ペルソナ的世界【11】
【11】高天の神々と荒ぶる国の神々─ペルソナの諸相1
その3.坂部恵「うつし身とおもて」
─高天の神々と荒ぶる国の神々
《〈うつつ〉は、たんなる〈現前〉ではなく、そのうちにすでに、死と生、不在と存在の〈移り〉行きをはらんでおり、目に見えぬもの、かたちなきものが、目に見え、かたちあるものに〈映る〉という幽明あいわたる境をその成立の場所としている。そこに、〈移る〉という契機がはらまれている以上、〈うつつ〉は、また、時間的にみれば、たんなる〈現在〉ではなく、すでにないものたちと、いまだないものたち、来し方と行く末との関係の設定と、時間の諸構成契機の分割・分節をそのうちに含むものである。》(『仮面の解釈学』195頁、『坂部恵集4』72頁 ※単行本収録に際して「うつし身」と改題)
《〈うつつ〉の世界、うつし身とうつし世がたがいにうつり合いながら、いわば一つの構造化の規則あるいはコードのもとに秩序づけられた表面[おもて]としての〈うつつ〉の世界は、すでにみたように、その上層と下層にそれぞれ目に見えぬ領域、「高天[たかま]」と「荒ぶる国」をひかえた、中間領域として構成され、立ちあらわれる。
ところで、〈うつつ〉の世界を〈うつつ〉の世界として構造化しコードづける規則、あるいはコードはどこからくるかといえば、これもすでにみたように、それは、「高天」からくる。(略)
高御魂[たかみむすび]の命[みこと]などの「命」は、同時に「御言」 Verbum,Logos でもある。(略)
「命」は、同時に「御言」であり、神王[かみおや]の命を「顕し斎る」皇御孫の命によって告げ知らされ「告[の]ら」れる「みことのり」(御言宣り)は、〈うつつ〉の世のもっとも基本的な構造を示す規則[のり]として、「みこともち」たる臣下によって、国の諸方にもち伝えられ、荒ぶる神どもを、「鎮め平け」て、「顕し事」を「顕し事」として構成する。]》(『仮面の解釈学』201-202頁、『坂部恵集4』78-79頁)
《仮面[おもて]とは、〈うつつ〉の世界に、〈うつつ〉の世界とは別種の構成原理[コード]をもった下層の深みの世界が映じ、たちあらわれてくるところに成立する。いわば一種の〈反-うつ〉、超現実の世界において立ちあらわれてくるものにほかならない。(仮)この二重に意味づけられ、多元的に決定された境位において、通常の〈うつつ〉の世と〈うつつ〉の身の表面[おもて]は色あせ、通常の〈うつつ〉の世界の構成規則[コード]からすれば、一片の物体にすぎぬ仮面[おもて]が、世界と心の深みからくみとられたより深い生命をおびてかがやき出る。
(略)
「石ね・木立・青水沫も事問ふ」世界、「蛍火のかがやく神、また蠅声[さばへ]なす邪[あら]ぶる神」の世界、主体なき思考としての夢の世界もまた、それ固有の確固とした構成原理をもつ。この別種の構成原理によって構成された世界の生命が、ときに、〈うつつ〉の世界を破ってたちあらわれ、たとえば、異形の神々の〈仮面[おもて]〉を通してかがやき出る。
「高天[たかま]」の神々あるいはその名代もまた、ときに仮面[ペルソナ]のすがたをとって、異形の神々を「鎮[しづ]め平[む]け」る役柄をおびて、たとえば祭式のドラマの中心部分に登場することのあるのは、よく知られたところだが、すでにみたように、こちらの方は、「御言」をその決定的な審級としてもつものであるがゆえに、むしろ、地霊をはじめとする下層の神々の仮面[おもて]の相手役として(アルトーのいう〈ことば〉をその決定的構成契機とせぬ残酷[クリュオーテ]の演劇の二次的なペルソナとして)、いわば前者にさそい出されてはじめて登場するとみなすべきものなのかもしれない。(ペルソナ)を、〈位格〉として、第二の位格[ペルソナ]たる Vebum,Logos を中核とした〈三位一体〉のうちに閉じこめてしまったキリスト教文明のなかで、仮面劇が衰退して行ったことの意味をおもうべきだろう。》(『仮面の解釈学』204-206頁、『坂部恵集4』81-83頁)
──「移る=映る」とは、「受肉」(©永井均)のことだろう。受肉、つまり「現実性」の世界に属する事象が「実在性」の水位に「移る=映る」こと。あるいは、『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』における永井均氏の表現を借用して、次のように言えるかもしれない。
