葉であり、そこには語られるもの(主辞)とそれについて語ること(賓辞)との区別があらわれる。

 語ることは人と人との対話であり、そこには語る我と語りかけられる相手とが分立する。その間にコミュニケーションが可能となり、判断が分立する。

 ロゴスが bivalence となり、ロジク(論理)が発展する。(35頁)

〇ロゴスの展開は肯定と否定との分立に始まり、肯定に対して否定が独立の意味と存在を保有するに至って達成される。(39頁)

 その第一段階は「差異」あるいは「欠如性 privatio」であり、第二が「対立」であり、第三が「矛盾」である。(40-43頁)

 フィヒテの哲学は「差異=欠如性」を方法論的立場とし、シェリングの哲学は「対立」を主要な原理とし、ヘーゲルの哲学においては「矛盾」が支配する。(51-55頁)

 ヘーゲルの弁証法論理はロゴスの思想発展の最後の、そして最高の段階である。(64頁)

〇ロゴスの発展にはなお一つのとり残された問題がある。それはロゴスの第三の法則たる排中律の逆転である。(65頁)

 東洋にはレンマ(lemma)の論理がある。西洋のロゴスと東洋のレンマを区別しながら共に含むことによって、世界全体の思想体系を樹立することができる。(67頁)


3.テトラレンマ─肯定・否定・両非・両是

〇レンマに二種あり、一はテトラレンマとしてインド大乗仏教の論理をなし、他はディレンマとして中国の老荘思想の論理を形成している。(序)

〇西洋の論理は bivalence であって、判断は肯定か否定かのいずれかで第三のものはあり得ない(排中律)。

 しかしインドではこの外に第三及び第四の立場がある。インドの論理は「中」を容認する。すなわち排中律を逆転して容中律を認めることがインド人の考えであった。(70頁)

〇仏陀の頃のインドに、人間の思惟の様式を尽くす「四論」の説があった。(一)肯定、(二)否定、(三)肯定にして否定、(四)肯定でもなく否定でもない場合というテトラレンマである。

 私(山内)は第三と第四とを逆にして、(一)肯定、(二)否定、(三)両非(両否とも)、(四)両是として、第三の両非の立場を全論理の中心におきたい。(71頁)

 大乗仏教の創始者・龍樹の「中論」第一偈は、諸々の有体が「不生不滅、不常不断、不一不異、不来不出」であることの主張であった(八不)。この論法は明らかに両非の論理、すなわち肯定でもなく否定でもない第三レンマの主張にほかならない。(72頁)

〇テトラレンマは第三レンマによって区切られる。

 第一と第二とは bivalence を立場とする世俗の論理であり、第三と第四は either-or の両者をともに否定する neither-nor の勝義の論理に属する。(73頁)


4.即の論理、ディレンマの論理

〇即の論理は第三レンマと第四レンマとの関係の論理であり、大乗仏教の勝義の世界を支配する原理である。

 それは矛盾律と排中律の支配する世俗の論理ではないし、存在と非存在とを関係せしめる媒介の論理でもなかった。(310頁)

〇第三レンマは単なる非存在ではなく、肯定を否定するとともに否定を否定する。否定の否定が肯定であるとすれば、第三レンマは外形上否定であるが実は否定と肯定を両有するともいえる。

 第三レンマ(両非もしくは両否)から第四レンマ(両是)への「転換」の可能性と必然性とはここにある。(313頁)

〇インド人の思惟方式がテトラレンマであるとすれば、中国人の思考はディレンマに支配されていた。(353頁)

 たとえば老荘の思想は「AはBでないからAはBである」式の逆説に終始している。般若の論理(鈴木大拙)は「AはAでないからAである」と説く。

 しかし、第四レンマが可能なのは第三レンマの絶対否定を前提してのことである。そのことなしにはレンマは論理でなく単なるドクサである。(354頁)

〇無から有を引き出そうとするのがディレンマの論理で、不生不滅(両非、絶対否定)から生滅(両是)を証明しようとするのがテトラレンマの論理であった。前者にはただ逆説があるのみで、後者において一つの論理が展開する。(374頁)


《無から有が生ずるのではなく、一から二が生ずるのでもなく無に於いて凡てがあり、一に於いて万物が存するのもこの第三のレンマによってであった。(略)不生から生に到るのは未だディレンマの立場に止まる。(略)否定は単なる無でなくして非有でなければならぬ。本無はただに「がない」ことによってではなく、「でない」ことによって基礎づけられる。(略)

 即の論理というのも無が即ち有である、有が即ち無であることではない。否定から直ちに肯定が生ずるということではない。それはロゴスに於いて背理であるのみでなく、レンマの立場に於ても容易に許され得ぬ逆説であろう。即の論理は必ず即非の論理でなければならぬ。このとき否定は不でなくして非である。非は否定として必ずしも不と同一でなく、非有(あらざること)がその当体をなす。例えば非人情は不人情から明別せられる如く即非は決して即不であることはできぬ。しかしこのような否定から如何にして肯定が措定せられうるのであるか。無が即ち有であるのではなく、無が何ものでもないならば無の否定からしては何ものが生ずべきであろうか。即の論理は両非と両是との関係であって単なる否定と肯定との関係ではない。肯定でもなく、否定でもないからして即ち肯定でもあり否定でもありうるのである。両非から両是に転換することが即の論理であった。この転換には何ら媒介を要しない。(略)ヘーゲルにとっては媒介は綜合に達すべき手段であり、少なくともその過程であった。しかし大乗仏教の論理はそのような媒介を要しなかった。その過程は綜合でなくして転換である。ロゴスの逆転ではなくしてレンマの転換であるに外ならなかった。しかし転換にはまた一つの論理がなければならぬ。それは両否[ママ]が直ちに両是となるという論理である。それは綜合ではなくまさに端的なレンマの把握でなければならない。両非から両是に転ずることはレンマ的論理によってその必然性が確保せられる。肯定の否定は非存在となり否定の否定は存在となる。第三レンマによって空は即ち色となり色は即ち空となりうるのである。しかも両非によって初めて両是がありうるとすればこの関係とその論理はテトラ・レンマの論理を措いて外にはあり得なかった。》(『ロゴスとレンマ』375-376頁)

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