すなわち、「どんな天使にも最低限の質料があるように」(137頁)、いかなる「独在的」存在にも、言い換えれば、およそ「かたちなきもの」の世界=「現実性」の世界に属するいかなる存在にも──‘上層’における「高天」の神々であれ、‘下層’における「荒ぶる国」の異形の神々であれ──最低限の「受肉の事実」が、つまり「実在性」=「うつつ」=「表面(おもて)」の世界に「移され=映され」た‘何か’が──「仮面(ペルソナ)」の姿をとった高天の神々であれ、「仮面(おもて)」のかたちをした異形の神々であれ──ともなうのだと[*1・2]。
《フィルム[=うつつ=実在性の世界──引用者註]をどんなにくわしく調べても、どこが現在であるかはけっしてわからないとはいえ、その逆に、スクリーン[現実性の世界]上に現に映っている映像の内容を調べてみれば、それがフィルム上のどこに対応するかを知ることができる…。端的な現在[独在的存在]や端的な私[同]を、そちらの側からフィルム上に位置づけ[移し=映し]、いつであるか、誰であるかを知ることは可能で、むしろかなり容易な仕事なのである。これがすなわち受肉の秘儀であり、そこには必ずいま述べたような一方向性がある。このように捉えた場合、自己意識[仮面(ペルソナ)や仮面(おもて)]とはこの一方向的受肉の別名であることになる。》(『世界の独在論的存在構造』135頁)
[*1]ここで自問自答。私がかねてから想定している“理論的”な図式では、実在性=うつつ=表面(おもて)の世界、すなわちメカニカルな界域(水平軸)をはさんで、上方にメタフィジカルな界域が、下方にマテリアルな界域が設えられている。この枠組みに準拠するなら、前者のメタフィジカルな界域に「高天」を、後者のマテリアルな界域に「荒ぶる国」をそれぞれ配置し、この「高天/荒ぶる国」の垂直軸を「現実性」すなわち「かたちなきもの」の世界と捉えることができるように見える。
しかし、私はそうは考えなかった。「高天」や「荒ぶる国」が「現実性」の世界に根ざしていることは間違いないが、それらは共にマテリアルな界域に属するものである。込み入った言い方になるが、マテリアルな界域の‘上層’に「高天」が、‘下層’に「荒ぶる国」が位置づけられるということだ。(これに対してメタフィジカルな界域に配置するのは、一神教の人格神あるいは「一者」とでも総称すべき超越的存在がふさわしい。)
そうだとすると、「受肉」という概念をこの局面(坂部恵の仮面論、ペルソナ論)に持ち込むのがそもそも妥当だったかどうかという疑問が生まれる。これに対する私の考えは、「受肉」には広狭二義があって、メタフィジカルな界域からメカニカルな界域への「一方向性」をもったそれを狭義の「受肉」と呼び、マテリアルな界域からメカニカルな界域への「一方向性」をもったそれを「憑依」と名づけて、この両者をあわせて広義の「受肉」と解するというものである。
(ここでもまた込み入った言い方をすると、マテリアルな界域からメカニカルな界域への「一方向性」をもった憑依物のうち、「憑依」の語によりふさわしいのは「仮面(ペルソナ)」の方である。これに対して「仮面(おもて)」には、憑依とは別の、まだ見つけることができていない語──たとえば「ペルソナ→モノ(ヒト)」の「憑依」に対する「ペルソナ(ヒト)←モノ」の「逆憑依」のような?──をあてはめて、これら狭義の「憑依」と未知の語の両者をあわせて広義の「憑依」と解することができる。)
[*2]坂部恵によると、「仮面(ペルソナ)」とは「ことば」(Verbum,Logos)であり、「仮面(おもて)」もまたこれとは異なる「ことば」(主体なき思考としての夢のことば)であった。私は前者をシャーマンによる憑依の「ことば」に、後者をアニミズム的世界におけるモノの「ことば」に準えることができはしまいかと考えている。(これらに対してメタフィジカルな界域から降下するのが預言者による啓示の「ことば」であろう。)
最後に場違いな蛇足を一つ。本文において。前回から今回にかけて「©永井均」の印をつけて導入した「実在性」「現実性」「受肉」の概念については、いずれ「ペルソナ的世界」の“締め”の議論のなかであらためて取りあげるつもりである。